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「日本三大酷道」、その中でも「キングオブ酷道」・「最凶酷道」として酷道マニアから神聖視されている国道(今も国道であるらしい)が、岐阜にある。 木曽川の丸山ダム湖北辺を走る区間だが、現在建設中の新丸山ダム完成予定の2029年以降コースの一部が水没する。そのことがより一層この道を神聖化しているのだろう。 かってこの道は生活道路としてバスも通っていたらしいが、今はコースの大半が通行止めとなっていて、路面の補修などは放置されている。ただ進入は黙認されているようだし、草刈りや倒木処理など最低限の整備はされているようだ。 すれ違い困難な狭隘ダート路面、落石・倒木など走行は自己責任。ケータイの電波も届かない「命掛け」が大袈裟でないコース。 全コースは長いので早回しで見て貰うなり、特に酷道ぶりが顕著な後半だけでもご覧下さい(You tube 動画説明文から)。
下の画像をクリックすると、国道418走行のYou Tube動画が開きます。
]]>この雑文は「武蔵野」に興味を持った地質学門外漢の管理人が、その理解の為にはどうも関東地方・関東平野全体の成り立ちを知る必要が有るらしいことに気が付き、その為の自分の頭の整理用にまとめてみたものです(何しろ入り組んでいて通り一遍に読んだだけでは到底理解できない)。
書籍やNetからの引用、孫引きに、管理人の独善的な解釈を加えてのものです。
良い子の皆さんはこの怪しげな雑文を決して、真に受けたり鵜呑みにしないようお願いします。
クリック、拡大表示でご覧ください。巨大な図です。スクロールしながらご覧ください。プロットしてある地名は必ずしも市街規模の大きい順では有りません。地質・地形上キーポイントとなるだろう、地名を表示しました。
マウスオーバー(マウスを図に重ねる)で、地図表示の有無が切り替わります。
関東平野の成り立ちを、細かいことは抜きに大雑把に見てゆくこととする。
なお次に述べる各イベントは必ずしも順番に起きた訳ではありません。長い地質学的歴史の中で、同時並行進行したり後先逆になったり………、事実、地層も下から順に整然と積み重なっている訳じゃないし場所によっても入り組んでいます。串団子のように一つづつの出来事が整然と順番に重なっているのでは無いことだけご理解ください。そもそも順序を辿って書き出すこと自体大それたことかも知れない。
しかし、大きな流れとしては概ね次のような経過を辿ってきたようだ。…と信じたい。
関東の西側、埼玉県から神奈川県に広がる「関東山地」は、2億年前~500万年前に掛けて形成されたらしい。
この地域の山地は、檜原村の秋川をはさんで北の埼玉側がより古く、南の神奈川側がより新しい。北側の地層の中には石灰岩やチャートの層があり、山地の中に鍾乳洞がある。つまり海の底で堆積した地層だと言うこと。
そのころ山地の地域は暖かい時代の外洋火山島だったそうだ。埼玉県側の関東山地に地層が積もっていたころ、東京はまだ火山島で、関東山地の隆起が北側からはじまり、東京の地域に広がってきて、火山島が「本土の陸地」に取り込まれた。だから、神奈川県に近い山地では、石灰岩やチャートの地層はなくなる。
※ 石灰岩、チャート
石灰岩もチャートも生物由来の堆積岩。
石灰岩はサンゴや貝類・有孔虫等、比較的浅い海での堆積によるもので炭酸カルシウムを主成分とする。酸による化学反応で比較的容易に溶けるため、雨水に含まれる酸によって巨大な洞窟や鍾乳洞、中国桂林に見られる柱状の景観が出来る。
チャートは二酸化ケイ素(石英)を主成分とし、この成分を持つ放散虫や海綿動物などの微生物の堆積が由来と考えられている、が、無生物由来との説も有る。大陸から遠い海洋底で堆積したものがプレート移動などによって運ばれたもので、砕屑粒子(泥・砂・火山灰など)をほとんど含まず、又深海堆積の為炭酸塩化合物を含まない。石灰岩と違って非常に固くハンマーでも中々割れず火打石にもなる。層状に堆積し、含む成分や環境により色も様々(飛水峡参照)。
(上総層群とは)第三紀鮮新世~第四紀更新世古期(※ 1)までの一連の海成層で、砂岩、泥岩および凝灰質砂礫などからなり、三浦層群を不整合に覆い房総半島南部や多摩丘陵では広く地表に露出しているが、下総台地や武蔵野台地では下総層群に覆われ関東地方の基盤をなしている。
模式地は房総半島中央部の養老川から勝浦市にかけての川沿い。下位から、黒滝層、勝浦層、浪花層、大原層、黄和田層、大田代層、梅ヶ瀬層、国本層、柿ノ木層、長南層、笠森層が整合的に重なる。(Wikipediaから転載)
※ 1 鮮新世(約 533万2000年前から約 258万8000年前の期間)
第四期(258万8000年前から現在までの期間)
500万年前今の関東地方南部の大半は海の底だった(※ 2)。上掲地形図北部の山地或いは関東山地エリアを除き、多摩丘陵や武蔵野台地(これらが積みあがったのはずっと後)、房総半島を含む大半のエリア(図では黄色から緑色の部分)がおそらく海の底だった。
多摩川の河口は従って今の青梅付近だった訳だし、利根川や荒川も北部の山から直接海に流れ込んでいたことだろう。
この海の底で、山からの土砂、海による堆積物などが入り交じり堆積、長い年月で圧縮・固化した平らな地層が「上総層群(※ 3)」と呼ばれる地層で、細かな年代や堆積場所によって異なる幾つかの層の総称。
上総層群を堆積させた海盆の中心は本地域の南東方の房総半島にあって,当時この海は関東平野の大半を含む広い海湾をなしていた。上総層群は長い間の堆積で厚さは2000メートルを超すところもあり、東京湾の底を超えて関東地方ほぼ全域の土台となっている。建物を建てるときには最も信頼できる地盤となっている。
上総層群は多摩丘陵、房総半島などで地層の露呈が見られるが、関東平野中央部では、次に述べる「関東造盆地運動」による沈降・度重なる堆積に覆われて普通は見られない。東京では多摩川中流域(昭島、宿川原)、神田川下流、仙川の一部などで見られる。
※ 2 1961年1月8日、昭島で500万年前に生息していたであろうとされるクジラの化石が発見されている。今その現場は「クジラ公園」として運動公園になっている。
昭島はまた多摩川河床で上総層群が「牛群地形」、又は「クジラ状地形」と呼ばれる珍しい状況で露呈している地質学的にも貴重な場所でもある。
※3 「上総」とは今の千葉県中部を指していた地名。地層堆積の中心であり、この地を模式地(地層の標準となる露頭がみられる特定の地域)としていることから「上総層群」と呼ばれる。
関東平野は、新第三紀(※4)以来続く、関東造盆地運動という変化により形成された。これは現在の関東平野の中央部を中心にして沈降が起こり、周囲の山地などが隆起する運動である。これにより周囲の山地からの土砂が非常に厚く堆積し(第三紀層が3000mにも達する)、それがさらに隆起することにより丘陵や台地が多く形成された。フォッサマグナの東縁線、中央構造線などの大型の構造線が平野の中央部に存在すると考えられているが、このようにして軟らかい堆積層が厚く積もっているため、地震の発生原因となる活断層を発見することが困難になっている(断層は堆積層下の地下3000mの基盤に存在する)。(Wikipediaから転載)
※4 新第三紀(地質時代の区分の一つで、2,303万年前から258万年前までの時代を指す)
Wiki記述の「第三紀層が3000mにも達する」と有るのは時期的に、イコール上総層群と理解していいのだろう。
関東造盆地運動とは、500万年前頃から始まりWiki記述に有るように周囲(東側の山地、下総台地など)が隆起し、その中央部で沈降が起こる現象。これにより、現在の関東平野の骨組み、関東堆積盆地ができた。
この運動は現在も進行中で、多摩川の扇状台地である武蔵野台地が、青梅を扇頂としてきれいな同心円を描かず南東に大きく張り出しているのは、南東側が沈降している為であり、この動きは玉川上水のコース取りにも(好)影響を与えている。
関東造盆地運動が最初地質学的に実証されたのは1936年(大塚弥之助氏)で、横浜・川崎付近の地表で観察される洪積世前期の地層が埼玉県不動岡(現 加須市)の地下100mにあることをボーリング 試料の検討から確認したそうだ。
ここに出てくる「加須(かぞ)市(加須低地)」は関東造盆地運動を見るうえでのキーポイントの一つで、加須市(加須低地)から荒川下流(東京低地)に掛けての線上が沈降の中心となっている(地形図参照)。例えば羽生市小松古墳の埋没速度は年間2.2ミリと言う驚くべき数値が計測されているようだ。実際これが1979年発見されたのは1.5mの溝堀りの際だったし石室の床面は地下約3mだったと言う。
考古遺跡の埋没自体は珍しいことでは無く、風や河川が運んできた堆積物に覆われ、20~30cm、時に50cm近く埋積されるのは普通に見られる。それとの比較でみてもこの沈降は際立っている。こういう例は関東平野中央部の至る所で見られる。
なお平野全体の平均沈降は年間0.7ミリ程度になるそうだ(これでも目を見張る大きさ)。
日本列島は歴史的に何度も地殻の隆起と沈み込みを繰り返している。
又、地殻変動と言うより気象変動と言うべきかも知れないが約200万年前からの氷河期の始まりに伴い、氷期には海面が低下し関東堆積盆地が陸となり、間氷期には逆に海に没することが、1万年前の氷河期終了まで何回も繰り返された。
70万年前頃から日本列島の隆起がより顕著となり氷期の海面低下と相まって、関東でも上総層群が陸地となる。特に30万年前頃から周囲の隆起が顕著となって東京山地が高度を増し、それまで山から直接海に流れ込んでいた川が陸地を流れるようになる。これを「延長川」と言う。
平野部はおそらく関東造盆地運動によって逆に沈降が進みつつあっただろうから、急勾配で流れ落ちた川は今まで海に流し込んでいた大量の土砂を、流路も定まらないまま今度は地上に撒き散らしたことだろう。関東平野は一面の氾濫原(河原)となり礫層が堆積する。間氷期には海面が上がり海からの砂泥層も堆積する。
この時代堆積した砂泥層・礫層を「東京層」と言って広く東京全体の基盤となっている。古い地層はおそらく何度も氷河期の氷床に押しつぶされながら固く締まり、特にその上部、厚さ5~6メートルの礫層部分は東京礫層と言って固く締まっていることから高層ビルを建てる時の支持層となっている(※ 5)。東京層が堆積したのは立川以東で、立川以西は上総層群のままである。
なお上総層群の堆積は海の中に限られた訳で、この時代で基本的に上総層群の形成は完了したとみていいのだろう。
流れる川は土砂を堆積させるだけでなく出来上がった地表を浸食し谷も作った筈だ。その谷は海面上昇の際の砂泥が埋めたり………。
次に述べる狭山丘陵や多摩丘陵はこう言うメカニズムで出来たのだろう。
狭山丘陵はこの時古多摩川が置き残した「芋窪礫層」で出来ている。同じ頃神奈川では今とは違って西から東に流れていた古相模川が、狭山丘陵の一部(北部の頂部)を形成する「御殿峠礫層」を積み残す。又この時の礫層は府中市の浅間山(せんげんやま)にも見られるので、この当時多摩丘陵から狭山丘陵に掛けて、土砂を運んだ川は違っても同じような河原敷が広がっていたのだろう。その後多摩川の浸食によって切り離され、浅間山も狭山丘陵も台地の上の浮島のような様相を呈している。今それぞれ独自の「浮島」はかって同じ時代のいわば異母兄弟と言える。
この頃、火山活動も活発になり、八ヶ岳や箱根火山の火山灰が丘陵の礫層の上に堆積して多摩ローム層(※ 6)を作った。
※ 5
東京層、東京礫層
建築基盤としては、粒子のそろった細かい粘土層や砂層より不均衡な礫層の方が堅固(N値が高い)。東京礫層は上総層群と並んで建物の土台としては最も信頼できる基盤となる。
日本に高層ビル群が最初に建設されたのは新宿副都心である(霞が関ビル、世界貿易センタービルが先行するが、高層ビル群としては新宿副都心が最初)。
その理由は、淀橋浄水場跡地の広大な敷地が有ったことと合わせ、支持基盤としての東京礫層まで浅かった(20メートルほど)ことが大きな要因。つまりそれだけ打ち込む杭を短くできるし、表層を掘って基盤に直接建てることもできて、費用、技術が容易だったから。
1957年に出来た東京タワーも東京礫層まで10メートルと言う立地から建設地が芝に決まったのだとか。
一方東京スカイツリーは東京礫層まで50メートル。つまりそれだけの建設技術の進歩が有っての墨田区立地となったのだろう。
※ 6
ローム層
主に火山灰が風化・堆積してできた地層のこと。赤褐色の火山灰質粘性土なので俗に「赤土」ともいう。「ローム(loam)」自体は、砂・シルト(粘性土)・粘土などが含まれた混合物を意味するもので、特に火山起源物質であるかどうかは関係ない。
関東ローム層
関東地方西縁の富士・箱根など、北縁の浅間・春名・赤城・男体山などの火山砕石物(火山灰)が堆積した地層。直接の噴火降灰と言うことでは無く、多くは風によって運ばれたいわばホコリ。その形成は噴火の時期によって10数万年~1万年前と言われる。鉄分の酸化により赤っぽい色をしてるが、最近1万年分の堆積つまり表面近くは黒色をしていて黒ボクと呼ばれることもある。灰の他軽石なども含むが、東京の場合噴火源から遠い為粒子も細かく、雨が降るとネチャネチャして靴にくっつくし、乾燥するとポサポサと粉状になって歩く靴にまとわりつく。
堆積した年代、地層などの違いにより、多摩ローム、武蔵野ローム、立川ロームなどと呼ばれる。
下末吉海進は、約12万5000年前の間氷期に、日本各地の平野部に海が進入した大規模な海進である。その規模の大きさから縄文海進が起きた6000年前よりも下末吉海進が起きた時期(下末吉期)は温暖な気候であったとされている。横浜市鶴見区の下末吉地域にちなみ命名された。
下末吉海進も縄文海進と同様に日本各地で確認されているが、神奈川県では東京湾側、相模湾側から海が入り込み、綾瀬市や海老名市、厚木市付近まで海が入り込んでいたと考えられている。下末吉海進のときにたまった地層は、下末吉層または下末吉層相当層といわれ、神奈川県東部によく保存されている。下末吉層は神奈川県以外でも確認ができる。(Wikipediaから転載)
何度も海面の上昇・低下を繰り返してきた関東平野だが、12万5000年前の下末吉海進は最大で、当時の海水面は現在より5~6メートル(10~20メートルとの記述もある)高かったと推定される。現在の関東平野の大部分が「古東京湾」と呼ばれる浅い海で覆われ、房総半島は島だった。その海の中で、周辺の関東山地などからの土砂の流入・堆積、箱根火山などからの火山噴出物、及び海成堆積物が積み重なった。水の中では地層面が平坦になる。高いところは削られ低いところは砂泥が埋める。
この間氷期の終了後ヴェルム氷期の始まりによる海退で、関東平野は再び陸となり、下末吉海進による堆積は平坦な台地状の地形を残す。これが「下末吉面」と呼ばれる台地で、横浜市鶴見区下末吉にこの地層の発達した露頭部が見られ、ここを模式地としたことで名づけられた地層。
下末吉海進は現在の関東平野の原型を作った出来事と言える。
関東平野の中央部では関東造盆地運動によって沈降し、その後の武蔵野礫層の堆積に埋もれている。しかし武蔵野台地でも何ヶ所かは下末吉面が顔を出している場所が有る。
上掲地形図で赤円或いは赤楕円の部分が、武蔵野台地上の下末吉層。
ここで実はドシロウトなりに疑問が一つある。
武蔵野台地上で顔を出している下末吉面は、おそらく何らかの理由で高いところが有って武蔵野礫層の堆積を免れたのだろう。事実武蔵野礫層より下末吉面の部分が標高が高い。
しかし、だ。多摩丘陵や下総台地など周辺部は関東造盆地運動による隆起で盛り上がり、地表部に露呈していても不思議はないとして、武蔵野礫層堆積前の関東中央部では、海成地層である下末吉面は非常に平坦だった筈だ。結構な厚さを持つ武蔵野礫層の堆積を免れるほどの凸凹が有ったのだろうか? しかも或る方向に傾いているのでなく場所も飛び飛びだし。
東京低地に下末吉面は(多分)無いが、それは関東造盆地運動による沈降や古東京川による浸食、それを埋める沖積層の堆積で下末吉面が埋没している、と言う説明で理解できる。しかし、だったらどうして武蔵野台地で残っているのか?
知っている人にとっては分かり切ったことで「何を愚かな」と言われるかも知れない。そう言う人にお願い。誰か教えて!!
武蔵野台地の形成についてはどうもイマイチハッキリしたイメージを持てない。その土台となっている上記下末吉面での「疑問」と関連するのかも知れないが………。
下末吉海進によって堆積された地層がその後の氷期の進行に伴う海面低下で陸地化し、それを多摩川などが浸食、削り残した部分が台地として残ったのか、或いは下末吉面に多摩川などが土砂を積み上げて台地になったのか? おそらく幾つかの要因・イベントが絡み合って同時進行したのだろう。
以下、管理人の脳内妄想も加味しながらの「武蔵野台地形成」シナリオ。
下末吉海進を引き起こした温暖気候が終わり、およそ7万年前頃から最終氷期が始まる。
それに伴い海面が徐々に低下し、下末吉海進で出来た平坦な地層が陸地として顔を出す。
今でも奥多摩の広い山に降った雨は多摩川に集中する訳だが、小河内ダムが造られる以前、かっての土石流の凄まじさを御嶽渓谷などの巨岩で偲ぶことが出来る。山を削りながら流れ下ってきた古多摩川が、今の青梅付近で急に開けた平坦な地層の上に大量の土砂を堆積、青梅を扇頂とする広大な扇状地を作る。この堆積が武蔵野礫層であり、武蔵野台地の基盤となっている。武蔵野台地は日本でも有数の洪積台地(※ 7)。武蔵野台地にはこの礫層の上に関東ローム層が概ね5~15mの厚みをもって堆積している。
扇状地礫層の堆積は古利根川、古荒川などでも起こったことで、当時今の武蔵野台地と下総台地、そして当然大宮台地もこれら河川の堆積で一つの面として繋がっていたらしい。関東平野一帯は周りの山地から流れ込む何本もの河川の氾濫原だった。
地形図を見ると、今の武蔵野台地東端の鶯谷付近と、下総台地の西端、市川市が乗る国府台地の間が、東京低地の谷幅が最も狭くなっている。この谷はこの後述べる河川の浸食によるものだろうが、かってこの2点を結ぶ線がおそらく、押し寄せた扇状地礫層(武蔵野礫層)の末端だったのだろう。
更に氷期は進行し海面低下が著しくなる。最終氷期の最寒冷期は約2.1万年前だそうだが、この時代海水面は今より120メートル以上低下したという。台地を流れる川は海に向かって急激な下り勾配となり河流の浸食力は増大する。
当時の利根川(ほぼ現在の荒川の河道)、渡良瀬川(ほぼ現在の江戸川の河道)、多摩川は河谷を成し、当時陸地であった現在の東京湾内湾部の中央やや西寄りで合流し、古東京川となって現在の外湾部へ注いでいた。今でも内湾部水深30 - 80mの海底に河谷の痕跡が残っているそうだ。
この圧倒的な河川の浸食作用に加え、関東造盆地運動による地殻の沈降も加わって、現在の東京湾の凹地及び東京低地の谷は形成されたのだろう。削り込み(下刻)の深さは東京低地の南部で70メートルを超えるという。
河流は下方浸食と共に蛇行による側方浸食も行うので谷幅を広げる。これによりかっては一続きだった武蔵野台地と下総台地が大きく切り離される。同じように大宮台地も東側を古利根川、西側を古荒川などによって切り離される。
おそらくこの時に今の武蔵野台地の北辺、黒目川や不老川がその底を流れている谷も多摩川によって刻まれた。
更に、北上して利根川や荒川と合流していた多摩川は、自ら積み上げた武蔵野台地に阻まれて流路を南東に変更したのであろう、台地の西側を流れて東京湾に注ぐコースを取る。今より幅広く水量豊かな急流は、台地を削って河岸段丘を形成、その時に出来た段丘が国分寺崖線であり、立川崖線(青柳断層、府中崖線など幾つかの河岸段丘の総称)となる。
国分寺崖線は台地上の武蔵野面と浸食された立川面を分かち、立川崖線は立川面と多摩川低地を分かつ。それぞれの面には火山噴出物由来のローム層が堆積する。
約1万年前、最後の氷期が終わり地球気温は上昇に転じ、関東地方の広い部分がふたたび海になる。温暖化と海面上昇は6千年前の縄文時代がピークで「縄文海進」と呼ばれるが、海面は現在より2~3メートルほど高かった。
この海進は貝塚の分布調査によって着想され、その規模も貝塚の分布で裏付けられている。東京湾は渡良瀬川河道では板倉町付近まで、利根川河道では川越付近まで湾入したらしい。この頃の広がった東京湾を指して奥東京湾と呼ぶ。
この海進により、最終氷期時に各河川が削って形成された谷地形に砂や泥が堆積する。この地層が沖積層であり、沖積低地(※ 7)、特に武蔵野台地の東側から東京湾に面した広いエリアを「東京低地」と呼ぶ。
台地と低地が隣り合う東京の姿が、この頃基本的に形成されたと言えるだろう。
その後海面がゆっくり低下するとともに、河川の埋め立て作用が加わり海岸線が前進し陸化してゆく。霞ヶ浦もこの過程で海から切り離された。
山の手台地の東端、上野台と本郷台に挟まれた低地は古石神井川が海に注ぐ東京湾の入り江だったが、徐々に陸化する。入り江入口に当たる不忍池は、その南部に僅かに高い砂洲が有った為取り残されて陸地化を免れた。
※ 縄文海進時の海岸線の様子を、現在と比較して表示してみました。クリックすると地形図が表示、マウスオーバーで縄文海進時の海岸線と切り替わります。
縄文海進比較地形図
※ 7
洪積台地も沖積層も更新世(洪積世)、沖積世と言う生成年代から来る区別も有るのだろうが、必ずしも完全には一致していない。…と言うことで、
大雑把に言って洪積台地は、氷河期の海面低下時、山からの「洪水」によって堆積した土砂による地層。
沖積層は、間氷期の海進時、海の中で(沖からの濁りなどが)穏やかに堆積した砂泥層。と言う理解でいいかと。
山の手台地と総称される武蔵野台地東端(南北崖線軸)、或いはそれに続く「日暮里崖線(京浜東北線、或いは東北・上越新幹線に乗って北上したとき、上野駅から王子、赤羽に掛けて左側に見える崖)」と呼ばれる台地の縁。ここは高低差15~30メートルの崖となっている。
南北崖線軸は武蔵野礫層が押し寄せた末端だろうし、日暮里崖線は古東京川が削った浸食崖であろう。それだけでなく縄文海進時、この台地の根元が海の波によって洗われ今に見る急峻な崖となったものであろう。こういう地形を海食崖と呼ぶ。
なお海食崖は水際で発達、水の中では波による浸食は起きにくい。地上部の海食と風化作用が陸側に向かって進むに従い、水の中では平坦面が削り残され波食台(波食棚)となる。海面低下などによってこの平坦面が露出したものを海岸段丘(面)と呼び、例えば房総半島東側の九十九里浜などで顕著に見られる。
ここまでで武蔵野台地を中心とする東京、関東平野の骨格がほぼ完成したとみていいのだと思う。
その後は主に人の手による変化が大きい。特に徳川家康が江戸に幕府を開き一連の施策を施した。
http://blogs.yahoo.co.jp/titibu212000/31160617.html
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玉川上水も野川もみんな武蔵野。少し武蔵野の全体像を考えてみたい。って、そもそも「武蔵野」ってなんなんだ?
武蔵野台地の理解の為には、どうも関東平野全体の成り立ちを知る必要が有るらしい、と言うことに気づき、地質学門外漢の管理人が自分の頭の整理用に別途ページを用意しました。
書籍やNetからの引用、孫引きに、管理人の独善的な解釈を加えてのもので全く当てにならない雑文です。関心のある方は併せてご覧ください。
「関東平野・武蔵野」私的覚書
最初に武蔵野のほぼ全体の地形図を表示しました。
Googlemapや紙の地図だけでは掴みにくい武蔵野の輪郭が、周囲の低地(沖積面)とハッキリ区別できる形で見て取れると思います。
北の荒川、南の多摩川に挟まれた、なんとなくマッコウクジラの頭のような形をした台地状のエリアが武蔵野台地です。
下の図をクリックすれば、拡大表示されます。使用しているパソコンにもよりますが、通常2段階のサイズで表示され、クリックで大・小切り替わります。
下の図とは別に、サイトで取り上げている主な場所(ポイント)の詳細図を用意しました。巨大な図です。スクロールしながらご覧ください
図の中で表示されている四角形をクリックすると、その場所の詳細図が表示されます。
当サイトの地形図は、DAN杉本さん作成のKASHIMIR 3Dを使用しています。
高機能地形アプリです。さまざまな地形データを基に立体表示したりその断面図や俯瞰図などを作成出来ます。しかも何とフリーウエアです。但し使いこなすには市販されている解説本を購入した方が良いでしょう。
上掲地形図でクリックによって表示される「詳細図」は、国土地理院の5メートルメッシュ標高データを元にKASHMIR 3Dによって立体視覚化されたものです。現在のところ最も精細な標高データです。
「武蔵野」と一口に言ってもその範囲には多少の意見の違いがあるようです。ここでは一応、「北(北東)の荒川、南の多摩川、西は秩父・奥多摩山塊の根元、東は隅田川に挟まれた、主に台地状をなしている地域」と言う感じで進めます。これで多分大きな間違いは無いでしょう。実際上の図で示したように地形を視覚化した時、それは否応ないものとして納得できます。
この台地は古代の多摩川が作りだした扇状地で、西の秩父・奥多摩山塊から急に開けた青梅を扇頂に、大きく南東に広がっています。青梅を中心としたきれいな同心円になっていないのは、関東造盆地運動によって、武蔵野台地の北東部が沈降してきた為です。これは玉川上水のコース取りにも影響することですが、後に触れます。
上総層群(かずさそうぐん)は関東地方の広い範囲で基盤をなしている海成堆積層です。第三紀鮮新世(約500万年前から258万年前)~第四紀更新世(約258万年前から約1万年前)古期までに形成され、砂岩、泥岩および凝灰質砂礫などからなっている(そうだ)。100万年以上の海底堆積で非常に固くしまり厚さは2000メートルにも及ぶ。
「上総」は今の千葉県の地名で、房総半島を模式地(地層の標準となる露頭がみられる特定の地域)としているので「上総層群」と呼ばれる訳ですが、東京湾の底を通じて関東平野のほぼ全体の基盤となっています。多摩丘陵(例えば生田緑地)、狭山丘陵などで地層の露呈が見られます。
東京では上記狭山丘陵などを除いて、特に陸上部分では通常この上総層群を見ることは有りません。
武蔵野台地(武蔵野面、立川面)では、この台地を形成した扇状地層が上総層群に重なり、更にその上を関東ローム層が覆っています。
東京で上総層群を見ることが出来るのは、多摩川流域の昭島、宿河原などの河床、他に神田川面影橋から下流域、仙川氷川橋付近など。
いずれも扇状地礫層の堆積が無い沖積面に属していて、水により関東ローム層の堆積がされず、上流からの河床礫もたまたま途切れた場所にのみ見られるのでしょう。100万年以上昔の海底を見たり歩いたりするのは中々壮観です。
武蔵野ではこの基盤の上に、多摩川由来の扇状地礫層が重なり、地形図で見るような武蔵野台地が形作られました。
御岳渓谷に行った人は分かりますが、巨大な岩がゴロゴロしています。広大な秩父・奥多摩山塊に降った雨が古多摩川に集中した水の威力が実感できます。多摩川が押し出した膨大な土砂が、急に開けた青梅以東に、長い年月を掛けて扇状地を形成したのでしょう。
更に沖積面も含めその上に、箱根・富士山(南関東)、浅間・榛名・赤城(北関東)による火山灰由来の堆積が、5~15メートル程重なって台地は出来ています。この火山由来の堆積が関東ローム層と呼ばれるもので、必ずしも火山噴火の直接降灰と言うことではなく、多くは風によって運ばれての堆積によるものです。その形成は噴火の時期によって10数万年~1万年前と言われています。
鉄分の酸化により赤っぽい色をしていますが、最近1万年分の堆積つまり表面近くは黒色をしていて黒ボクと呼ばれています。灰の他軽石なども含みますが、東京の場合噴火源から遠い為粒子も細かく、雨が降るとネチャネチャして靴にくっつくし、乾燥するとポサポサと粉状になって歩く靴にまとわりつきます。
礫層である扇状地一般の特徴ですが非常に水を通しやすいと言うことです。山からの水や雨水は地表に留まらず、下の礫層の中を潜って流れる傾向が有ります。
武蔵野台地はその礫層の上を関東ローム層が覆っている訳ですが、この地層も浸透性の高い地質で、従って台地上では、特に扇頂に近い所ほど生活や耕作に必要な水を得難く(まいまいず井戸)、それとは裏腹に断層が露出している部分で地下を潜ってきた水が豊富に湧き出すことになります。特に、次に述べる崖線の下(ハケ下)には湧水が付き物です。
このことは、台地上を流れる野川や仙川、等々力渓谷、井の頭池、善福寺池、東京屈指の清流とも言われる黒目川水系や、立川崖線下の谷保天満宮の湧水、矢川等の成り立ちと共に、人工水路である玉川上水や神田上水が何故必要とされたか、その工事の困難性と共に深く関わってくることですので、以下順次触れて行きます。
台地北側(図の上縁)に、ノミで削ったようにハッキリ切れ込んだ谷が北の荒川に流れ込んでいるのが見えます。東武東上線に乗っているとこの谷と台地が交互に続くのが分かります。実はこの谷は武蔵野台地形成過程を理解する上での一つのキーポイントで、意外なことに現在そこを流れている不老川や黒目川の浸食によるものではないのだそうです。これらの川の流量は多くなく、それに対し谷幅が不相応に広く直線的に(現在の川沿いにではなく)発達しているし、図で見て分かるように、この谷を上流方向に延長すると多摩川の渓口(今の青梅付近)に集まることから、この浸食は太古の多摩川の流れが削ったものだと考えられています。
現在の多摩川は台地の南縁を北西から南東に向かって流れている訳ですが、かっては北上して、今の入間川と重なるような形で、埼玉県川越方面に流れ込んでいた時期があったと言うのです。その後多摩川が流路を変更した後、残った広い谷底を引き継ぐ形で現在の黒目川などが流れ込んでいるのだそうで、神田川、目黒川、野川なども事情は同じく、 元々は古多摩川系統の浸食面を引き継いだものだとのこと。要するに昔、この辺一帯は古多摩川のなすがままだったんですね。
更に言えば武蔵野台地が積みあがる前にはこの辺一帯は、古利根川、荒川、多摩川などが古東京川として、いわば一つの川として合流、一面の氾濫原とした時代も有ったらしい。
それにしてもかって多摩川が、今の埼玉県方向にも流れ、入間川、川越以南の荒川を合わせて一つの川として流れていたとは驚きます。今我々は「武蔵野台地」 を既定のものとして考えますから、そう言う多摩川の流れを聞いて不思議さを感じる訳ですが、元々武蔵野台地そのものが多摩川によって形成された扇状台地であってみれば不思議なことも有りません。その前はこの辺一帯が低地だったし、海の底だった時代もあった訳です。改めてダイナミックな地球の動きの一端を見た思いがします。
そう思ってこの地形図を眺めた時、初めてこの 広大な武蔵野台地の成り立ちが納得できる気がするところ。
上野から鴬谷、日暮里を経て赤羽に至る山の手台地の北東端は、高く(15~30メートル)急な傾斜の崖が続いています。この崖に沿って、京浜東北線、東北・上越新幹線などが通っている為、日常的に感じている人も多いでしょう。日暮里崖線と呼ばれています。
これはかって東京低地が海だった時期、既に出来上がっていた武蔵野台地の根元の部分が波によって洗われ急峻な崖となったものです。英のドーヴァー、仏のエトルタ、ペルーのパラカス半島など海に面した世界の各地で見られます。
日暮里崖線の先、赤羽から志木を経て川越に至る武蔵野台地の北縁も、やはり北側の東京低地とハッキリした境をなして崖が続いています。これも荒川が削った河岸段丘と言うよりは、同じく海の影響によるものと考えて良さそうです。海進期、荒川や利根川の低地に海が入り込み台地の根元を削り、その後海の後退に伴って台地の崖と低湿な沖積面が残されたのでしょう。
台地の南側に、北西から南東に向かって、多摩川に並行する形で、多摩川が削りだした2本の発達した河岸段丘が見られます。立川崖線と国分寺崖線です。
※ 崖線の断面図を掲載しておきます。
上掲の地形図で、JR中央線国分寺駅のすぐ近くにある殿ヶ谷戸庭園(ここは国分寺崖線の特徴を顕著に見られる)から、真っ直ぐ南に多摩川までの断面を示したものです。(Kashimir 3D)で作成。水平に対し高さが強調されています。
立川市や府中市、調布市の中心市街地が載っている立川面は立川崖線(たちかわがいせん)によって 多摩川の沖積低地と分けられていて、国立市谷保(やほ)から青柳(あおやぎ)にかけて、および昭島市付近や青梅市付近にさらに低位の面を抱えている。それ らを青柳面、拝島面、千ヶ瀬面として区別する研究者もいる。立川崖線は、青梅付近から多摩川に沿う形で立川市内まで続き、JR中央線の 多摩川鉄橋の付近から東に向かい、立川市役所の南を通って、南武線と甲州街道の間をさらに東に向かう。谷保の西で甲州街道の南に入る。ここに谷保天満宮が 崖線を利用した形で置かれている。そこからは甲州街道のおよそ500mほど南を東に進み、狛江市元和泉付近まで続いている。立川崖線は府中崖線(ふちゅう がいせん)や布田崖線(ふだがいせん)とも呼ばれる。(wikipediaから転用)
次に述べる国分寺崖線は、1本の段丘が比較的一貫して長く続いているのに比較して、立川崖線は短い段丘が幾重にも重なり、あまり一貫性が有りません。だからこそそれぞれの場所で個別の呼び方が有る訳だし、玉川上水も羽村堰から拝島までの間に何度かの崖線越えを経ています。
立川面と武蔵野面を分ける段丘を国分寺崖線と言います。
国分寺崖線は、武蔵村山市緑が丘付近から始まり、玉川上水駅付近、国分寺、小金井市、調布の深大寺付近と続き、世田谷区の等々力渓谷にもその地形を刻みつつ大田区の田園調布を経て、同区嶺町付近に至ります。
国分寺区内で特にその特徴が顕著なので「国分寺崖線」と呼称されます。調布の深大寺も国分寺崖線の高低差に制約されて、と言うか利用しての伽藍配置がなされています。
国分寺に源を持つ野川が二子玉川で多摩川に合流するまで、その流域が国分寺崖線の縁にほぼ重なり、野川が多摩川に合流する手前で、こんどは丸子川が崖線に沿って崖線の終焉まで連なっています。
河岸段丘一般の特徴として上流部程未発達で、立川地内では殆ど高低差が見られません。玉川上水も未だ高低差が顕著にならない玉川上水駅地点で国分寺崖線を超え、立川面から武蔵野面に上がっています。
下流に行くに従って高低差が顕著となり、世田谷区成城学園から下流では、20mを超える高さとなり、崖線末端部とも言える亀甲山では多摩川水面との高低差は30mに近くなります。
段丘が隣り合っている時、高い段丘ほど古いと言う原則が有ります(段丘地形の形成時期が古いと言うことで、段丘を構成している地質が古いと言うことではない)。つまり立川面より武蔵野面の方が形成時期が古いということです。
このことはそこに積もる関東ローム層の厚さにも関係してきます。形成の新しい立川面には新しいローム層(立川ローム)の堆積しかなく、厚さも薄い(2~3メートル)。古い武蔵野面は立川ロームと共にその下に更に古いローム層(武蔵野ローム)が分厚く堆積(8、10メートル以上)している。
この違いはそこを通る玉川上水の姿にも影響を与えている。
武蔵野台地の東縁に目を転じると、複雑に入り組みかつ起伏に飛んだ崖状の地形が、断続的にほぼ南北に走り、東側の低地とハッキリした境界を形成しています。ここは古多摩川が押し出した扇状地層の末端部となります。
北部の赤羽駅辺りから南の大森駅辺りまで、概ね京浜東北線に沿う形で伸びているこの崖を、「東京都都市景観マスタープラン」では「南北崖線軸」と呼び、吉祥寺を通る南北線辺りまでの範囲を「山の手台地」と呼ぶのだそうです。「……景観マスタープラン」と言うことで、どの程度地質学的な根拠のある呼称なのか分からないのですが、一応のくくりとしてこれを使って行きます。
又この「山の手台地」の呼称・範囲は固定的なものではなく、東京市街の空間的・時代的な広がりと共に変化していますし、研究者によって、或いは関係する人によって見方も変わってくるでしょう。例えば、日本一の高級商業地・銀座、或いは日本のトップ企業本社ビルの立ち並ぶ丸の内ビジネス街、ここは徳川家康が埋め立てる前には「日比谷入り江」と呼ばれる海でした。いわば極め付きの低地で有る訳です。しかしここを「下町」と呼ぶ人はいないと思う。
JR山手線をほぼ含むこの山の手台地は、東京の、と言うより日本の政治経済文化の中心として発展し(過ぎ)ているのは、ご承知の通りです。
国分寺崖線や立川崖線が、多摩川が削りだした河岸段丘であり、川に沿って有る程度一貫した連続性を持っているのに対し、扇状地層の末端部が何処迄押し出されたかは偶然性が作用すると思われ、事実、南北崖線軸の複雑で起伏に富んだ(凸凹)地形はそれを現しています。
一旦凸凹が形成されると谷地の部分からの湧水によって更に谷が浸食(谷頭浸食)され、周りの水も流れ込み谷を深くします。鹿の角のように複雑に入り組んだ山の手の地形はこうしてできたものです。
起伏のある地形は地名にも反映していて、上野のお山の愛称を始め、愛宕山、御殿山、代官山等、或いは「台」のつく地名も数多い。山や台とともに「谷」の地名も豊富です。渋谷はその名の通り渋谷川の谷底に開けた街だし、その他、茗荷谷、四谷、市ヶ谷、千駄ヶ谷等枚挙にいとまが無い。
山・台と谷が有れば、それを繋ぐ坂も有る訳で、「坂」の地名も大小無数にあります。渋谷の谷と台地上を繋ぐ道玄坂、宮益坂。その他神楽坂、九段坂、三宅坂等など。自動車ではあまり苦にならないかも知れないが、都内を自転車で走っていると否応なしに実感させられることです。
江戸城(皇居)も山の手台地の東端に当たり、本丸を台地上に築くなど、台地と低地にまたがる地形を巧みに防御に活かしての築城となっています。
又この複雑な起伏は玉川上水のコース取りにも深刻な影響を与え、今の代田橋から幡ヶ谷に至る奇妙な水路跡の軌跡は、この地形抜きには理解できません。
この複雑な地形を視覚化出来るよう、断面図を掲載しておきます。JR目白駅辺りから、上野駅のやや北を通り、浅草・隅田川対岸迄の直線です。
日暮里崖線の状況が非常に顕著に確認できるでしょう。
扇状地地形の崖線には湧水が付き物です。いわゆる「ハケの水」です。立川崖線も国分寺崖線も武蔵野台地を多摩川が削って地層断面を露出させた所ですから、礫層を通ってきた水が至る所に豊富に湧き出ています。有名な所では野川の水源にもなっている国分寺市内の、お鷹の道湧水群、野川公園自然観察園の湧水群、深大寺の湧水等など。等々力渓谷も国分寺崖線の末端に近い位置です。野川は元々、古多摩川が流路を変えた跡を、国分寺崖線沿線の湧水を集める形で崖線沿いに自然に出来た川で有る訳です。
立川崖線・青柳断層では羽村禅林寺境内、矢川緑地、ママ下湧水、谷保天満宮の湧水、など。
これら崖線に沿っての湧水を、その名の通り「崖線型湧水」と呼びます。
崖線以外の谷地に見られる湧水です。武蔵野台地にはこのタイプの湧水も各所に見られます。上記、井の頭池や善福寺池、南沢緑地等など。
こう言った湧水を「谷地型湧水」と呼びます。
野川の源流である日立中央研究所大池は、国分寺崖線の脇であり崖線型湧水とも言えるし、そこに食い込んだ谷地型湧水とも言えるかも知れません。
今急速な都市化に伴ってその湧水量が激減し、中には既に涸れたところも有ります。水質も劣化しています。
しかし若しかしたら東京は、かって日本でも有数の清水と清流の地であったかも知れません。今でも、例えば明治神宮の清正井、目黒不動尊の独鈷の滝等は、大都会の真ん中での湧水として世界的にも珍しいもののようです。
最近(2017/8)知ったことだが、武蔵野台地に70m崖線と50m崖線と言うのが有るそうで、実は台地上の主な湧水池はこの二つの崖線に集中している。
とは言っても台地の縁をなす国分寺崖線や立川崖線等とは違い、台地中央部にハッキリした崖が続いているとは思えず、「崖線」と呼ぶのは少し無理が有るように思うのだが。どちらかと言うと「50m或は70m等高線」と言った感じ。
東京都の調査によると、この50m等高線に沿って区部だけでも280ヶ所の湧水が確認されていると言う(『50m等高線でたどる湧水帯』サイト様参照)。多摩川が運んだ武蔵野礫層が50mの等高線の各所で露出、その礫層を通って来た水が地表に出ているのだろう。
特に有名な所では「武蔵野三大遊水池」と呼ばれる、井の頭池、善福寺池、三宝寺池で、それぞれ神田川、善福寺川、石神井川の源流・水源だった(だった、と言うのは現在その殆どが枯れて、深井戸からの汲み上げ地下水で供給されている)。この三大湧水池は、50m等高線上と同時に、青梅を中心とした同心円上に配置されている。これは扇状地層の一つの縁-扇端として考えるのが自然だろう。
50m等高線の湧水はこの他、妙正寺池、烏山川源流の光原院の鴨池、落合川源流の南沢緑地、武蔵野公園、深大寺周辺の湧水群等が有名なところ。
70m等高線上での湧水としては、石神井川の本来の源流である鈴木小学校敷地の谷頭(水は既に枯れている)、野川源流の恋ヶ窪大池、黒目川源流のさいかち窪等。
同じ武蔵野礫層を通って来た水だが、50m等高線より扇頂に近く標高の高い70m地点で湧き出している。
このように至る所から地下水の湧き出る武蔵野台地だが、水質としては必ずしも良いとは言えないようだ。
地下水には「被圧地下水」と「不圧地下水」の区分があるそうで、大雑把に言えば被圧地下水は、上下の不透水層に挟まれた帯水(礫)層を通って湧き出している水のことで、水質も良く、上流からの位置エネルギーにより地下から自然に湧き出す。それに対し不圧地下水は、降った雨が表層に浸み込み、それがそのまま池や川の下から浸み出てくるもので、降雨量や降雨の範囲に大きく依存する、との理解でOKかと。
かって上記50m等高線の湧水は、多摩川の伏流水をベースとした被圧地下水だったのが、現在は多くが枯れ、湧き出しても雨水依存の不圧地下水が多いようだ。
元々50m等高線湧水は武蔵野礫層を通って来ていた訳だが、今それが失われている訳だ。
その原因としては、例えば小河内ダムによる多摩川伏流水の減少、水道用深井戸の管の周囲に充填された砂利を通って水が下の層に流れ落ちること、更には河川改修により、遊水池より深く河床を掘り下げてしまったことなどが指摘されている。
いずれにしても数年或いは数十年単位で地下から湧き出してくる富士山の湧水と、雨が降って数日単位で湧き出す水では違いが有って当然と言えるだろう。お鷹の道湧水群が東京名水100選になっているが、飲用には一度沸かすことが勧められている。
又崖線の部分は、おそらく開発の手が入り難かったのだろう、今でも多くの所で鬱蒼とした雑木林が続き景観に趣を与えている。いわゆる「ハケの森」。安易に開発に走ることなく後世に残して置きたいものである。
かって豊富なわき水とそれを集めて滔々と流れていたであろう、これらの川。
開発と生活様式の変化で湧水も細くなり水も汚れて、あたかも下水路のように荒れたまま放置されていた時期も有ったようです。
近年景観の保全と歴史遺産の保護・復活運動、せせらぎ復活事業等によって、川の流れが復活しつつあります。同時にそこには摩訶不思議な水の相関関係・水のやり繰りの仕掛けがあります。その辺の事情を少しまとめてみました。
こちらをご覧ください。
水が得難く長いあいだ本格的な人の定住が無かった台地上と、至る所にオアシスのごとく湧き出すハケ下の湧水。こう言う地形と地質が、武蔵野の独特な景観と風情を作りだして来ました。
国木田独歩は随筆『武蔵野』の中で………、
「武蔵野を除いて日本にこのやうな処がどこにあるか。北海道の原野にはむろんのこと、奈須野にもない、そのほかどこにあるか。林と野とがかくもよく入り乱れて、生活と自然とがこのやうに密接している処がどこにあるか。」
と書いて、その唯一性を強調していますが、万葉集に初めてその名が出てくるという「武蔵野」の特徴的な風景と風情は、古来から日本人の"侘び・寂び"と結びついたイメージとして、和歌や詩に詠まれて来ました。
大岡昇平の『武蔵野夫人』も、この侘び・寂びの心象が未だ心の奥に残っている状況で、同時に近年急速に都会化され洗練されてきた近代的な「郊外」イメージを併せ持つ「武蔵野」の地の呼称を題名に織り込んだことが、成功の大きな要因ではなかろうか、などと考えている所です。『多摩夫人』で同じようにいけたかどうか?
今、武蔵野も開発され、万葉集の侘び・寂びからは大きく遠ざかっているように思われます。
しかし鬱蒼たる雑木に囲まれた玉川上水の緑道、野川や深大寺で感じられる国分寺崖線・ハケの森。お鷹の道や国分寺市内の幾つかの湧水群、東京随一の清流と言われる落合川の源流部など歩いていると、つかの間でもその雰囲気を味わうことが出来る、そんな思いになります。
上記、崖線と雑木林(ハケの森)でも少し触れたが、「武蔵野」の原風景と言えば直ぐ雑木林を連想する。私も長い間「武蔵野=雑木林、それも落葉広葉樹の原生林」と思い続けていた。
しかしこれはどうも少し違うらしい。武蔵野の雑木林は「原風景」や「原生林」等ではなく、人の手によって作られた、言わば二次林なんだそうだ。
武蔵野の原風景と言うことで言えば、どこまでも続くススキ原が正解らしい。林が有ったとしても今のクヌギやコナラなどの落葉広葉樹ではなく、元々は照葉常緑樹林が中心だったようだ。照葉樹林は人手が無くても自然更新する。この特徴を見越して100年前、人工的に造られたのが東京の明治神宮の森。神宮の森は人の力を借りることなく、森自身の力で今の鬱蒼たる姿に成長してきた。
ススキ、或いは照葉樹林だった武蔵野を、人が薪炭用材、或いは肥し用の落ち葉(腐葉土)を得るために、落葉広葉樹を植林しそれを育てて来たのだとか。
考えてみると当然のことかも知れぬ。薪は暖房や炊事、照明の為、日常必需品だったし、炭も暖房、更には製鉄や鍛冶屋で大量に消費された。糞尿を金を出してまで買い付け、船で江戸から運んで肥料としていた時代、身近な落ち葉は貴重な腐葉土とされた筈だ。キノコも落葉広葉樹で多く採れる。水が無いから定住は難しかったとしても、広大な武蔵野をススキ原のままおいておく筈もない。若しかしたら武蔵野は丸ごと人の手によって作られた里山だったかも知れない。正に国木田独歩の『武蔵野』の風情だ。
人の手が入らなくなるとこれら落葉広葉樹は次第に照葉樹林に入れ替わってしまうのが自然の姿なんだそうだ。確かに人手の入らない崖線の斜面などは照葉樹が多いように感じる。
ハケには縄文時代からの古代遺跡があちこちで発掘される。
国分寺、お鷹の道、殿ヶ谷戸庭園、貫井神社、滄浪庭園、或いは深大寺、等々力渓谷と等々力不動尊、谷保天満宮など全てハケ沿いにある。目黒不動尊も入り組んだ山の手台地の崖沿いに建っている。良い水が豊富に湧き出るハケ下に昔から人が住みつき、一定の文化を築き、そこに遺跡を残したのだろう。国分寺崖線の終焉部、亀甲山には大規模な古墳群が有るし、等々力渓谷も然り。
崖線ではないが井の頭池の周囲も大規模な古代遺跡の発掘で知られている。
多摩川と荒川に挟まれ、現在一般に多摩地区と呼ばれている武蔵野台地中央部に、山からの雨水を集めて常時水を湛えて流れる川は、玉川上水など人工的に掘削したものを除けば一本も無い。台地最大の河川、野川やその支流の仙川にしても、或いは石神井川も全ては湧水を源としている。その代わりと言っては何だが、湧水を湛えての池が武蔵野・東京には大小取り交ぜて無数にある。有名な井の頭公園の井の頭池もその一つ。そもそも「井の頭」の名前が示す通り、湧き水の頭として三代将軍家光が命名したのだとか。この井の頭池を水源として江戸の水道水用に掘削された神田上水が今の神田川になっている。
冒頭の地形図なりGoogle Mapで多摩地区を開き、そこに示されている川筋を上流に辿って見れば大抵はそこに湧水池が有る。狭山湖(山口貯水池)は多摩川を主な水源とする1934年完成の人工湖だが、一部天然の湧き水も流れ込む。
つまり台地上を流れる川は例外なくその源流を、武蔵野台地と言う限られたエリアに見出すことが出来る。だからこそ辿って面白いのだ。
水の無い所に人は住めない。かってこう言ったハケ下や湧水地の周り等、限られた場所を除いた広大な武蔵野に、おそらく人が定住することは無かったのだろう。だからこそ武蔵野が「武蔵野」として維持されてきた訳でもあるが。
川さえあれば人が住めるか、と云うと実は簡単にそうは言えない。水は常に一番低きを流れる。目の前に大河が流れていてもポンプなどの揚水設備のない時代、その水を直接灌漑水としては使えない。標高の高い上流から用水路を切って持ってくるしか無く、それが出来るのは相当高度な土木技術が発達してからの話。玉川上水は正にそう言う用水路だった。
又、河口部では不要になった水の排除がままならない。新潟の蒲原平野もかっては胸まで泥につかっての田植えと船での稲刈りが語り草になっているが、それさえも信濃川や阿賀野川の流れを多少とも制御できるようになった近世のことだろうし、海からの塩害との戦いだったことだろう。今の美田は暗渠排水とポンプによる強制排水が有ってこその話。
その意味でもハケ下の地は水の利用と云う点で最適だった筈だ。崖から湧き出す水を必要に応じて使い、余った水は下に流せば水は切れる。古代の人が最初に住み着いたところはこう言った傾斜地であって平野では無かった。世界四大文明として知られる中国黄河でも、最初に農耕文化が発達したのは陜西省あたりのかなり山地、黄河の支流の又支流と言った言わば谷筋だった。最初から黄河の本流が利用出来た訳ではない。
自給自足の時代、"山だから僻地"などと言う感覚そのものが無かった筈だし。
武蔵野台地に大勢の人が定着したのは、本格的には近代上水道が整備されてからだとして、その前には玉川上水と野火止用水掘削以降のことじゃないだろうか。特にかって、取り分け水利に乏しかった川越領野火止台地への野火止用水開削の効果は甚大で、それまで200石だった収穫が2000石に増えたそうだ。
この武蔵野の特徴を象徴したものの一つとして「深大寺蕎麦」を挙げることができよう。深大寺はその伽藍や回りの風情・神代植物園などと共に、蕎麦で有名だ。
乾燥した台地上で水田は考えられず、やせ地でも育つ蕎麦が主たる作物・食べ物だったことだろう。最初は自家消費で終わっていたのが生産が増えることと相まって深大寺参拝客にも提供するようになった。その時ハケ下の清冽な清水は蕎麦提供に最適だった。この豊富な水は、今も(観光用に)残る水車を使っての蕎麦製粉にも利用された。
今の深大寺蕎麦はそうした幾つかの要因が重なり合ってのものだと思う。
巖立(がんだて)は、5万4千年前の御岳山噴火による日本一の溶岩流が造った溶岩台地と、その突端である巖立大岩壁とその柱状節理、溶岩台地を削った濁河川、椹谷に沿っての数多の滝など、幾つもの異なった顔を持っている。
今回最大の収穫は、溶岩台地を歩いて巖立大岩壁のてっぺんに立ったことだった。
巖立公園駐車場の正面にそびえる巖立の上に立てるとは、今まで発想したこともなかった。が、考えてみると平坦に広がっている溶岩台地と地続きで有る筈だし、行けるんじゃないか?、と言うことで歩いてみたらアッサリと岩壁のてっぺんに辿り着いた。
…と言うことで、行くのは比較的容易に行けたのだが、そこに立った時には流石に足がすくんだ。足の下は垂直と言うより手前にえぐれていて壁を見ることは出来ない。身を乗り出して除き込む等とてもとても……。1mも下がった所で木につかまりながら恐る恐る下の駐車場を眺めるのが精一杯。
マッ、しかしいい経験だったし、何枚かの写真は貴重な収穫となった。
下の画像をクリックすると、巖立のてっぺんからの眺めを含め、『巖立峡』のYou Tube動画が開きます。
]]>10月16日から20日まで5日間、東北の主に日本海側から月山、十和田・奥入瀬など内陸部を中心に回って来た。
以下、基本的に回った順にその情景を写真でご紹介します。
掲載してある写真をクリックすると、アルバム形式で写真の一覧が表示されます。その一覧の写真をクリック、以下「前へ」「次へ」で写真を表示して下さい。
出羽三山とは山形県庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称で、それぞれに社を持つ。その中で湯殿山神社、月山神社は冬の参拝が困難な山の中にあり、羽黒山に3社の神を併せて祀る三神合祭殿が建てられている。
三神合祭殿は日本でも最大規模の茅葺屋根を持つ社であり、出羽山神社の五重塔は国宝となっている。
東北の名峰の一つ、月山は8合目迄車で行ける。8合目の駐車場脇を少し登ったところに高層湿原の弥陀ヶ原が広がっている。
湿原は木道を中心とした遊歩道が整備されていて、月山の山頂にも続いており、山頂には月山神社の社が祀られている。
十二湖(じゅうにこ)は、青森県西津軽郡深浦町にある複数の湖の総称である。白神山地の一角で、津軽国定公園内にある(Wikより)。
日本キャニオンは十二湖散策路の展望台から眺められる、凝灰岩の岩肌が露出している断崖。アメリカのグランドキャニオンにちなんで命名された。
東の下北半島と並んで、津軽海峡に突き出た津軽半島の最北端。
青函海底トンネル(北海道新幹線)本州側の出入口でもある。
青森県青森市田代にある高層湿原。八甲田山の火山活動(約200万年前)によってできたカルデラ湖が湿性遷移の進行によって湿原化したもので、湿原の多い八甲田山系の中でも最大の面積をもつ。八甲田雪中行軍の舞台でもあり、1902年1月に青森第5連隊の将兵らが青森から三本木に向かう雪中行軍の途中で3日間に及ぶ前代未聞の猛吹雪に遭い、第5連隊は210名中生き残った者はわずか11名で残りは全員凍死するという悲劇にあった場所でもある。散策路脇にその碑も立っている。
散策路は良く整備されていて歩きやすく、八甲田山などの景観を眺めながら全コース1時間程で回ることが出来る。
青森県の奥入瀬渓流入口の近くに佇む一軒宿。足元の板の間から直接湯が沸きだしてくる湯舟で知られる。蔦温泉の北側に繋がる国道103号沿線にはブナ二次林が続き、秋には見事な紅葉が見られる。
明治期の紀行作家・美文家の大町桂月がこの景観に惚れ込み、後に(大正14年)ここを終の棲家とする。
蔦温泉の周囲には幾つかの沼が点在している。その中で最も広く有名なのが蔦沼でブナなどの紅葉でも有名。蔦温泉の脇から沼への遊歩道が整備されている。段差が無いので車椅子でもなんとか行ける。
言わずと知れた景勝地。青森県十和田市の十和田湖東岸の子ノ口(ねのくち)から国道102、103に沿って焼山(十和田市法量)までの約14kmにわたる奥入瀬川の渓流。十和田八幡平国立公園、国指定の特別名勝及び天然記念物。
流れの方向としては十和田湖から焼山に向かってだが、景観としては逆に下流側から遡る方が見応えが有ると言われる。
こちらに奥入瀬渓流のVideo動画も掲載してあります。
この地を形成する巨大な花崗岩帯を刻んで流れる、渓谷と滝。
駐車場脇の「恋路のつり橋」から「牛ヶ滝」展望台までの約300メートルは、遊歩道も整備されていて、比較的気軽に行ける。
下の画像をクリックすると『柿其渓谷』のYou Tube動画が開きます。
]]>
この地に広がる濃飛流紋岩の地層を舐めながら浸食・削って流れ、落下する幾つかの滝が見られる。
高樽山に端を発する高樽谷が付知川に落下・合流する「高樽滝」、付知峡に掛かる「観音滝」「不動滝」「仙樽の滝」など。
この中で、観音滝の由来などについても考えてみる。
下の画像をクリックすると『五宝滝』のYou Tube動画が開きます。
]]>
連続80mに及ぶ「一の滝」「二の滝」「三の滝」と、宮本武蔵ゆかりの「円明の滝」「二天の滝」、合わせて5本の滝が見られる。
鉄製と石による遊歩道が整備され、勾配は急峻だが注意を怠らない限り特に危険はない。
下の画像をクリックすると『五宝滝』のYou Tube動画が開きます。
]]>
岐阜県関市、長良川支流の板取川上流に刻まれた渓谷。「飛騨美濃紅葉三十三選」にも選出されている。 この狭く切り立った垂直の断崖は、ここを走る断層と花崗岩特有の方状節理に沿っての浸食作用が刻んだもので、事実この深い谷は、この地に横たわる5㎞余りの花崗岩分布域(川浦谷花崗岩)だけに限られ、その上流・下流域は地層・岩質が異なる(美濃帯堆積岩類分布域)為、同じ板取川でもこの景観は見られない。
花崗岩はマグマが地下で比較的ゆっくり固まった「深成岩」で、冷却の過程で「方状節理(サイコロ状・直方体状に亀裂が入る)」となる傾向が有る。
又花崗岩は「御影石」とも呼ばれ、墓石などに使われる固い岩石ではあるが、サイズ数ミリ規模の石英、長石、雲母などの鉱物が混在する鉱物で、時間の経過と共に風化・粒状化する傾向も有る。この風化を「マサ化」と呼び、粒状化したものを「マサ土」と呼ぶ。花崗岩のマサ化は往々にして土砂崩れや土石流・洪水につながる場合があるが、同時にマサ土は園芸に使われたり陶芸用の陶土ともなる。岐阜県東濃地方は「美濃焼」の大産地だが、この地に幅広く分布する花崗岩帯からのマサ土が、主に木曽川などによって運ばれたものだろう。
花崗岩のマサ化は場所によって進行状況が異なり、川浦渓谷は未だ比較的摂理面を残した景観で有り、恵那峡、鬼岩は表面のマサ化が一定進み、丸みを帯びた巨大な岩体が露出する。
寝覚ノ床は、印象としてその途上経過に有るのだろう。
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岐阜県下呂市小坂町、5万4千年前の御嶽山噴火による溶岩流が作った景観。この時の溶岩流は17キロに及び、日本一。
溶岩流の最突端が巖立の大岩壁で、その上は比較的平坦な溶岩台地が広がっている。
巖立を挟むように濁河川と椹谷が流れ、溶岩台地を削って特異な景観を造っている。
この両川を中心に小坂町には200以上の滝が有ると言われ、幾つかの「滝巡りコース」が用意されている。ガイド付きで川の渡渉を含む上級者向きのコースも多い中、今回、特別な装備も必要なく遊歩道も整備されていて初心者向きの「三つ滝コース」を中心に、あかがねとよ、唐谷滝、及び溶岩台地を歩いてきた。
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長野県木曽郡大桑村、木曽川支流の阿寺川に見られる、6Km余りの渓谷美。道幅は広くないが渓谷に沿って車で辿ることができる。
濃飛流紋岩と言う古くて固い岩石地層を流れる阿寺川は、雨が降っても水が濁りにくく「阿寺ブルー」が保たれる。
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2019年10月31日から11月8日までの9日間、東北を旅してきた。
「東北に入り浸りたい」と言うのは年来の夢で、今まで断片的に足を踏み入れたことは有っても、今回のようにまとめて、しかも紅葉真っ盛りの時期に9日間、幸いにも雨に降られることも無く、下北半島を含め東北一円の魅力を堪能できた9日間は「至福」の一言に尽きた。今回相当欲張ったスケジュールで回った9日間だったが、しかし「入り浸る」と言う程には東北はあまりに広く魅力が多すぎて、それを満喫し尽くすには到底9日や10日では事足りず、又いつの日か、今度はもう少し余裕のあるスケジュールで回ってみたいと、改めて強く思った次第。
以下、基本的に回った順にその情景を写真でご紹介します。
掲載してある写真をクリックすると、アルバム形式で写真の一覧が表示されます。その一覧の写真をクリック、以下「前へ」「次へ」で写真を表示して下さい。
山形県のホームページによると、「山居倉庫は1893年(明治26)に酒田米穀取引所の付属倉庫として、旧庄内藩酒井家により最上川と新井田川に挟まれた通称『山居島』に建てられた」とある。12棟の巨大な倉庫群は当時も空調や風よけの為の様々な工夫がされていたが、現在は更に機械設備による空調などにより、立派に現役を務めている。
鳥海山は山形を代表する独立名峰で、鳥海ブルーラインは海抜ほぼ0メートルから1,100メートルの4合目まで一気に登る。只この最頂部付近は今回、周遊期間唯一雨に振り込められた場所で風も強くなり、撮影はおろか散策もままならず、下りの山道での車の横転なども頭をかすめ、早々の下山となった
ブルーライン下山口の近く、秋田県にかほ市の「奈曽川公園キャンプ場」で第1日目の車中泊となった。
言わずと知れた日本でも1、2を争う紅葉の名所。
行く前、既に東北の紅葉には少し遅いのでは? と思っていて、事実標高の高い酸ヶ湯付近はブナが殆ど落葉して、白い幹が坊主になっていた。しかしその手前の十和田・奥入瀬は正に紅葉真っ盛り(もう1日・2日早かったら最高か?)。特に奥入瀬から蔦温泉に至る間は、それまでのクヌギやミズナラ交じりの雑木林から、ブナの純林、それも幹の太さの揃った二次林に変わり、見事さに息を呑みながらの運転だった。
酸ヶ湯の千人風呂に入り、その駐車場で車中泊。
既に暗くなって来始めた時間だったので、画質はあまり良くありません。悪しからず。
酸ヶ湯から青森に下って、下北半島に入った。
下北で圧倒されたのが仏が浦の奇岩・巨岩。約2000万年前、日本列島が大陸から切り離された時期、地球の歴史上でも有数とされる規模の海底火山の連続によって火山灰が積み重なり、それが固まった凝灰岩が波や風に侵食されてできた風景。浸食が激しい為、逆に植物が根付かずこの奇岩となったようだ。
海からそそり立つ崖を形成し、海岸に沿っての道路は無く、陸上からのアクセスは国道338から高低差100m徒歩20分程、階段状の遊歩道が唯一。只海岸に沿って展開する長大な全体像を見るには遊覧船など、海からしかなさそうだ。船が泊まる岸壁も整備されている。
大間崎は本州最北端の地で有ると共に、大間はクロマグロの1本釣りで知られる。
尻屋崎は下北半島東の突端。灯台と寒立馬の放牧が見られる。車は夜間通行止めのゲートを通って出入りする。牧場内は馬優先。
恐山は500円払えば中に入って参詣、温泉にも入れるのだが、着いた時間が遅かった為中に入るのは諦めて、宇曽利湖脇の広い駐車場で車中泊。
八幡平アスピーテライン、西端入口近くに有る五所掛け温泉に隣接する散策路。オナメ・モトメの噴気孔、紺屋地獄、大泥火山や大湯沼など。1周約40分、足元はよく整備されている。
八幡平はアスピーテラインを1周してきたが、標高も高く、この時期車から降りて散策するには寒すぎた。ブナやクヌギ、ミズナラなど紅葉を楽しむコースでもなく、八幡沼だのアオモリトドマツだのに触れるには夏場に訪れた方がいいと思った。
玉川温泉はPH1.05の強酸湯が1分間9000?自噴する。どちらも日本一。源泉温度は92℃。
日本で唯一北投石を存し「ラジウム温泉」として知られていて、「末期がんが治った」など、観光より湯治で有名。自然研究路沿いには無料の岩盤浴に浸る大勢の湯治客が横たわっている。かって秋田大学医学部の出張所だったか研究所が併設されている、と聞いたことが有ったが今はどうなんだろう?
今回で3回目の入浴だったが、昔は湯に入ると必ず、見ず知らずの脇の人からその効能を講釈されたものだった。実際、インキン・タムシなどが有れば局所はピリピリするし、1週間も入っていれば完治するんじゃないか、と思わせる。
昔は混浴だったが時代の変化か外国人観光客を考慮してか、今回はしっかりした仕切りが有った。この歳になってスケベ心で言う訳じゃないが、みちのくのおおらかな混浴文化が残されてもいいんじゃないか、と思った今回だった。
既に冬季閉鎖になっていた乳頭温泉郷キャンプ場で車中泊。周りのブナ林は既に時期的に遅かったのか、紅葉を過ぎて枯葉になっていた。
入浴はしなかったが、黒湯温泉、鶴の湯を回ってきた。
田沢湖は日本一の深さを持つ湖。かって玉川温泉の強力な酸性水が流れ込み、田沢湖固有のクニマスなども絶滅したとされたらしい。
2010年、お馴染みのさかなクンが山梨県西湖の「ヒメマス」の中に、「クニマスではないか」と推察される個体が有ったため、専門家に分析を依頼、クニマスであると判断された。1935年、田沢湖から西湖に送られたクニマスの受精卵10万個を孵化後放流したものが、繁殖を繰り返して現在に至ったと考えられているようだ。田沢湖に里帰りさせ、育成しようとの試みも有ったらしいが、残念ながら田沢湖の酸性度がそれを許していないようだ。
角館、春は枝垂桜、秋はカエデ(モミジ)の紅葉が武家屋敷の佇まいと相まって風情がある。
銀山温泉も木造三階建ての佇まいなど、特に雪の風情が写真愛好家に好まれる。
山寺立石寺は山腹に築かれた伽藍群と、芭蕉の「静かさや岩にしみいるせみの声」の句で有名。
磐梯山の大噴火によって作られた景観。浄土平、五色沼、檜原湖等など。
江戸時代における会津西街道(下野街道)の旧宿場。
中山道の奈良井宿、妻籠、馬籠などとはまた違った雰囲気の宿場(跡)。中国からと思しき観光客が多かった。
それにしてもこれだけの家屋を維持するだけの茅を確保するのも大変だろう。
桧枝岐に近い「道の駅きらら289」で最後の車中泊。道の駅とは行っても駐車場での煮炊きははばかられるのが普通だが、ここは駐車場の奥、川(伊南川)の脇にベンチが有って、火を使うことも出来そうだったので、お湯を沸かしてラーメンで乾杯。兎も角温かいものが一番。
翌日桧枝岐から御池、奥只見湖脇を走り、シルバーラインのトンネルを通って大湯に抜けた。
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醒ヶ井宿は中山道61番宿場で、今もその風情が街並みに見られる。現在「米原市醒ヶ井資料館」となっている建物は当時、大名や役人の街道往来の様々な便宜を図っていた問屋場だったもので、それが完全な形で残っているのは全国でも珍しいとのこと。
しかし今、醒ヶ井が人を惹きつけるのは、中山道の旧宿場町としてより(中山道宿場町としては、妻籠や馬籠、奈良井宿などには及ばない、とみるのはおいらだけか?)居醒(いさめ)の清水と地蔵川の清流に依ってだろう。
居醒の清水は、醒ヶ井の南ほぼ6Kmに位置する霊仙山(りょうぜんさん)からの豊富な伏流水が、街の東側に建つ加茂神社脇に湧き出すもので、古事記や日本書紀に登場する日本武尊が傷を癒したとの伝説もあり、2008年「平成の名水百選第一位」にも選出されているとのこと。
地蔵川はこの居醒の清水や同じく霊仙山からの湧水である十王水などを水源として、街道に沿って流れる清流。この地蔵川の清流が特に貴重とされているのは、絶滅危惧種となっているイトヨと、やはり冷たい清流でしか見られない梅花藻が一緒に生息していることだろう。
下の画像をクリックすると居醒の清水と地蔵川のYou Tube動画が開きます。
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