2012年7月アーカイブ

【プロローグ】

私の出身地は現在の新潟県南魚沼市それも八海山の山懐・城内(合併前の村名)だが、自分の生れ育った地に付いて、なんで地名に“魚沼”が付くのか?  魚沼も“北” “中” “南”の3つの地域があるが、どの地域にも地名と結び付く様な“沼”が無い。
それなのに、何で“魚沼”なのか?  そんな素朴な疑問から文献や伝承みたいなものを探してみたが、納得出来る様な説明は見当たらない。
そこで、むかし衛星写真を分析する仕事をした経験が役に立つだろうと、調べ始めて気が付いた。

  • “はっけぇ様”(八海山の事=城内の方言)は、大昔は火山だったんだ !
  • “魚沼”は3つあったんじゃなくて1つの巨大な“ユの字形の湖”だったんじゃないか?

って事に !

そして、下記万葉集の一句が故郷の歴史と交叉しているかも知れない 【「故郷の古代史」と「八海山」】 も併せてご覧ください。

     信濃路は 今の墾道(ハリミチ:切り開かれた道) 刈株(カリバネ=切り株等)

       足踏(アシフ)ましなむ(=つまずいたり怪我しない様に) 履(クツ)はけ わが背(セ=夫)  

まずは現代の航空写真で魚沼地方のイメージを持って頂いた方がわかり易いと思うので掲載します。

 (写真は Google Map で地図表示付きとした)uonuma-kouiki-MAP (魚沼・広域地図).jpg

数億年~数千万年前、ユーラシアプレート・北米プレート・フィリピンプレートそして太平洋プレートが衝突し、日本列島が形成されて行った事は周知の事実。
そして魚沼地域はそのユーラシアプレート・北米プレート・太平洋プレートがちょうどせめぎ合う地域に符合する。
航空写真と中越地震・中越沖地震の報告書に登場して来る魚沼丘陵の隆起年代などを参考にすれば以下の様なストーリーが見えて来る。

 

【八海山と魚沼丘陵の誕生】

それは日本列島や日本海が、現在の形状になる過程での出来事から始まった地形と考えれば地形の成り立ちが推測し易いでしょう。

以下のストーリーは、あくまでも小生の推論ですが形成年代や数値の変動はやむを得ないでしょうが、形成プロセスはそれ程違っていないものと考えています。

およそ数千万年前、北米プレートの南端部に位置するそこには山頂の規模が現在の阿蘇山に匹敵する規模の外輪山を従えてプレート上を自重で沈む位重い、恐らく標高3000m以上の巨大な火山があったものと思われる。
また、西側には広大な扇状地を広げた旧信濃川が流れる平原が日本海まで続く光景があった。

約500万年~300万年前、太平洋プレートに圧迫された北米プレートが、ユーラシアプレートとの間に挟まれて西側へ、上に乗せた火山は自重で沈み込みながら、西向きに転倒し始める。
約200万年前、ほぼ現在の位置に来た時、火口のおよそ1/3を太古の信濃川河川敷に埋める事になる。

この頃には火山活動の原動力であったホットスポットは、現代の日光白根山、又は那須岳付近に噴出口の位置を変えた。
  (プレート移動を年間 50mm~80mm 前後として → 約80km~120km東へ移動した)

航空写真の分析をして行くと、この火山の内輪山・火口壁の現有最高地点が今の八海山であり、六日町の方向から見て
  左側は、池の峰 → 猿倉山 → 堂平山 → 鬼の面(オニのツラ)山 →(上原)
  右側は、阿寺山 → 高倉山 → 桂山 →(田崎)
と火口壁のなごりが囲んで内輪山を形成し、現在の下原から魚野川の地下深く辺り迄が八海山対面の火口壁だったものと推定される。
  (最も新しい噴火口跡、“溶岩ドーム”の形跡は山口付近だったと思われる)
そう考えれば、八海山の山容が峻嶮な岩峰である事、城内の一部を抱え込むかの様な山群にも説明が付く。

八海山の成因が火山である物証としてもう一つを挙げるとすれば、金属鉱床だ。
かなり以前に廃坑となってはいるが、東邦亜鉛の採掘抗があった。 普通、亜鉛の様な金属鉱床はマグマの様な高温と高圧の条件が無ければ生成されない。
つまり八海山の地下には過去にそう言う条件を満たす状況が存在したと言う証拠であろう。
ただし、先に書いた通りホットスポットが東へ移動しているので、現在は噴火の心配は全く無い。

また外輪山は、越後駒ヶ岳・中ノ岳・巻機山・金城山などによって構成されていたと推定して居る。

一方、かって太古の信濃川・河川敷(扇状地)だっ堆積物層は圧縮されて隆起し、現在の魚沼丘陵を(新潟付近まで) 形成する事になる。
   ☆ 魚沼丘陵が大河の下流だったことは各峠道などで玉石を含む堆積地層が露出している事など
   からも 証明できる。
   また、これらの点は地震や原子力関係の地質学的各調査でも、証明されている。
そして新しい信濃川が、現代の十日町付近から小千谷へ向かって流れ始めると同時に、魚沼丘陵で塞がれた地域はほゞ現在の魚沼盆地の形を形成。そしてその盆地は巨大な湖に成長して行った。
  (便宜上これ以降、この魚沼盆地側の淡水湖を【大沼 A】と呼ぶ事にする)
その後も地殻変動などで喫水の変動はあったものと思うが、人類が登場する頃以降は有史時代に入ってもかなり新しい時代まで、更に巨大になった湖が存在していたと思われる。 理由は後述。

 (魚沼盆地が湖だった頃の八海山を想像すると、こんな景色かな!)2005.05.20 -L N-001A 六日町・城内.jpg

 

【魚沼”のルーツ】

その後、中越地震を起こした断層が動いて魚沼丘陵に亀裂が入り、“大沼 A”と新信濃川をつなぐルート (堀ノ内付近) が出来、一旦ほとんどの水が流出したと思う。
その後も地殻変動や気候の変動で【大沼 A】の規模は縮小・拡大を繰り返したものと思われるが、最も大きな変動は【信濃川西岸の隆起】地震だと考えられる。
小千谷付近から長野県の飯山付近まで、長大な河岸段丘を作った大変動で、この時の力は想像を絶する巨大地震を生んだ事だろう。
  (数10万年~数万年前の出来事、今の所隆起年代特定などの資料が不足の為、小生の推測)

これにより信濃川の川口~小千谷間が堰き止められて、信濃川流域に【大沼 B】を形成し、やがて魚沼盆地の【大沼 A】と繋がって “ユ” の字形の湖 【超大沼】 を形成した。

  (便宜上この【超大沼】= 大沼 A + 大沼 Bを、以降は簡略化して【大沼】と呼ぶ事にします)

“魚沼”のルーツはこの【大沼】に由来するものでは無いかと思う。
古代人が【大沼】の形状が “ユ” の字をして居る事を認識して居たとは思わないし、魚沼丘陵を挟んだ2つの湖が実は繋がって居る一つの湖だと知る人もほとんど居かったのではないかと思う。
実際はどちらか一方の湖を見ただけでも【大沼】と認識する事と思う、そんな状況を記憶していた先人の言い伝えか、又は実際にそれを見た昔の人々が、大きな沼・【大沼】と言う意味で名付けたものと推測する。

話し言葉としての発音「大」が“オー”も“ウォー”も“ウオ”も混同され易く、後の世「魚」に変化して(もしくは変化させて)【魚沼】に変わって行ったものと考えられる。
また、【大沼】の最大期は長野県・飯山市付近にまで水位を上げていたものと思われ、縄文~古墳時代がこの時期に重なって見えて来る。

 

【古代人と【大沼】】 (縄文から古墳時代)

新潟県立歴史博物館の資料から“魚沼地域”で古墳時代以前の遺跡・史跡を調べた結果、添付の表になった。

uonuma-kodai iseki.jpg

注目すべき点は、信濃川流域(現在では合併して十日町市)には旧石器時代から古墳時代までの遺跡が115ヶ所も有るのに対して、魚沼盆地(湯沢~小出~越後須原)では同じ時代のものはわずか 8ヶ所しか見付かって居ない事だ。
また、所在の明確な十日町と 魚沼盆地 の遺跡の 標高 を調べたら、魚沼盆地では 海抜 200m~250m前後。
十日町の縄文中期位までのものはやはり海抜  200m~250m 前後、その後の遺跡を含めても海抜 200m 以上の高台に住んでいた事になる。
そして十日町の場合、例外はあるがほとんどの遺跡は現在の国道117号線から魚沼丘陵側に分布している。

中里村は更に標高が高い地域なので特に標高は調べて見なかったが同様で、ほとんどが国道117号線より山側に分布。 十日町地域と様子が異なるのは信濃川東岸の川岸がかなり急峻な所が多くなる為か、かなり山側に入り込んで分布している遺跡がある事だ。

津南町、こちらは古いもの程、清津川沿いに分布している事から、石器材採掘の為の住居跡が多いものと見られる。
 (今風に言えば、石器ビジネスの為の採掘場、東北の遺跡でも清津川産の石器が多く出ている)

話を戻そう、

河岸段丘の隆起で堰き止められた信濃川・下流域の最上流部に位置する遺跡に、小千谷市の三仏生(さぶしょう)遺跡がある。9月の奉納花火大会で有名な片貝に近い遺跡で、その標高は海抜 約 50m。
そこ迄の信濃川上流河畔の遺跡については、データの有る所(現・十日町市・下条付近から上流)の標高は、すべて海抜 200m~250以上で有った。

そこで、古代人と【大沼】に係わる疑問をまとめると下記の3点が浮上して来る。

 Q1 「三仏生遺跡と、その上流の流域遺跡との、標高差 150m~200m は何を意味するのか?」

 Q2 「信濃川流域の遺跡も魚沼盆地側の遺跡も、同じ海抜 200m~250m 前後のなのは何故か?」

 Q3 「十日町より上流の信濃川流域の遺跡数と、魚沼盆地側の遺跡数の極端な差は何故か?」

これらの事実は何を物語るのだろうか? 類推して行くと、次の様な答えが出て来た。

 A1 (Q1に対して)
    理由は、三仏生遺跡より上流域の遺跡では生活圏を標高差150m~200m以上の地域に選ぶしか
    選択肢が無かった事。
    原因は、河岸段丘の隆起で堰き止められ、信濃川と魚野川で作られた湖(ダム湖)の水位。

 A2 (Q2に対して)
    魚沼盆地側の遺跡の標高も信濃川流域遺跡と同じ理由で標高の高い場所が選ばれた。
     「魚沼盆地側も信濃川流域のダム湖も同じ水位、つまり両方の湖が繋がっている」
    と言う事であろう。 この事実があったからこそ【大沼】はひとつとの結論が見付かった。

 A3 (Q3に対して)
    信濃川流域遺跡で遺跡数が特に多いのは縄文時代以前の遺跡数103遺跡、一方同じ縄文時代
    魚沼盆地側の遺跡数はわずかに3遺跡。
    縄文時代、魚沼盆地側は限りなく住み難い所だったらしい。
    魚沼丘陵の山容から、信濃川流域の縄文人が1万年近く山を越えられなかったなんて考え難い。
       (縄文時代は、前期・中期・後期を合わせると約1万年もあると言われている)
    考えられるのは、山を越えても“彼等が住み付く事を許さない状況、又はメリットが無かった事だ。
    なぜか?
    推測の域を出ないのだが、魚沼盆地側は人の住める台地が極めて少なかっただろう事と、信濃川
    流域には石器時代からの 「物流ルートが出来上がって居た為ではないか」 と考えている。
       (糸魚川から東北へヒスイを運んだヒスイロードの一部だったのかも知れない)
    縄文時代とは言えそんな物流ルートに人が集まるのではないか、やはりルートから外れた魚沼盆
    地側には人々が定住しにくかったのではないか? と考えられる。
    縄文後期に入ると新しい遺跡は少なくなるが、古墳時代になると状況が変わり、魚沼盆地側への
    入植も始まった。

    もう一つの理由は湖(ダム湖)の水位の増減。
    縄文時代、約1万年もの間湖水の水位が常に一定だったとは考えられない。  そこで、例えば魚
    沼盆地側と信濃川流域が同時に水位が変動したとして、減水期に増える集落数が同じとしても高
    台が多い信濃川流域の集落は、比較的従来と同じ地域に近接して高所に居を構えるだろうと思う。
    一方、魚沼盆地側は高所の平地が少なく未開の所へ水位が下がって居れば、必然的に低地の居住
    地で集落を創る事になる。
    再び増水した時、どちらがどれだけ残れるか?  それが1万年の間に何回繰り返されたのか?
    例え一回だけの減水→増水だったとしても、魚沼盆地側の集落はほとんどが湖水に沈み、痕跡は
    泥濘の中に埋もれてしまった可能性が高い。

 

【エピローグ】

その後の歴史を眺めて行くと、魚沼盆地が歴史上確実な痕跡として登場して来るのは8世紀・平安時代の頃~11世紀・鎌倉時代の頃。
例え湖が無くなっても、大小の沼や湿地帯が散在する湖底付近まで人間が入植するには、更に100年以上が必要だったからであろう。

ちなみに、2009年のNHK大河ドラマ天地人で現在の六日町一帯を“上田の庄(荘)”と言う表現をしていたが、これは7世紀中頃に始まった荘園制度の名残りである。
とは言え、この地に荘園制度が伝わるのは40~50年後の8世紀に入ってからと思われる。

8世紀初めと言えば坂上田村麻呂が東北遠征を行っていた頃だ、その頃の“魚沼盆地”では広大な多くの湿地帯や大小の沼が多数残り、そこにはトキや鶴・コウノトリなどが自由に飛びまわっていた事だろう と思う。

【大沼】の一部で有った魚沼盆地、この湖底に降り積もったミネラルなどが 今日の“魚沼コシヒカリ”の源でも あろうと思われる。

なお、冒頭で触れた通り古代の魚沼と八海山については、【「故郷の古代史」と「八海山」】 の様に考察してみましたので読んで居られない方は、是非一度ご覧ください。

また、他のブログも読んでみたいと言う方はこちら「♪ お暇なら来てよね!」(テーマごとに分類した索引)からが便利です。

 

はちゃ! (南魚沼地方の方言 ・・・ それでは、またの機会に! の意味)

今日、イチローの【マリナーズからヤンキースへ電撃移籍】と言う二ユースが流れた。
正直な所、不振が伝えられていた事もあり、今年あたり移籍問題が浮上するのでは? と、予感させ
られて居た所だけにマスコミのキャッチコピー通り “電撃” とは思わないが、移籍先をヤンキースと
選択した所にイチローらしさを感じる。

たぶん、水面下では何チームかとの交渉があり、最終選択をイチローみずから行ったものと思うが、
記者会見を見て居てNYヤンキースというチームの選択は、今回の話が浮上する以前からイチロー
の念頭にあったのでは無いかと思った。

いや、憶測でものを言うのはよそう。

とは言え、NYヤンキースを選択したと言う事は彼のチャレンジ精神の現われで、今度は個人記録
よりもチーム優勝が彼の新たな主目標ではないかと思う。
深読みすれば、彼の性格や年齢から考えて、「NYヤンキースを優勝させたら引退しよう」 なんて
計算もあるのかも知れない。

それにしても彼が日本でイチロー人気急上昇の頃の出来事を思い出す。

当時私は仕事の関係で名古屋に住んで居た。
仕事から帰ってTVを付け、イチローの対戦中継野球を見て居ると、マンションの隣家から奥さん
が来て 「すみませんが、他の番組を見るか音を小さくして頂けませんか」  と言って来た。

「音を小さく」 だけならわかるが、 「他の番組」 ならいいと言うのが分からない。

後で近所の人に聞いたらこう言う事だった、
 隣の家には昨年大学受験に失敗した受験生が居た。
 その学生が、イチロー イチローと騒ぐ世間の言葉に過剰反応してノイローゼ状態との事。
 要するに、彼の耳には 「イチロー」 = 「一浪」 と聞こえるらしいのである。
 家族にとっては思いがけない災難だったに違いない。

と言う、笑うに笑えない出来事であった。

そうそう、我等が級友・南魚沼市長も【イチロー】であった。 こちらは元気はつらつ、・・だと思う。
まだまだ、頑張ってもらわねば!
我々がこんな事を言って居られるのも、「安心して帰れる故郷があればこそ」 だから!

 

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【集中豪雨災害】

 亘さんのブログに【昭和44年8月の集中豪雨災害】の事が詳細に書かれて居た。
当時すでに東京の会社に就職して居た私に取っては、 「大変だったろう」 とは思って居たが改めて見直
すと、この時の災害の大きさを、思い知らされた気がする。
同時に、まさに壊滅に近い状況から復興させ、現在の繁栄を築き挙げた故郷の人々とその中核として活動さ
れたであろう、団塊世代の我らの仲間達に、改めて脱帽である。

 

【昭和44年以前の城内】

 ところで、我々がトンボやセミ・ホタルを追いかけたり、畔豆(大抵は大豆)の葉枝で編んだ(タタミ
と言ったかな?) ものを、ブーメランみたいに投げて遊んだりして育ったた故郷の風景。
あの頃の風景はこの “被災” が引き金となったのか、以外に早く【土木改良事業】で変わってしまった。

故郷の人には申し訳ない事だけど、故郷を離れて数十年を経ると、あの頃の風景が見られない事に一抹の
寂しさも感じる。

 写真は中学2年の3月下旬だったと思うが、長崎育ちの義兄を案内して・凍み渡りをしながら暮坪山
(くれつぼ山 : 宇田沢川を挟んで学校の対岸の山) へ登った時、義兄が写していたもの。

  ♦ 暮坪山から見た 【昭和36年頃の、合同製糸 から 城内中学方面】jyounai kamihara.jpg

左下の工場が「合同製糸」、手前の鬼の面(オンノツラ)山が一部邪魔しているが煙突も見えている。
記憶が定かでないが、一番右側下の建物がS44年の災害で流された中学校の体育館かな?
遠方は藤原から下原新田位までの範囲が写っていると思うのだが・・・今の風景とはだいぶ違いそうだ。

 

【雷電様】・・・・・命の水の水源地

 藤原と言えば、我らの実家・上原(学校のある地域)などの上水道の水源地 【雷電様】 のある所。
  【雷電様】 にはこんな希少な花も咲く、清酒 【八海山】 もこの水から生まれると言う。まさに命の水だ。

  ♦ 【アズマシロカネソウ】 (東白銀草)2007.04.16 azuma sirakanesou (雷電様にて).jpg

     ※  水源の岩場からの湧水を、雫としてまとった様な姿、まるで【妖精の集会】だ。

 


 

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私は今日までに、多分一般の人に比べたら日本全国を旅する機会に恵まれていたと思う。
ただ、そのほとんどは仕事としての旅であり、自身の行楽としての旅は数える程しか無い。
そんな少ない行楽としての旅の中で、いつか再び訪ねたい「忘れられない風景」がある。

「忘れ得ぬ風景」

それは兄夫婦と屋久島に行った時の、小杉谷橋付近からの「山桜の風景」である。
2004年4月14日、屋久島特有の霧雨に打たれながら、縄文杉をめざしてトロッコ軌道沿い
に歩き、「小杉谷小学校跡」 直前の 「小杉谷橋」 迄来た時の事。
ようやく晴れ間が出たと思ったら、橋の両側に素晴らしい風景が待って居た。

♦ 小杉谷橋2004.04.14 yakusima (kosugidanibasi).BMP

この橋の向こう正面に、今は廃校になった「小杉谷小学校」跡があり、此処の桜はほとんど
散ってしまっていた。
しかし、この小杉谷橋から谷の両岸を眺めた時、山肌を埋め尽くす如くピンクに染めた山桜は
“感動”せずに居られなかった。

特に写真の橋の左向う(対岸)の山の風景は、当時持って行ったデジカメでは表現出来ない位
美しかった。

♦ 忘れ得ぬ、雨上がりの「山桜の風景」2004.04.14 yakusima (kosugidanibasi)-1.BMP

実は、屋久島通と自称するある人によれば、これは山桜では無く「桜つつじ」だと言うのだが、真偽の
ほどはわからない。
小杉谷小学校跡の桜もほとんど散っては居たが咲き残りもあったし、私は「山桜」だと思っている。

いずれにしても、私にとってこの光景は 縄文杉以上に「屋久島」を印象付けた風景 であった。

 

【余談】 

帰路、屋久島空港の近くで 「芭蕉の花」 を見付けた。
松尾芭蕉が俳号に使った「芭蕉」、又は「芭蕉布」の元になるあの「芭蕉」である。
花の形としては関東近郊でも見た事があるが、こんな色鮮やかな花になるとは知らなかったなあ。

♦ 芭蕉の花2004.04.14 yakusima (basyou).BMP

♦ バナナの近種だったんだね! 実がなくて食べられないらしいけどちゃんと形が出来ている。2004.04.14 yakusima (basyou) 2.BMP

同じ飛行機を待って居たオバサングループの一人が一言、「芭蕉の花って、エロチックね!」
一拍置いてオバサンたちが大笑い。

・・・・・・・ 何を連想してるんだかねー?   (笑)

 

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6月27日(水曜日)、久しぶりに休みが合わせられるとの事で友人2人を誘って、「大内宿とヒメサユリ
群生地」の ワンデードライブを計画していたのだが、直前に友人の一人がギックリ腰で行けなくなり、
もう一人の友人が急きょ知人を誘う、と言うハプニングで、その旅は始まった。

あいにく、「ヒメサユリ」 は梅雨時の花、多少の雨は覚悟して、時間の余裕を十二分に取ってスタート、
6/27  午前0時30分頃出発した。
天気予報は“晴れ”、道路も予想外に空いていた為、東北道・上河内SA到着は想定よりも1時間以上
早く着いた。
SAで相談の結果、ルートを大きく変更して、「喜多方の 朝ラー(ラーメン朝食) にチャレンジしよう!」
と言う事になった。  勿論、その後 「大内宿とヒメサユリ群生地」 も周る事は当初予定通り。

 

喜多方・「朝ラー」

5:00AM 喜多方(駅前)着、さすがにこの時間では開いているラーメン屋は無く、駅で列車を待っている
数人の人に聞いたら、朝6時頃から何店舗かが 「朝ラー」 をやっているとの事だ。
しかし、1時間も時間を持て余すならと、近くで「アヤメ祭り」をやっているとの情報からそれを見に行
こうと言う事になった。

ところが場所が見つからず、途中の農家で聞くと、「アヤメ祭り」 はどうやら誤報だったらしい。
が、偶然立ち寄ったこの農家に、ミニトマト位の実を鈴生りにした巨木があり、(グミでは無いかと
思いながらも) 思わず 「この木何の木?」 と聞いたのがきっかけで

   「グミだ! 良かったら好きなだけもいで行け、木だけ残してくれればいい。
                    どうせ鳥たち(ムク鳥らしい)のエサになるだけだ!」

と言う事で、わざわざビニール袋まで探して来てくれた。   暖かい心使いが嬉しかったねー!

◆ 下の写真はその時のもの。2012.06.27A -010 喜多方・グミ.JPG

甘い実も渋い実も色々味わいつつも懐かしい味を堪能させてもらい、農家のご主人の親切に心温まり、
アヤメ園に行くより楽しいひと時を過ごして大満足! 後ろ髪を引かれる思いで農家を後にした。
この後喜多方市内へ帰る途中の「道の駅」に立ち寄った。
此処は温泉施設も揃っていて旅人には優しい東北地方に共通した「旅人目線創り」の道の駅だ。
キャンピングカーや乗用車で泊って居たらしい10数台の車がいた。
その中の1組のご夫婦は、「これから青森・大間からフェリーで函館へ渡り、北海道を周る」 のだそうだ。
ご主人の年齢を聞いて驚いた、我々よりも10歳も年上だとか、74歳?
見た目では60歳位だと思ったんだが ・・・ 我々も「年とったなー」なんて言ってらんねーべやれ!
「悠々自適ってこう言う事を言うんだろうな!」 と言った友人のつぶやきに、自分もまた肯いていた。

さて、喜多方市内へ戻って、いよいよ 「朝ラー」 だ!

教えてもらった 「坂内食堂」 へ行くと、すでに5・6台の車が待って居て、我々が付いてからも続々と
集まって来る。 それも、他県ナンバー車が多い事にも驚かされた。
(半数以上は他県ナンバー、長野・富士山・湘南・岩手 etc. 京都ナンバーのオートバイも居た)
ところで偶然だったのだが今回入った 「坂内食堂」 、 「喜多方老麺会」 と言う市内ラーメン店グループ
のリーダー的存在で 、「坂内」 「小法師」 と言う2つの店舗名で関東中心に、全国に50数店舗を持つ
チェーン店の本店だった。

実は、「この店なら、わざわざ喜多方まで来なくとも良かったな・・・」なんて、内心反省していたのだが,
いざラーメンを食べてみたら、やはり来て良かったと、考えを改めた。
以前、関東近郊の 「坂内」 「小法師」 には何店舗か入った事があり、どの店でもほゞ共通の味がする事
から好きなラーメンチェーン店のひとつであった。
そして、本店の味、まさに期待を裏切らない “共通の味” であった。
言い換えれば、 “共通の味の原点が此処にあった”  と言うべきなのだろうか。
最近はゴチャゴチャと色々な具材をトッピングして、本来の味を壊して平気な顔のラーメン店が多い中
この店のラーメンはひと味違う様だ。

何はともあれ同行の二人もほゞ満足してくれた様で、目標の “朝ラー”  も結果オーライで、クリアー。

 

「大内宿」

喜多方から会津若松市内を抜けて、R118をひた走り湯野上温泉で右に入ると、約5km程で「大内宿」。
駐車場は有料だが、300円は納得の価格。  以下言葉より写真がわかり易いと思う。

◆ 大内宿全景2012.06.27B -007 大内宿.JPG

♦ ガイド板2012.06.27B -011 大内宿.jpg

 

◆ 宿場内風景2012.06.27B -013 大内宿.jpg

そして、大内宿を後に「ヒメサユリ群生地」へ

 

「ヒメサユリ群生地」 (高清水自然公園内)

大内宿からは、約1時間、南会津町南郷(旧南郷村)にあり国内最大の群生地らしい。
駐車場も群生地入口のラッキーポイントを確保、駐車料は無料、入園料は一人300円、絶好の花日和である。

◆ ヒメサユリ群生地  (全景は撮れる場所がない)2012.06.27C -050 高清水・ヒメサユリ.JPG

◆ ヒメサユリ2012.06.27C -017 高清水・ヒメサユリ.JPG

◆ 被写体は・・・・ 「花」?2012.06.27C -001 高清水・ヒメサユリ.JPG

2012.06.27C -025 高清水・ヒメサユリ.JPG

2012.06.27C -031 高清水・ヒメサユリ.JPG

2012.06.27C -052 高清水・ヒメサユリ.JPG

今年は遅れ気味で、6/27 時点では6分咲き位、満開は 7/6 頃との事、(7/10頃には閉園予定との事)
天気も最高、開花している花は6分咲きであっても、充分に楽しめた。
13時頃、ヒメサユリ群生地を後に、帰途についた。

 

【DATA】

【友人宅(6/27 0:30発) → 喜多方(5:00着) → 大内宿(9:00着) →
                → 高清水・ヒメサユリ群生地(11:30着) → 友人宅(18:00着)】

【走行距離合計:約811km】 【ガソリン合計:42 リットル / 5,334 円】 【高速道路代合計:7,250 円】

【共通経費個人負担分:(燃料費+高速代)÷人数 = 4,195 円】

 

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