2014年10月アーカイブ

この所、(12分以上前には)誰も予測出来る事が出来なかった(御嶽山の噴火)とか「観測史上最大の台風(18、19号)とかが続いて居たが、今日10/20、また政界に前代未聞の辞任劇が発生した。

今回はこの話題を「駄洒落」と「市民目線」で書いて見ましょう。

 

大臣2人の同時辞任劇

始めに、報道関係では「女性大臣が・・・」等と≪女性≫が特に強調される傾向があるが、これは 差別・偏見の上で問題の本質を逸脱させる恐れが有る。今回の問題は男女(機能・能力)の問題では無い事を改めて提起して置きたいと思う。

 

10月20日、今日の出来事概要 (具体的事象)

    午前 : 小渕優子氏・・・・「経済産業大臣」 辞任、
    午後 : 松嶋みどり氏・・・「法務大臣」 辞任
 

 

      ◆ 辞任理由・・小渕優子氏・・・疑惑【政治資金収支報告書】虚偽記載利益供与等
            (歌舞伎座招待、下仁田ネギ・身内業者商品の代金等で不明瞭収支が発端)

         【本人辞任コメント要旨】

            「指摘内容は、知らなかったでは済まないので責任を取る。 外部の専門家も
             入れて再調査し、問題点の解明をしたい」
                 
      ◆ 辞任理由・・松島みどり氏・・・疑惑【政治資金収支報告書】記載漏れ寄付等 
            (うちわの無料配布が「寄付」に当たると野党から追及されて問題化した) 

         【本人辞任コメント要旨】

            「地元選挙区でのうちわ無料配布については違法と思って無いが、これ以上国
             会や安倍内閣の足を引っ張る事は出来ない」

      ◆ その他、関連事項

           小渕優子氏の私設秘書「折田謙一郎」氏=中之条町・町長が、町長辞表を提出
             (折田氏は小渕優子の関連政治団体の政治資金収支報告書作成責任者)

 

駄洒落・時事放談

 

 今日、大臣2人が辞めたんだってね!

 そう! 「小渕経済産業大臣」と「松島みどり法務大臣」だって言ってたよ。

 で、理由は何なんだ?

 ま、「金額の大小」、「やり方は違うけど」 どちらも【政治資金規制法違反】容疑と言う事だ!

 何だそりゃ! 経産大臣も法務大臣も、法律違反って事か?

 そうだな、どっちも  法無大臣 って訳だ!

 小渕優子にはかなり期待の声も多かった様だけど?

 本人は知らなかったと言ってるが、それは本当かもね! 世襲議員の特徴、の氷山の一角だろう
  世襲議員はほとんどが親族が築いた有権者の支持基盤と人脈・金脈・組織をそっくり受け継ぐ訳
  だから、その組織に自浄作用を期待する事は難しいだろう。 (神輿に載せられただけ)
  そんな議員達が牛耳っている政界自体にも自浄作用が期待出来ない現実では、小渕本人に忠告し
  てくれる人も居なかったのじゃ無いかな? (失敗を知らない人ほど足元が疎かになり易い)
  何も考えず、既成のレールに乗っかって居た事の迂闊さに気付けば将来もあるかもね。

 ナーるほど! それはそうと、松島みどりの場合はどうなんだ?

 彼女の場合、女性活用と言う安倍のミクスのお蔭で拾ったラッキーポジションに浮かれて、自滅
  した(と言うより周りに詰め腹を切らされた)ものらしい。
  法務省官僚との不協和音や周りとの醜聞が多すぎて野党からの格好の標的。
  安倍首相の人選失敗だね、適材適所とはどう考えても思えなかったな!

 納得だな! 国会答弁や辞任会見でも薄っぺらな人間性がわかり易いコメントして居たな!
  うちわ(団扇)を配るより、内輪を纏められる人間性の磨きが必要だ。 年齢的に、もう無理か?
  そうだ、団扇も薄っぺらだもんね! 法律無視で平気な人に、法務大臣なんて任せられないよね

 そうそう! 小渕優子の私設秘書で、今回の発端「政治資金収支報告書」を作る責任者の「折田
  町長」が中之条町町長の職をオリタんだってさ!

 

 

【編集後記】

  法律を無視した2人の大臣、本来ならば「GO! ホーム」(法無では無く、議員辞職して選挙
  民のもとに帰れの意味)で、出直すべきだ。(再選されたら議員に戻ればいい)

  大臣の椅子は投げ出すが、議員は辞めないで済ます風潮がまかり通っている現在の仕組みにこそ、
  こう言う不正を醸成する政界の癌だ。 (と、思う)

  罪の大小(金額の大小や認識しながらの行為か過失なのか)は問わず、「説明出来ない不正疑惑
  が明るみに出た段階で、一旦議員辞職させるか、議員資格の一時停止(支給歳費を即凍結し身の
  潔白が証明されたらその時点から再開)する事で、辞職しないメリットを無くする様な仕組み
  を作れば、各議員とも不明瞭な会計のデメリットを重く見る様になるはず。

  因みに現在は不正疑惑が有る議員でも、裁判で有罪判決が出る迄の間、議員が辞職するか国会の
  懲罰動議で可決、又は任期切れ迄は、議員手当・政務調査費等々の諸費用はすべて支払われ、国
  会議員の様々な特権も変らない。 (議員宿舎使用その他の特権)
  裁判等 の場合は、その為の調査費や弁護士手当(本来は個人的な経費)迄もこの 政務調査費 等
  から支出していた人も多いらしい。 (有罪結審の後返却したと言う話は聞いた事が無いが?)

 

   我々の税金がこんな風に消えるなら、「母子貧困家庭」や「3.11関連被災者」の生活
   立て直し支援等に回すべきではないでしょうか?

     ( どちらも 一時金や パート労働でなく、安定収入の為の支援施策が急務!)

 

           「ふるさと今昔物語 Part-1」  より続く

 

再び、実家の周辺図から始めましょう。

   ◆ 不完全ですが、「昭和30年代の屋号」上原十字路下(しも)の図
       本図は小生の記憶の範囲で作成、後日修正版との差し替えを予定中。
S30年代上原十字路(下).jpg

    上図中、少なくとも実家を中心とした薬師様・役場・鎮守様・映画管周辺のエリアについては
    間違い無いと思う。(城内文化・映画館通りの上下エリア)

 

【新田掘】

我が家の前の川が【新田掘】で、上流は田崎の先、【三国川(さくりごう)】・深沢(ふかそう)の八ヶ堰から取水して上原のほゞ中央を横切り、【宇田沢(うだぞう)川】の河底を潜り、長森新田の灌漑用水として、現在もその田畑を潤している。

   ◆ 我が家の前での【ママ探り(魚の手掴み漁)】 ・・・・ ヤマメやイワナも捕れた
故郷の昔 - 020 (抜粋).jpg

   注 : 前の家に渡る橋がコンクリート製になっている (以前の写真では木製の橋)

実はこの灌漑用水、徳川・四代将軍家綱の時代、藩(越後高田藩)の「米(年貢米)増産」政策での長森ヶ原新田開発計画が発端
山懐の浅い宇田沢川の水量だけではそれまでの田畑で限界があり、山懐の深い三国川の豊富な水を引こうと言う事になったのが理由。
しかし、これには藩内では裁き切れない反対運動が起き幕府を巻き込んだ裁定の結果計画通り推進となったと伝えられている。
   (最新版、「新編 城内郷土誌」より、
             以下の内容も、同郷土誌の解説に私の推論を加えたもの

単なる村人の反対運動だけでなく、当時まだ寺領や格式が10万石(これは?)相当の【法音寺】が係わって居て、その結果は反対運動側の敗訴、法音寺も反対の立場だった。 (法音寺の場合、工事に伴って寺領地の削減などの不利益生じる為)
現在の法音寺の侘しさを考えると、もしかしてこの事件が凋落の一因ともなっているのかも知れない。

法音寺の件は、別の機会にするとして、新田掘の規模は、とても江戸時代初期のものとは思えない大工事を行って作られている事に、今でも驚かされる。

私が実際に見て感動するポイントを幾つか挙げると、
   ① 測量技術
       三国川から宇田沢川を抜けて長森新田に流す為の傾斜をどの様にして作ったのか?
       直線では無く干溝からハコドヨ迄の傾斜丘陵台地を、深さ10m以上まで開削して作っ
       ている。
       もっとも、もし自然傾斜で流すと地形的に丘陵台地の端、石万川(ごくまんごう)と並
       行に流すしか無くなり、長森新田の半分も灌漑に使えなくなる事も想像出来る。
   ② ハコドヨ(水路の大規模立体交差点)の発想
       実は新田掘開削前からの川だったものと思うが、私の知る限りでは湧水等の水源を持た
       ない川の様で、雪解け時期や雨の後数日で干上がり、灌漑用水の役割は少なかった様だ
       が、雨が続いたり集中豪雨の様な時は異常な増水が見られた事から災害対策の安全弁的
       な川であった様だ。
       因みに下流でも石万川に合流させずに下原新田で宇田沢川に流していたのも同様の理由
       からと思われる。
       従って、人家の多い方に向かって流れる新田掘に合流させると災害も予想される為、立
       体交差で従来通りの方向へ流す構造を作ったものと思うが、発想が凄い。
       ハコドヨの上流は杉や雑木の林に囲まれて藤原まで続いていたが、その川ををミズオシ
       と呼んでいたのも「水が押し出して来る」と言う意味だったのかも知れない。
   ③ 宇田沢川の川底を渡して長森ヶ原の新田開発が出来ると言う発想
       これは当時としては奇想天外な発想で有った事と思う。
       この発想をした人とそれを認めて実行した高田藩為政者に敬意を表したい。
       先に書いた反対運動や技術的な困難等、余程の実行力が無ければ成し得ない事である。

   注 :  「新編 城内郷土誌」の中では高田藩主を「松平上総之輔」とだけ記載している為誤記
       かどうか、真偽はわからないが「 松平姓」で「上総之輔」と言う高田藩主は存在せず、
       【松平上総介(かずさのすけ)忠輝】と言う藩主が居た事は有るが 四代将軍家綱の時
       代にはすでに改易されて後任が2代も代わっている。
       将軍家綱の時代の藩主は【松平越後守(えちごのかみ)光永】、この頃家老・小栗美
       作(みまさか)と美作が招聘した家臣・河村瑞賢(ずいけん)の指揮で新田開発・殖
       産興業等を行った事が周知の事実として記録されている。
       つまり、【「新田掘 開削事業]と「長森ヶ原の新田開発」】はこれ等藩政の一環事業
       のひとつで有った事が推測できる。
       小栗美作や河村瑞賢が推進者として係わっているなら、奇想天外な案も有りだろう。

 

【新田堀】の現在 ・・・・・ (実家周辺) 

    以下現在の写真は Google Map ストリートビューよりの画像です。

   ◆ 実家前 : 新田堀は道路の下を流れている
sv 実家.jpg

     道路の中央は消雪パイプのラインで、新田堀はその右側の舗装の下を流れている。
     左側、沼田屋の向こう、県道を越えると新田堀が道路の左に姿を現す。

   ◆ 県道から先の新田堀 ・・・・ 道路の左側     (この写真は自分の撮影)
2007.05.21 _ A (1280×711).jpg

     左に現われた新田堀、宇田沢川堰堤道路(薬師様や墓地のある所)の手前で土管に
     吸い込まれ、対岸の長森新田で再び地上に現われる。

   ◆ ストリートビューが行ける限界、薬師様は右手前の家に隠れて見えない
sv 上原・薬師様.jpg


再度、実家前より新田堀の今

   ◆ 映画館通り、左右の風景 (新田堀・下流方向)sv 新田堀下流方向.jpg

   ◆ 映画管通り、左右の風景 (新田堀・上流方向)
sv 新田堀上流方向.jpg

     この写真の道幅のほゞ中央から左側(橙色の線の間)が【新田堀】、赤い鉄の板は
     消雪作業時などに開けて使う部分のフタ。 (右端は普通の側溝で、雨は新田堀へ)

     昭和30年代はこの道の突き当りに、【城内文化】と言う映画館が有った。
     (突き当りと言っても当時の突き当りは、奥に見える三角屋根の家位の場所)

もう一度、県道の上手(八海山方向)と、下手(下原方向)
   (下手は県道がカーブの為、鎮守の森迄しか見えない)

   ◆ 沼田屋前から左の道が上原十字路から山口・八海山方向、右は映画館通り
sv 沼田屋角から八海山方向.jpg

     冒頭の「昭和30年代地図」にも記載した、昔の薬師様の境内に有った「半鐘」が、今は
     こうして消防小屋の前に吊るされている。 (やはり懐かしい気がするものだ)

   ◆ 下原方向 : 正面の杉が数本見える所が鎮守の森 (今は林とも言えないが)
sv 旧役場前から鎮守様方向.JPG

     昭和30年代は鎮守の森と呼ぶにふさわしい杉林の中に、ご神木と言ってもいい欅の巨木が
     そびえていた。
     そんな神社の境内で、毎年行われた盆踊りも、今はただ懐かしい思い出だけになってしまった。 

 

 

昭和30年代の遊びと「自然の味覚」・・・自然の中で!

     ※ この時代、子供と言えど大人の手伝いが多く仕事の間に行われる遊びも多い。
       それ等は遊びと言わないものもあるかも知れないが、私の独断で代表的な幾つかを!

【春】 3月~5月 (魚沼地方:南魚沼市・湯沢町・十日町市・魚沼市周辺)

  ◆ 凍み渡り ・・・・ しみわたり (魚沼地方の表現) ・・・ 仕事上でも活用
       ・ 雪国であれば何処でもする事だが、全国的な共通表現かどうかは不明。
        雪国以外の方の為に、現象の概略
          冬から春に季節が変わる時、大量に積もった雪は春雨や温かくなりつつある南風
          や日中の陽光で、溶けた雪の水滴で表層と大地両側から雪質はザラメ雪に変わる。
          この状態で、昼の間に溶けて表層に残った水滴が、夜間の寒気で氷結し最中の皮
          の様に雪面が凍る。 これが何回か重なり、次第に表層の氷結層が厚くなり、や
          がて人が乗っても沈まなくなる。
          これを利用して、道以外の雪上を移動手段に使う事を【凍み渡り】と呼んで居る。
        遊び : 通常、地上で行う遊びはほとんど実行可、以下はこの時のみの遊び
         ・ そり(橇)遊び      ・ ウサギ・キジ・ヤマドリ追い(捕獲猟)
         ・ 杉っ葉(すぎっぱ)滑り・・杉の葉を尻の下に敷き山の斜面を滑り降りる
         ・ ドッポ(この呼称は城内でも知らない人が多い様だ)
             「落とし穴」の事、表層を丸く切り取りフタにして、その下に穴を掘り
             下に罠を仕掛けてシカ・イノシシ等大・中型動物を捕獲する猟だ。
               (熊には使えない法方らしい)
             子供達の遊びでは罠は無く、危険の無い様浅く掘って悪戯に使った。
         ・ スキー、その他
        仕事・手伝い : 遊びとは言えないが、凍み渡りを利用した作業
         ・ 施肥・肥え撒き
               ・・・施肥と消雪の目的で、人や牛馬の糞尿・堆肥を田畑に撒く作業
         ・ 灰撒き・・・・・・・・青菜(青物野菜)の畑や稲の苗床等の場所の消雪目的
         ・ 炭出し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・炭焼きした木炭の出荷(運搬)
         ・ 山林伐採と運搬・・・・ソリが使え、大きな杉やヒノキ等が運び出し易い時期
         ・ 春山・・・・・・・・・・・・・山林管理やマキ(燃料等の為)の柴刈り作業
         ・ 杉っ葉拾い・・・・焚きつけ(点火)用に杉の葉の枯れ葉を集める子供の仕事

     【注意】 凍み渡りは目に見えない危険もあり、地形を知らない所は行かないのが原則
           夏から秋には水が枯れてしまう様な小川でも、雪解けのこの時期の水量は半端
           では有りません。 また、雪原に隠れた小川の上はアーチ型に抉られて、非常
           に薄くなり、人が上に乗ると、まさに落とし穴(ドッポ)の様に抜け落ちて、
           冷たい水に押し流されて亡くなると言う事故も少なく有りません。
           地元の人でも深い霧に包まれたりすると、雪原の中では方向感覚が狂い、事故
           に遭った事例が有る程、むやみに凍み渡りをする事は危険を伴います。
           特に温暖地域から来られる方々は地元の人に良く確かめて、くれぐれも 知らな
           いエリアに足を踏みいれない様ご注意下さい。

  ◆ 山菜採り ・・・・ 当時は主に自分の家で食べる為に採っていた
         ・ アサヅキ堀り・・・・主に雪解け直後の場所に芽吹く黄色いモヤシ状の新芽。
                     土改(土地改良)後はあまり採れる所が無くなった。
                     最近秋田・山形の一部では、栽培品を別名で売ってい
                     るが、日に当てて栽培しているので普通のワケギと変
                     らない様だ。 それに比べて雪の下からのアサヅキは
                     生で味噌を付けてもヌタや味噌汁等に使うと美味しい。
         ・ 木の芽摘み・・・・・ 魚沼地方ではアケビの新芽(蔓の新芽と葉の新芽、両
                     方とも食べるが、メインは蔓の方)を木の芽と言う。
                     因みにサンショウの葉も最近では木の芽と言うらしい。
         ・ 竹の子採り・・・・・・言わずと知れた、根曲り竹の新芽 (5/末~6月)

         ・ その他・・・・・・・コゴミ、ゼンマイ、ワラビ、ウルイ、ウド、etc.

【夏】 6月~8月

  ◆ トンボ捕り・・・早朝、小川の縁の草を利用して夜の間に這い上がったトンボのヤゴが羽化
            して、まだ飛べないトンボを採集して来て飛び立つ迄を観察する
            (注 : 羽化の途中で羽を掴むと変態が途中で止まり羽が歪み飛べなくなる)

            遊びの対象は、やはりトンボの王者、ヤマドンボ(オニヤンマ)。
            その、羽化したばかりの時は全身が黄色なのに、時間と共に黒と黄色の鎧の
            様な体と大きな透き通った四枚の羽に変わって行く。
            特にヤマドンボのメスはオスより一回り大きな体型で、見飽きなかった。
            当時は捕っては来たが、無事羽化が終えて自然に飛び立つのを見て満足した
            ものである。  (勿論、羽化現場の自然の中で観察する事の方が多い

  ◆ トンボ釣り・・・こちらは日中、やはり殆んどがヤマドンボを対象の捕獲遊び。(他のトンボ
            でも同様に出来たが、遊びとしての面白味は格段に違った様に思う)
            ヤマドンボのメスは小川等の小さな綺麗な水辺をテリトリーにする習性があ
            り日中はこのテリトリーを往復している事が多い。
            そこで、この(主に)メスを網等で捕獲して、これに糸を付けて囮にする

            この囮で多くの場合はオスが飛んで来て、交尾しようと絡み付いた所を捕ま
            える。 この場合、手で簡単に捕獲出来る。
            この捕り方を、トンボを釣る(魚釣りになぞらえてか?)と言う
            別のメスのテリトリーで放すと、攻撃する為か、やはり絡み付く場合があり、
            これも捕獲し易いが、この場合素早くしなければ逃げられる確率も高かった。

  ◆ セミ捕り・・・・これは全国同じ方法だと思うので省略。 ただ羽化について少し参考迄に!
            私の場合、羽化の観察は大抵近くの鎮守様が一番の観察スポットで、アブラ
            ゼミ、ミンミンゼミ、ヒグラシ等の羽化が、晴れた日の夜明けから日の出頃
            迄、飽きさせる事無くあちこちの木の幹で続く。 これは捕ると言う目的よ
            り観察が主で、意外に感動させられたのはアブラゼミの羽化直後
            成虫としてのアブラゼミは良く知られている様に、ミンミンゼミやヒグラシ
            に比べ全身(羽も含み)焦げ茶色系の地味な色をしている。
            それが幼虫から脱皮した直後から羽が伸びきって数分の間全身が【黄緑色】
            のセミが出現する、やがて全身が変色して見慣れたアブラゼミになる。
            その色彩の変化が成虫とのイメージの落差が大きい事に、感動したものだ。

            そう言えばトンボも脱皮直後は黄緑色系の体色で、ミンミンゼミやヒグラシ
            も、なぜか黄緑系の色で羽の成長が完結すると、それぞれの種の本来の色に
            変化して行く。 (ハチやカブトムシも、脱皮直後は黄色系だったと思う)
            脱皮する昆虫に共通で、血液か何かのホルモンに秘密があるかも知れないが、
            これは大学か何処かの研究所にお任せする事にしたい。
            クラゲで貰った人も居る、もしかしたらノーベル賞級の秘密があるかもね

  ◆ 魚捕り・・・・・これについては城内地域独特と言うものは無いが、清流の流れる宇田沢川と
            三国川、そして魚沼盆地を貫いて流れる魚野川。
            それらの河川を主な水源として、縦横に張り巡らせた田畑の小川や導水路が、
            その遊びの場である事から、主に以下の様な遊びになる。

            ☆ ざっこすき(雑魚すき=すくい) 
                     ・・・・「ドジョウすくい」と同じだが、網を使用して
                          小川や水路等での追い込み漁

            ☆ 魚突き(「ヤス突き」とも言ってた様な?) 
                     ・・・・ まさに「ヤス」で突いて捕る漁

            ☆ まゝ探り(前出) 
                     ・・・・ 大きな石や岩の下に出来た窪みに隠れている
                          魚を素手で捕まえる漁
             ※ 岩の窪みや石垣・堰堤の隙間、大きな石の下等を【まま】と言っていた

                    ◆ 

                    ◆

                    ◆

                    e t c .

 

今、我々の故郷でさえ冒頭の写真の様な「ママ探り」や「トンボ釣り」、「杉鉄砲」等、自然の中での遊びをする子供達の姿はほとんど見る事が出来なくなって久しい。
勿論、そう言う自然が少なくなっている事も事実だが、私はすぐ身の回りに遊びの環境が有っても遊べない子供が増えている事に危惧を感じている。

子供達の、【創意工夫】【社会性・協調性・思いやり】【ケンカの限度・危険察知力】【忍耐力】等々は、TVゲームや学校教育で醸成される事よりも、日常の遊びの中で学び・実践しながら覚えて身に付くものではないかと思う。 

一方、家庭内でも家族構成の分散化と仕事の形態が教育環境と乖離(かいり)して、利益優先の社会システムが躾けの崩壊を促進させている。 (経済的弱者の急増も問題)

小人数で、自然の中で、そこに有るもので創意工夫をし、遊ぶルールも自分達で作りながら意見を交換又は戦わせ時にはケンカもしながら自分たちの社会を作って行く事で成長して行く事が本当の教育だと思う。
今の様に無闇に大人が干渉しない。 ただし、放任・無関心は最悪の事態を招く可能性大。
社会秩序を外れたり、危険な行為についてのみ助言・支援をする程度がベスト。

ただ、現代の親世代が、すでに【個の時代】と叫ばれ【TVゲーム】【遊びよりも塾】優先の教育環境で大人への道を歩いた人々の為、急に【子供達を自然へ!】なんて言っても笑われてしまうかも知れない。

しかし、最近の異常な犯罪や限度を知らない若者達の暴行事件、折れ易い精神が原因と思われる切れ易い人の増加が、形を変えて我が子への虐待・・・等々の現象を引き起こしているのではないかと思われる。

詳細な分析はしてないが、本質的な問題点の7割以上が子供時代の躾け環境と育て方に原因があるのではないかと思われる。
従って、これからは学校の授業以外の教育に自然の中での、遊びを通じた情操教育】が、見直され、重要視される時期に来て居ると思う。

発想を変えれば → ビジネスチャンスにも !

首都圏に近い自然も多い我等の故郷は、そんな社会に【子供達の情操教育の場】として廃校などを利用して短期カリキュラムなどを提供すれば、新しいビジネスチャンスが生まれるのでは? と思う。 (南魚沼市全体での取り組みがベスト)
もし、実現すれば子供達の合宿場所の他に、期間(1週間~1ヶ月単位位)中に親達の出入りも予想されるので土産物・道の駅や温泉等の需要も期待出来る。 (あくまでも私見です)

 

この「八海山倶楽部」の仲間、智通君の投稿【懐かしい昭和30年代の上原家屋図】に触発されて、少年時代の古い写真を探して見た。

昭和30年代と言えば、まさに我々が少年時代を過ごしたその時期である。
ただ、実際に写真や資料を探すとなると、学校の卒業記念アルバムや文集など僅かなものしか無い事を痛感させられる。

私の場合、その卒業アルバムや文集なども、転勤先の住居で「阪神淡路大震災」に遭い、住んで居たマンションの上階で下水管が破損、居室内に漏れて来た下水の為に思い出の写真や文集など書類の殆んどを失ってしまった。
そんな状況から僅かに残された写真の中に、義兄(姉のダンナさん)が帰省の都度撮り溜めた写真が数枚残って居たので、今回はその写真と、智通の作ってくれた【昭和30年代上原家屋図】、Google Map(ストリートビュー含む) 等から得られた画像を元に構成してみました。

 

故郷の現在と郷土史の城内全図

   ◆ 南魚沼市の中の故郷周辺 (Google Map より)
六日町・城内 MAP A.jpg

最初に、私達の故郷の昭和30年代を語るには、その頃の行政区割を知っているとわかり易いでしょう。
そう、何回かの市町村合併を繰り返して現在の【南魚沼市】となった訳だが、我々の故郷はその頃【城内村(じょうないむら)】と呼ばれる地域で、現在は学校名等の施設名の一部にその名残りを残すのみで、住所や地名からは【城内】の名前は消えてしまった。

上記のMAP(写真)の左下から上に向かって流れる【魚野川】と、写真下部の中程から左上に向かい魚野川に合流する【三国川(さくりごう)】、それに【桂山】【高倉山】【阿寺山】【八海山】【猿倉山】【六万騎山】から【魚野川】を繋ぐ線で囲まれた地域が、【城内村】とされていた。

   ◆ 城内村全図:昭和35年発行「城内郷土誌」より (I Nagumo 君ご好意による)
                     (下記地図の中で〇印・上原(かみはら)が私の実家周辺)
城内村全図(S35年発行・城内郷土誌より)  (1280×749).jpg

   ◆ 現代の観光周辺Map (南魚沼市観光協会発行パンフより抜粋)
六日町周辺マップ.JPG

   注) このMapは便宜上約90°程、右に回転して作られて居ます。(左側が南、右が北)


さて、ちょっと寄り道になりますが、故郷は今【秋真っ只中】。 
山では紅葉が始まり、里では秋の味覚が色々と登場して来て居る頃、今では中々見る事はなくなったが 私達の少年時代、下記掲載の写真の様な【ハッテ(ハサ掛け)】が、家々の回りや畦道沿いに所狭しと並んで居た事を思い出す。

   ◆ 【ハッテ】掛けの風景
      (数年前のNHK番組のワンシーン/画面写真だけなので番組名・場所不明)
ハッテ 1B  (814×534).jpg

私達が子供の頃の【ハッテ】は横には竹竿などを使ったと記憶しているが、この映像はナイロンの綱の様でより密集して干されている様に思う。
こんな所も近代化した訳だが今はそれも殆んどがカントリーエレベーターで強制乾燥・選別・貯蔵用処理する方式に変わっている。

それにしても、この「稲束を投げ・受け取り干す所作」が、懐かしいのでつい写真に残した。
風景としては残して行きたい光景だが、この後の脱穀や選別等の手間を考えると、TPP対策は別としても労働環境改善の為には不可欠な事だろうと思う。

そうそう、その当時【稲刈り(手刈)】と、【ハッテ掛け】【ハッテ外し(降し)】の作業に関連した【稲束運び】の手伝いがモッパラ子供達の仕事になる訳だが、【稲刈り】や【稲束運び】を手伝った初日の夜は、体中チクチクと痛痒くて眠れない事が有ったなあ!
(次の日位から体が慣れて殆んど気にならなくなるのだが・・・人に依って反応も違った様だ)

昭和30年代の農業は 米の増産・増産が叫ばれ、これを目的の秋田・八郎潟干拓が始まったのも昭和32年でした。 (昭和42年から入植開始→昭和52年竣工)

 

昭和30年代の秋景色(生活編)

そんな時代、【生活面で城内の一般的な村の秋】を思い起こして見ると、

9月「稲刈り」に始まり→10月:「米の出荷」「果実・野菜類の収穫」→11月:「文化祭/野菜などの品評会」「漬菜(野沢菜漬け作り)」→11/末~12月中旬:「雪囲い、家に依っては雪池(ゆきだな)作り」で雪の季節に備える事になる。

一方、【自然界の秋】は、
平均的に9月末:標高の高い「八海山の頂上」の紅葉に始まり、里の秋の紅葉は11月上旬に盛りを迎えた。
(年に依って1週間位前後のズレ有り・・・何故か、昨今は更に季節のズレが大きい様である)

   今では八海山の紅葉も、ロープウエイで気軽に見に行ける様になった。

そして【山の幸】。 この時期になると、キノコ、ヤマブドウ、ミヤマツ、エブ(エビヅル/サンカクヅル)、山栗、クルミ、トチの実、アケブ(アケビ)、カヤの実、サルナシ、etc.
そう言えば、良く熟れた【マタタビ】も甘いキウイの様で、サルナシ同様美味しかったな!

その秋も、11月中~下旬には八海山に初雪(冠雪)が来て、「山に3回雪が降ったら次は里に雪が来る」と言われ、里人は根雪が近い事を想定して【ダイコダテ】(冬の間の野菜:大根・白菜・人参などの雪中保管庫)作りなど、雪に閉じ込められる冬の準備を進めてて行く。

   ◆ 城内とは角度は違うが、五日町スキー場からの【根雪直前の雪前線】の例
         雪で白くなる等高線が下がって来る (ゆきぐにネット・ライブ映像より)
hv2012-11-28-12-20 八海山.jpg

この頃だったと思う、宇田沢川や三国川、魚野川に、石の下に産み付けられた【カジカ(魚)の卵】を捕りに行ったっ事が今では懐かしい。

当時は道路の消雪設備も無く、道路の除雪も国道17号線がやっと始まった位で城内村等は対象外、根雪が降ると陸の孤島に近く、自動車も止り、春までは ソリ(橇)を使うか人が担ぐしか物流通の手段が無くなるのである。
現代の若者達には想像も付かない事と思う。
こんな生活についても絵にして残せたらいいのだが、残念ながら私にはその様な絵心が無い。

絵心と言えば、初雪の頃にはこんな(下記・写真)素晴らしい場所が今でも随所に有る、残したい風景のひとつだ。

   ◆ 下薬師堂付近【宇田沢川】堰堤より (2008年12月上旬、前夜の里・初雪)
里の初雪(直後).jpg

    写真下の住宅地、30年代はどんな風景だったのだろうか?

 

昭和30年代の冬景色

今では登る人も居ないだろう「鬼の面山」の尾根繋がりで、私達遊び仲間の間で「暮坪山」と呼んでいた山(小中学校と宇田沢川を挟んだ対岸の山/この山の向こう側では学校のスキー実習も行って居た)の中腹からの写真である。

   ◆ 昭和36年3月末頃、暮坪山中腹よりの上原方向
         (長崎出身・義兄撮影、凍み渡り体験時に撮影したもの)
S36年暮坪山からから上原方向  (1280×388).jpg

下を流れる【宇田沢川】の左対岸に「合同製糸」工場と煙突が、川下(右)には「城内中学校と小学校の校舎」が見える。
背後の山は「金城山」(左)と「坂戸山」(右)。

それにしても、
 「坂戸山(標高634m)」と同じ高さの「東京スカイツリー」が出来るなど、想像も出来なかったなあ!

   ◆ 宇田沢川下流方向 (新堀新田~下原新田・長森方向と魚沼丘陵)
故郷の昔 - 013 (抜粋).jpg

   ◆ 東を見ると【八海山】、手前の集落は【下出浦(しもいずな)】(右奥:上出浦)
故郷の昔 - 010 (抜粋).jpg

 

   ◆ 上記写真の撮影場所:現在の【城内小学校】付近から(早春春)

2007.05.21 _ C (1599×615).jpg

 

写真集・少年時代

個人情報保護の見地からは顔を隠した方がいいかも知れないのだが、何十年も前の顔やすでに鬼籍に入られて居られる方も多い為、写真はそのまゝ掲載する事にします。

なお、写真撮影の年・月・日等は「震災」時にアルバムから剥がしたまゝだった為情報が曖昧になり、年代順で無い場合がありますのでご容赦願います。

   ◆ 昭和30年代の【八海山】と【合同製糸】 ・・・ 左の山が【鬼の面】と呼ばれる崖
故郷の昔 - 001 (抜粋).jpg

    ※ 1  【合同製糸】 ・・・・ 富岡製糸のミニ版、城内周辺での養蚕繭から生糸にする工場。
              近くに行くと繭を茹でる時の独特なニオイが結構強烈に漂って来たものだ。
              当時はあまり良いニオイと感じたことは無かったが、今では懐かしい。

    ※ 2  【鬼の面】 ・・・・・ 昔話・言い伝え等も有るが、宇田沢川に削られた、急峻な崖。
              写真の【合同製糸】と【宇田沢川】を挟んだ対岸の岩壁。
              地層は古いので雑木は繁茂しているが、高さ約80m/約60°位の急斜面。

   ◆ 現在の鬼の面 ・・・ 【宇田沢川】堰堤より (5月上旬)
八海山 -  009 上原 640x480.jpg

    昭和30年代、此処は流が左側の山に直接ぶつかり岩肌を抉(えぐ)って深さ1.5m位、
       幅5~10m、長さ15~20m位の淵を作って居て、我々少年達には格好の「流れるプ
       ール」であった。

     私が泳ぎを覚えたのも、この【鬼の面】の「流れるプール」でした。

    【合同製糸】はこの写真の右堤防、ちょうど写真が切れた辺りから手前右側に有った。
      撮影位置が、ちょうど【合同製糸の煙突が有った辺りのだと記憶している。

 

我が家の周辺

   ◆ 周辺地図 【昭和30年代=屋号の時代・・・上原十字路から下(しも)の範囲】
       (個人情報保護の見地から、直結し易い氏名=屋号の家は空欄にしました)
      なお、本地図は修正要因が多々あると思われる為、情報をお願いしますS30年代上原十字路(下).jpg

智通君が作成した【懐かしの昭和30年代・上原十字路付近地図】をベースに、上原十字路から下の部分を思い起こして作成して見ました。

およそ半世紀前の状況を思い出しながら作成してますので違う所も有ろうかと思いますが、お気付きの点が有りましたら是非教えて頂ければ幸いです。 (必要に応じて修正・補正をして行きます)

なお、細かい文字も、PCで拡大すれば楽に読めると思います。
 (携帯の場合、見難いかも知れませんが、ご容赦を!)

   ◆ 我が家の前の風景
       (前の川が新田堀、前の家のヤギは草を求めて下を覗いている状況)
故郷の昔 - 007 (抜粋).jpg

   ◆ 我が家(左)と隣家(右)の間から前の家の作業小屋兼ヤギ小屋
       (石垣の上が、通称「映画館通り」、とは言っても砂利道、遠くは八海山の裾野)
故郷の昔 - 006 (抜粋).jpg

   ◆ 前の家に行く橋を渡った所での「お袋」と「上原薬師」  (早春の頃)
       (この頃は橋が板橋である事にご注目、背景の建物は上原の「薬師堂」)
       上原の薬師様、言い伝えを信じれば、法音寺成立の歴史と深く係わっているらしい。
       御本尊の薬師像は江戸時代の洪水で右腕を失ったが、近年その右腕が帰って来た
       と言う、数奇な経過を持ち、もしかしたら重要文化財級かも知れない。(盗難が心配)
故郷の昔 - 003 (抜粋).jpg
 
    「薬師様の腕帰る」の新聞記事 ・・・ 新潟日報だったかと思う  (I Nagumo君より)
上原薬師.jpg

   ◆ 2年位後の夏、母と近所の人々
       (背景の建物は「城内役場」と「薬師堂」、その前の大きな石は「二十三夜塔」)
故郷の昔 - 004 (抜粋).jpg

   ◆ 小5の頃の3月頃、隣家の前にて
       (道路が雪で高くなっている事から、村内一斉に行う除雪行事、「雪割り」の前だと思う)
故郷の昔 - 008 (抜粋).jpg

   ◆ 小6の時だが、卒業式の日では無かったと思うけど? (TI 君・SS 君と)
故郷の昔 - 015 (抜粋).jpg

   ◆ 我が家 (年代不明  : 小学校4~6年頃)
        隣に美容室が建つ前で沼田屋が写っている事や、道路から玄関の下り口が
        新しいスロープになっている所から、井戸→水道に変わった頃と思われる。
         前の家の板橋(4枚上の写真)がコンクリート製に変わったのもこの頃。
故郷の昔 - 005 (抜粋).jpg

   ◆ 【一家団欒】 この頃「囲炉裏」が消え「箱膳」が「チャボ台」に、でも「団欒」の時は有った
故郷の昔 - 014 (抜粋).jpg

 

           「ふるさと今昔物語 Part-2」  へ続く

 

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