故郷・魚沼の最近のブログ記事

 

【故郷の風景】、今回の話題は八海山を背景に、            

    新潟県内限定「スペシャルな新幹線」撮影しようと言うもの。

 

この新幹線、今年4月29日から上越新幹線・越後湯沢新潟市で、原則 土・日と祝日に運行を始めた。

特徴は、有名アーテイストの絵や作品が車両ごとに展示されて楽しめると共に、外装もアーテイストの作品で
カラフルに彩られている事。

カタログコピーの為色彩がうまく出ないのだが、鉄道ファンならずとも自然の中を疾走する姿はカメラを向
けたくなるものと思う。 
  (たゞ、黑色が多い外装は、自然の中で走る姿は背景に溶け込み易く撮影が難しいかも?)

そして、その 背景に八海山  が入ったら これは 【絵】 になりますよ!

 

 

ところで、 参考ですが ≪ Win PC でご覧の方へ ≫

   文中の写真は「画像」をクリックすれば拡大モードとなります
      Win 7 以降のOSならキーボード上の位置操作 「→ ↑ ↓ ←」 対応
        キー操作でマウスだけでは見えなかったエリアも見る事が出来ます 

   Win 7 ~ Win 10 以外のOSでは未確認ですので動作保障はできません、念の為。

 

話を戻します。

その新幹線の名は、【現美新幹線】 (げんびしんかんせん) 

現美新幹線A.jpg

詳細は後述するとして、

  【現美新幹線】の運行区間を再確認して見ましょう。(下記、マップ参照)

   ◆ 運行区間:上越新幹線【新潟】⇔【越後湯沢】 (マピオン3Dマップより)新潟から水上 (Mapion 3Dmap より).jpg

   地図上、2重の輪の中(八海山の麓)が私達の故郷(旧“城内”)

   ◆ 故郷・旧 “城内” から仰ぎ見る 「八海山」 の風景20040514   八海山-011.JPG

   【岡】村上手、アズマイチゲ咲く宇田沢川畔より
2015.04.28G _125 故郷の春 【アズマイチゲと清流と八海山】銘酒は此処で生れる.jpg

   ある年の晩秋、里に初雪が積もった日の午後 (トミオカホワイト付近より)
里の初雪(直後)下薬師堂付近【宇田沢川】堰堤より (2008年12月上旬、前夜の里・初雪).jpg

   ある年の5月上旬、田植直前の風景 (雪国まいたけ工場付近より)六日町・城内雪国まいたけ工場付近より(1280×816).JPG

 

   ◆ 六日町庄ノ又付近より (庄ノ又川たもとより)六日町・R17庄之又川付近より (1280×816).JPG

 

   ◆ 魚沼スカイライン・発荷峠近くより魚沼スカイライン 枡形山付近より (1280×816).jpg

   ◆ 魚沼スカイライン・枡形山頂上付近より
         (雪国まいたけ工場付近への自然のスポットライト)2004.08.20 魚沼スカイラインより (スポットライト) (1280×960).jpg

 

   しかし、残念ながら「いち番欲しい 八海山 ・ 正面 のこの方向」から  は、

         ≪走っている新幹線を入れた写真≫を撮る事が不可能 なのである。

 

   それは、上越新幹線が越後湯沢を出るとすぐトンネルに入り、五日町スキー場のすぐ先
   魚沼丘陵の地下に潜ってしまう為である。

   

でも、真正面からの【八海山】は無理でも八海山と新幹線をテーマに出来る撮影エリアは結構ある。

それらの内の何ヵ所かの撮影スポットを参考としてご紹介しましょう。

 

その前に、【現美新幹線】について少し触れて置きましょう。

 

  (以下、JRびゅうのカタログ抜粋)

現美新幹線(1280×929).jpg

2016.09.18 A 001 【現美新幹線】 .jpg
2016.09.18 A 002 【現美新幹線】 .jpg
2016.09.18 A 003 【現美新幹線】 .jpg
2016.09.18 A 004 【現美新幹線】 .jpg
 

 

    と、豪華版の新幹線で、内装・外装ともに
              有名アーテイストによる装飾の【走る美術館】がコンセプト。

   注 : 現美新幹線の運行ダイヤは1~3ヶ月単位で変わります

        10~11月以外(9月も)の月の運行計画については各自で調査の上
        撮影スポット通過の時間を推定して下さい。
        各新幹線駅・旅行案内所や主要旅行会社で事前に「現美新幹線」の最新
        版カタログを入手するのが良いでしょう。

       

さて、こゝではその【走る美術(外装)館】を八海山とコラボしたら【芸術秋の良い作品】になるのでは?
と考えた訳。

もっと早く気が付いていてたら、稲刈前の「稲穂と新幹線と八海山」なんてトリプルコラボも狙えたかも?

 

 

それではどんなシーンが撮れそうか検討して見たいと思います。 
 (住まいが茨城なので Google Map ストリートビュー 等 から探って見ましょう)

 

 

1.八海山の「正面に、より近い方向から撮りたい」場合

   ☆ 新幹線がトンネルから出る位置に近い程、正面に近い画像になる。
     ただしあまりトンネルに近いと、下り(浦佐)方向へ向かう列車のシャッターチャンスを
     逃す可能性が多くなる。

   ◆ 上越新幹線の湯沢から来て、トンネル出口に一番近いライブカメラ映像
      (五日町スキー場からの八海山:2016.08.31 15時30分 ゆきぐにネット様より)雪国ネット・八海山ライブより(2016.08.31 16.35).JPG

     上越新幹線はこのライブカメラの設置されている建物の、まさに真下を潜って いて
     こゝ五日町スキー場から直線で約1.2km浦佐寄りの「城山新田」で地上に出る
     また、標高も80~90m位低くなり、仰角が変る為 山容も少し変って来る。

   ◆ 周辺地図 (YAHOO!地図より)
YAHOO! 地図より五日町スキー場A.jpg

 

 

2.現美新幹線と八海山が絵になりそうなエリア

   ☆ 城山新田~浦佐スキー場の間、特に九日町から浦佐スキー場を結ぶ、国道17号線の 東
     側にベストポジションがあるものと思われる。

     特に八海山に重点を置くなら九日町から天神川を結ぶR17号の東側(下記地図の右側)
     にベストポジションが有りそうだ。 (新幹線と八海山の写りのバランスが良さそう!)

     八海山にこだわらず、越後三山(越後駒ヶ岳・八海山・中の岳)にシフトして考えるなら
     案外、浦佐駅周辺からも意外なスポットが狙えるかも?

   ◆ 普通のカメラでも結構いい絵がとれそうなエリア
          (マークの辺りかな? ・・・・ ただし保証は有りませんよ!)九日町から浦佐 (Yahoo Mapy) A.jpg

 

3.Google Map (ストリートビュー)による参考画像

   ◆ R17号のレストラン・クルサレットの所(信号無し)を右折した道から
           (写真は通常の新幹線、現美新幹線はもっとカラフルだと思う)八海山・越後駒ヶ岳と新幹線(拡大)B.JPG

   ◆ 九日町(hakkai株式会社脇道より)九日町hakkai(株)横道付近からの新幹線と八海山(撮影スポット例 1).JPG

     実はこの場所にある hakkai(株)と言う会社、NHK の「サラメシ」と言う番組で【八海山】
     が良く見える社員食堂として紹介された事があり、また、同じく NHK 「小さな旅」で昨年夏
     頃、創業者の 会長(だったと思う)ご夫婦の400回目の八海山登山 を写した番組が 放映さ
     れた。
      (ちょうど、グレートトラバース(200名山)が八海山を通過した時期と重なって居たっけ)
     八海山  とは不思議な 縁 がある会社である。    

     小生としては何の縁も無いのだが、出来ればこの道からのワンショットを残したいと思う。
     もし、社員だったら、社員食堂(2F)からのビデオ映像も残せるだろう。
     (社員達の環境が羨ましいですね!)

 

   ◆ 浦佐周辺では 浦佐スキー場のレストハウス付近から  ・・・過去、何処かのサイトより入手
八海山 -  030 (Web) 浦佐スキー場-thumb-640x278-13701.jpg

   写真は、右端の山が「八海山」、その左側が「越後駒ヶ岳」、標高600m位迄雪が来た晩秋の
   季節と思われる。 空気が乾いて居ればこその風景で、春には殆んど望めない晴天です。

      写真の出典不明。 もし写真を撮影された方がご覧でしたらご連絡下さい。 
       もし、不都合が有りましたら掲載を削除致します。

      浦佐スキー場は 数年前廃止 になってしまった為、今では車では登れないかも知れ
       ません。
       また、スキー場への立ち入りには、「管理者の許可を得る必要がある」かも知れま
       せんのでご注意願います。

     レストハウス迄の途中でもOK(但し車道の邪魔をしない事)
     付近からの越後三山と新幹線は絵になると思う。 画面左に浦佐駅が見える。
     空気が澄む10月以降がよりスッキリとした映像に!
     新幹線迄遠いので、もしかしたら普通の新幹線が返ってハッキリ撮れるかも知れませ
     んね! (ズームUPすると山と新幹線の画像バランスが難しくなるかもしれません)

     こゝ、浦佐スキー場からは山と新幹線と欲張らず、山は山・新幹線は新幹線と別々に
     構図を作った方がいい写真になるかもしれませんね!

     この距離では、せっかく綺麗な【現美デザイン】写真にすると風景に負けてしまう
     が多いでしょう。
     ( 余程 乾燥 時の 快晴 で、西日に近い日差し の時で無いと、色彩が出ない でしょう )

 

   新幹線は浦佐駅を出るとすぐにまたトンネルに潜ってしまう

 

 

3.現美新幹線にも乗って、更に魚沼盆地を周るバスの旅
      【 JRと旅行会社のコラボ企画 】

 

   ◆ 越後湯沢からバスで「今泉記念館」「トミオカホワイト」等を周って長岡から湯沢に戻る
2016.09.18 A 005 【現美新幹線】 .jpg

その始まりは何気なく撮影して回っていた故郷の棚田の片隅にひっそりと、しかし気高く咲き誇る
数群の野草の群れであった。
 
場所は 新潟県南魚沼市と十日町市を結ぶ国道235号線の沿線、発箇峠(トンネル)から十日町側へ
約1km位下った人家が見え始める直前の、左右に棚田が広がる付近
。  国道235号線両側の田圃の
畦道に生えた ツユクサの群れの各所に、掲載写真の様な風変りな小さな花のツユクサが群れを作っ
て咲いているのを発見
した事から始まった。 (名称:不明)
(普通のツユクサの群れの中に囲まれ、小さな花のツユクサが 0.5~1 ㎡ 位の島の様な小さな群れ
 を作って数ケ所に咲いていた ・・・ その時は国道235号沿いの両脇で、5ヶ所を確認していた )
 
   ◆ 新種? ツユクサの変種?  (2005年8月13日撮影)
           ・・・・・ 写真左後方の大きな花が普通のツユクサの花
2005.08.13 ツユクサ 001 (変種)R253十八箇峠→十日町寄り畔道にて(1280×955).jpg
 
最近では国道沿線の開発が進み棚田の趣も変ったり、人家も増えて来て当時の趣はなくなりつゝある
様ですが、当時は国道の両側に分散して普通のツユクサと混生していた。
 勿論、普通のツユクサは周りり一帯が群生地と言える位に密生していた。
混生と言っても、写真の様に小さな花のツユクサ群の中に、普通のツユクサがポツン・ポツンと咲い
ている状況で、その花の群れの隣には、普通のツユクサの花がやはり群れて咲いて居た。
(普通のツユクサの群れの中にこの小さな個体が混生している状況は無かった・・・数ケ所確認済)
小さい花のツユクサの特徴
   1.花の色が濃い青色である
   2.花びらの先端が丸く萎んだ感じになっている
   3.花の大きさは、普通のツユクサの 1/3~4 位 の大きさ
   4.草丈、葉の形状、色等は普通のツユクサと同じ
   (花以外では、普通のツユクサとまったく見分けが付かない)
などから、農薬等による「突然変異」か?とも疑って見たが、それにしては広範囲の田圃の畔や路傍
に植生が見られ、普通のツユクサも混植して居た。
2005年に見付けた時は深く考える事も無く写真を撮っただけであったが、以来11年間、毎年では 無
いが、この時期になると同じ場所 (付近) や 全国の行く先々で ツユクサを見付けると、探して見て
いるが、未だにあの花同じ花には出会えていない。
従って、農薬などに依る突然変だったのか、あの年だけで消滅したものだったのか、未だにミステリー
のまゝ
です。
 
添付写真では40~50本ほどの花の集団の中に数本だけ、普通のツユクサの花が混じっていたものです。
そんな花の集団が国道235号線の両側の田圃の畔際に計 5ヶ所は有ったと記憶していますが、2年後に
行った時には 1ヶ所 も(1本も)花が見当たりませんでした。(季節は同じ8月上旬)
普通のツユクサは、旺盛に咲いて居たし、大きく土地改良工事をした様子は見られ無かったと思う。
以降、同じ季節に何回か行っているが、やはり R235 沿線で見付ける事は出来ませんでした。
 
もし、花の名前をご存知だったり、何処かで同じものを見つけたら、是非 教えて下さいね!
宜しくお願い致します。
 
 
 
 

 

  【アズマシロカネソウ】と言う山野草をご存知ですか?

    漢字で書けば【東白銀草】、その花は可憐で小さくて

       清楚な中に華やかさがあり、見れば見る程美しい

 

   ≪お詫びと訂正≫ ・・・・・ 開花時期の件
   下記文中、南魚沼地方では【田植前後の頃】と書きましたが、今年の場合は4月初旬には
   咲いていたとの事でした。 小生の経験則だけで記載して居ました事をお詫び致します。

   開花条件は植生地域・地形・標高・気温その他が影響する為毎年同じには行かない様です。
   今年は極端に積雪量が少なかった事が原因かも知れませんが、この地方の開花時期につい
   ては下記の通り訂正させて頂きます。
    【開花時期】 誤 : 田植前後の頃  ⇒ 正 : 3月下旬~5月上旬頃の間の約10日間 

   なお、下記本文は便宜上原文のまゝ訂正しませんので悪しからず願います。

 

アズマシロカネソウ(東白銀草)は、主に秋田~福井(京都・丹後半島でも確認報告あり)の日本海側の山間地に分布。 中でも新潟県はその愛好者が多いせいか自然の個体数が多く確認されている地域です。

私の故郷、新潟県の南魚沼地方では田植え前後の季節に可憐な花を開く山野草で、山裾の清水が湧きだす様な谷筋の岩に着いたコケに着生したり水流や風で飛ばされた種で下流の砂礫が多い岸辺に着生しているものが多く見られる。
この山野草は清流の証と言った人もある位、綺麗な水の流れている岩場や小流・その脇の湿った木陰を好む。

山菜採りで【ミヤマイラクサ】や【ミズ】などを求めて沢筋を歩くと、時々見かける花だ
開花期が終わると魚の尾の様な形の小さな種になるが葉と同色になり目立たなくなる

近畿地方では絶滅種、京都府では絶滅危惧寸前種に指定されているが、我等の故郷でも見られる場所は極めて山の裾野や山中の沢筋に限られる様になって来た希少種。

 何とか植生環境を守りたいものです。

不思議な事に、京都府~山口県にかけて日本海側には【サンインシロカネソウ】と言う同属の山野草があるとの事ですが、写真しか見た事が無いので違いが良く解らない。 日本海側の京都府から福井県南部を境に南は【山陰白銀草】、北は【東白銀草】が分布し、殆んど混生している所は無いらしい。
その内、何かの機会に実物を見てみたいと思っています。
しかし、本州の同じ日本海側で、ほゞ半分づつを同属の植物が済み分けているなんて不思議ですね?

 

それでは、アズマシロカネソウの写真を!

   ◆ 故郷・南魚沼市の、とある水源地にて、 【妖精達の集い】と命名してますアズマシロカネソウ (雷電様にて 2007.04.16).jpg

   この写真の水滴は、アズマシロカネソウ自身が体内から夜の間に余分な水分を吐き出して出来た
   もので夜明けと共に再度アズマシロカネソウの中に吸い上げられたり蒸発して数時間で無くなる

   写真の花はまだこれから咲くもので、今日(撮影日)は一輪、明日二~三輪・・・と咲いたと思う
   

対象とする花は小さく下向きにうつむいて咲く為花を被写体とするにはマクロレンズや高級カメラが欲しくなるが根気と工夫があれば思い掛けない写真が撮れる。
掲載の写真も800万画素のコンパクトデジカメ(以下、「コンデジ」と表記)で、中々焦点が合わなかったり背景のボカシが少なく立体感が出なかったりしましたが、思考錯誤しながら20枚近く撮影したモノの1枚をトリミング補正したものです。
勿論、高級カメラとマクロレンズで有れば、1~2枚で充分満足な撮影が出来る筈ですが、持ち合わせて居ない時も私はこうして対応して居ます。

 ※ デジカメ時代の有難さは、パチパチ何枚でも撮れる、失敗写真は何回でも消去出来撮影し直せる事。
   メモリ容量も大容量化した昨今、失敗を恐れず色々な撮影を試みて、後から選別すればいい

   ただ、逆光時の対処にはデータの差が大きく画像編集ソフトを使っても補正に限界があり正確な画像
   の復元が難しい場合が多い様です。

掲載の写真は約10年前のものですが、中々、この様なチャンスに恵まれず、【妖精の集い 2】は未だ撮れて居ません。
 (関東地域に住み、仕事を持って居ると、やはりベストチャンスには中々恵まれない様です)

 

なお、「アズマシロカネソウ」のキーワードでネット画像を検索すると、花々の写真が沢山見られますので、一般の写真はそちらにお任せし、此処では省略致します。

 

【アズマシロカネソウ】のファンは結構多い様ですが、くれぐれも自然界の個体採収はご遠慮願います。
自宅で栽培したければ、栽培ものを購入して下さい (自然個体採取よりも育て易い筈です)

また、被写体が小さい為写真撮影の為に自然を踏み荒らす事の無い様、皆で大切に守りましょう。

 

  少子化現象は我等の故郷も抗し難く、近隣3校統合に伴い母校「城内中学校」を、増・改築の上、
  2018年度より新たに、統合校・【八海中学校】として発足する事になった事はご存知の方も
  多いと思う。

  今年8月末起工式が行われ、9月からはすでに整地工事などが始まっているので従来の姿を見る
  機会も少なくなりつつある昨今、我等【城中】卒業生の心の原風景とも言える学校の姿を一部で
  すが紹介しましょう。

 

桜の季節・【グラウンドからの校舎】

今年の春、何気なく撮影した城内中学校の写真ですが、今となっては来年からは姿を変えてしまう為、
【2度と見られ無くなった風景】です。

 ※ 9月から着工の新校舎が、下記写真の左奥に見える体育館(青い屋根)の手前に建つ為と、
    学校の正門が左の宇田沢川・堤防道路側に移る事で、この景観もかなり変わる事と思う。

   ◆ 2015年4月28日 (写真は複数枚の合成ですので不連続部分は悪しからず)
2015.04.28F _23 城内中学校付近より.jpg
2015.04.28F _13 B 城内中学校.jpg
2015.04.28F 28・29F _16B 城内中学校付近より.jpg

 

新な統合校は「五十沢中学校」「大巻中学校」「城内中学校」の3校で、【八海中学校】となる。

   ◆ 【八海中学校】 起工式 (南魚沼市 HPよりワンカット)
八海中学校起工式(2015.08.31).JPG

 

とは言うものゝ、我等の年代では現在の「城内中学校・校舎」も新し過ぎて馴染が無い人も多いでしょう。
と、言ってもこう言う事態は想定外だった為手持ちの写真は下記1枚しか見付からない。

   ◆ 昭和30年代(小生が中学校時代)宇田沢川対岸「暮坪山」の上から義兄が写した風景
S30年代上原 (1280×388).jpg

   ◆ 上の写真を八海山倶楽部仲間の亘氏が絵にしてくれたもの  (こちらが非常にわかり易いと思う)
S30年代の学校全景(小・中学校).jpg

    左に合同製糸の煙突が、右側に城内中学校と小学校(一部)が見える。 後に宇田沢川の
    氾濫で、手前に見えるグラウンドの大半が流失、冒頭の写真はその後に再建された学校の
    グラウンド。

   ◆ 昭和30年代写真の撮影場所  :  現代の「暮坪山」 ・・・ 頂上に杉が数本見える所
          (右奥に続く尾根の山が「鬼の面山」、宇田沢川に落ち込む崖が「鬼の面」)
2015.04.28F 暮坪から鬼の面.jpg

    3月末、南国育ちの義兄が【凍み渡り】をしたいと言うので一緒に登った時写してもらった
    写真が思いがけない記念写真となった。

    此処から見える暮坪山の斜面は、春先にカタクリが真っ先に出て、麓(集落名)の六万騎
    山に匹敵する位(?)の群落が見られた所だった。 

    最近では山が人々の生活様式の変化で (芝刈り等の手入れが無くなり) 放置された為 、
    カタクリも減り、山頂の杉迄辿り付くにはかなりの藪漕ぎを覚悟しなければならない様だ。
      (何年か前、右側杉林から登ろうと試みたが昔の杣道は雑木の藪で消えて居た)

 

☆ 出来れば何処かに年代ごとの学校・城内関連写真を集めたコーナーでもあればいいかもね!

 

 

今は夏から秋への端境期(ハザカイキ)、あと数週間で紅葉シーズンに突入だ!

そんな端境期の9/1(火)、世間一般とは違うけど久し振りの休日でTVを眺めていたら、

    【“八海山”、銀座のホテルとコラボで女性客向け宿泊サービス企画!】

と言う二ユースが流れた。 (TV東京、L4 you プラス と言う二ユース番組)

2015.09.01 -002 八海山&ホテルのコラボ (TV東京・L4you).jpg

2015.09.01 -003 八海山&ホテルのコラボ (TV東京・L4you).jpg

そう、『八海山』は八海山でも故郷の「酒造メーカーのブランド名」の『八海山』であった。

 

 

話題 1 ・・・ 銀座で泊って、八海山を堪能(女性限定)

その『八海山』と、銀座のホテル『三井ガーデンホテル・銀座プレミア』がコラボレーション企画
として、女性客向けの宿泊サービスを始めたとの事。(2016/3末迄)

2015.09.01 -007 八海山&ホテルのコラボ (TV東京・L4you).jpg2015.09.01 -009 八海山&ホテルのコラボ (TV東京・L4you).jpg

2015.09.01 -011 八海山&ホテルのコラボ (TV東京・L4you).jpg

女性ルームにはスパークリング仕立ての日本酒・八海山の他に、八海山をイメージしたデザインラベル「シャンプー、ボディソープ、洗顔クリーム等もセット」で準備してあるとの事。

それにしても、このラベルデザイン、城内育ちの私には一目で分かる、感動モノだ!(さすが、城内育ちの「八海山」目線)

霊峰・八海山(200名山のひとつ)から流れ出る「宇田沢川」の様子が簡潔にデザインされている。

参考迄に、今春の写真と見比べてみて下さい。

2015.04.28G _121 故郷の山 【八海山の春】.jpg

 霊峰・八海山から流れ、旧城内地域を貫き魚野川に流れ込む【宇田沢川 (うだぞう川)】
(雪解けの頃、今でも両岸には所処にアズマイチゲの群落が咲いていて、残したい自然だ)

 

 

 

話題 2  ・・・ 小さな旅で、八海山の岩峰

小さな旅:言う迄もなく、NHKの日曜朝8時からの自然・伝統文化などをテーマにした長寿番組。

その「小さな旅」で、この地域としては2回目の放送が有った。

1 回目は4~5年前、晩秋の八海山に2~3回目の降雪があり、里もいよいよ根雪が来ると言う、
冬直前の12月上旬、八海山麓の山口集落を中心に冬に備える為の【秋仕舞い(冬支度)】をテー
マとした【小さな旅】が放送された。  (写真はその放送のひとコマ)

 この地方には古くから、「八海山に3度雪が降ったら里にも根雪が来る」との言い伝えもある。

小さな旅・秋仕舞い.jpg

 

今回は山の上【八海山の岩峰】・・・“霊峰”と呼ばれる由来の修験道【八ツ峰】がテーマ。

取材は7月との事でしたが、地元に居る人さえも中々寄せ付けない、主稜の岩峰を辿る山旅8月
30日の放送で見せてくれました。
 山好きの私でしたが、主稜コースは2回しか行った事が無い、岩稜経験の無い人は巻道を!
   それ位、準備・体力なしでは危険なコースが続く場所。
(昨年も滑落事故2件ありとの事)

とは言え、八海山は我等に取っては『心の山』、この岩峰を晴れた日には毎日眺めながら育った山
なのである。

その山が今回の「小さな旅」で放映された。

2015.08.30 -001 八海山 (NHK・小さな旅).jpg

 

以下、番組の進行を追って画面(TV画面写真)を抜粋して紹介しましょう。

   ◆ 登山口城内・上原付近からの八海山
2015.08.30 -011 八海山 (NHK・小さな旅).jpg

 

   ◆ 八海山ロープウエイで4合目迄 
2015.08.30 -013 八海山 (NHK・小さな旅).jpg

 

   ◆ 山頂駅前(4合目)登山口付近
2015.08.30 -015 八海山 (NHK・小さな旅).jpg

2015.08.30 -014 八海山 (NHK・小さな旅).jpg

   ◆ 地元のオシドリ夫婦、ご主人81歳・奥様75歳との事、歳もびっくりだが、
      12年前に仕事をリタイアして八海山登山を始め、今日で440回目との事
2015.08.30 -016 八海山 (NHK・小さな旅).jpg

   ◆ 薬師岳(9合目)から千本檜小屋と、八ツ峰最初の地蔵岳2015.08.30 -017 八海山 (NHK・小さな旅).jpg

 

こゝで、城内方面からの八ッ峰がどんな風に見えるかイメージして置くと参考になるでしょう。

   ◆ かってNHKドラマ『天地人』放映の頃作成した写真(拡大して見て下さい)
八海山 -  008上原からのズーム.jpg

        ※    八つ峰の最高峰「大日岳」の標高は1720m、八海山(全体)の
                 最高峰「入道岳」(大日岳の右側)の標高は、1778mです。

   ◆ 『天地人』でオープニング画面に使われた地蔵岳山頂シーン
2010 大河ドラマ 【天地人オープニング】.jpg

  主人公・直江兼続役の妻夫木聡さんが登ったと知って、一時多くの女性ファンが押し
  掛けたとの話も聞いた。(こゝ迄は容易に登る事が出来る為)

話を元に戻しましょう。

   ◆ 八ッ峰2つ目の不動岳から振り返った風景
           (手前から、地蔵岳・千本檜小屋・薬師岳)
2015.08.30 -018 八海山 (NHK・小さな旅).jpg

   ◆ 不動岳山頂、こゝから先左奥の八ッ峰が鎖場・ハシゴが続く難所となる
2015.08.30 -020 八海山 (NHK・小さな旅).jpg

2015.08.30 -019 八海山 (NHK・小さな旅).jpg

2015.08.30 -005・6 八海山 (NHK・小さな旅).jpg

    ◆ 摩利支岳からの下り2015.08.30 -021 八海山 (NHK・小さな旅).jpg
2015.08.30 -022 八海山 (NHK・小さな旅).jpg

   ◆ 大日岳最後の登り
2015.08.30 -024 八海山 (NHK・小さな旅).jpg

   ◆ 大日岳 山頂 (八ツ峰の最高峰=1,720m)2015.08.30 -030 八海山 (NHK・小さな旅).jpg

2015.08.30 -032 八海山 (NHK・小さな旅).jpg

2015.08.30 -031 八海山 (NHK・小さな旅).jpg

2015.08.30 -034 八海山 (NHK・小さな旅).jpg

   ◆ 大日岳からの遠望(西側:城内方向)
2015.08.30 -039 八海山 (NHK・小さな旅).jpg

   ◆ 大日岳からの遠望(東北東側:越後駒ヶ岳~南南東側:入道岳)
2015.08.30 -041 八海山 (NHK・小さな旅).jpg

 

 「小さな旅」はこゝ迄で、この後は巻道ルート経由で千本檜小屋迄戻り、ロープウエイ経由で下山
  したであろう事を、地蔵岳山頂で夕陽を浴び、ほら貝を吹く山伏のシーンで終わっている事が示唆
  している。

  下記【グレートトラバース 2】の 田中陽季氏 はこゝ大日岳から入道岳(大日岳下りの鎖場を下り
  れば入道岳迄岩場は無い)を経て左に見える尾根筋沿いに(途中右にカーブして)中ノ岳に行く事
  になる。
      【誤記訂正】 2015.09.15
              上記、「入道岳を経て左に見える尾根筋沿いに・・・」と書いたアンダーラインの部分
              実は尾根ひとつ間違えていましたこゝ大日岳から見えない、もうひとつ向う側の尾根
              でした。 訂正の上、お詫び致します。
          (中ノ岳へは先の五竜岳で左に分岐し少し右カーブしながら下って痩せ尾根に取り付く)

   ◆ 八海山~中ノ岳への分岐ルート (カシミール3Dより)
カシミール 八海山から五竜岳.JPG

   ◆ 関連地図(越後三山と二百名山・荒沢岳周辺・・・カシミール3Dより)
グレートトラバース2(八海山から平ケ岳1280).jpg

 

  ただ、このコースは痩せ尾根のアップダウンが続く上、アプローチが長く体力と高い登山技術 が
  求められる。
 (特に、普通の人には八海山➡中ノ岳ルートは逆ルートの1,3~1,8倍の時間が掛かると言われてる)

   単独行上級者リーダーの居ないパーテー体力の無いメンバーの居るパーテー  は入山しない事。

   特に八海山から中ノ岳方向へのルートは総合的に登りとなり天候によっては上級者でも避けるべき
   ルートになる / 越後三山を縦走するなら、越後駒ヶ岳 ⇒ 中ノ岳 ⇒ 八海山  のルートがお薦め

 

下記【グレートトラバース 2】では、「八海山」⇒「中ノ岳」⇒ 兎岳 ⇒「荒沢岳」と踏破する。
因みに荒沢岳の北側は銀山湖で、こちらの斜面は湖岸に沿って巨大な岸壁が続いている。
この屏風の様な人を寄せ付けない岸壁から幾筋もの沢が流れ出ている様を見ると、昔の人が「荒沢岳」
と名付けた事にも納得が行く。
紅葉の時期、銀山湖の湖岸を走るとひと際目立って荒々しい山肌と紅葉と湖水のコラボレーション
楽しめて美しいですよ!

 紅葉 : 9月末頃~10月15日頃迄・・今年は集中豪雨の後の為道路情報は必ず事前確認の事!

 

 

 

話題 3 ・・・ グレートトラバース 2(200名山シリーズ)

 

 ※ 9月12日(土)BSプレミアムの「第2集・東北~新潟編」で放送の予定。

          因みに、第1集は「北海道編」で放送済。 【 八海山~中ノ岳】は第2集、12日放送分に入る
             放送時間は午後9時~11時迄の約2時間。

 

   ◆ 取材風景:ブログ仲間の昇氏が投稿していたワンシーンを借用(8/3 八海山4合目にて)
15.08.02-1.jpg

 

       走者は 昨年の「日本百名山ひと筆書き~グレートトラバース1」と同じ『田中陽希』氏。

   掲載ブログ詳細は、昇page 参照 : http://hakkaisan-photo.com/non/2015/08/post-119.html

 

   NHK・BSの番組HPも参照すると、コースやこれからのスケジュールなど詳細が見られますよ!

        まだ許可を頂いて無いのでHPにリンクは差し控えますが、タイトル名とURLを下記して置きます。

                タイトル :   日本2百名山ひと筆書き~グレートトラバース2

                 URL      :    http://www.greattraverse.com/project.html

  このスケジュール表を見ると、5月29日に2百名山最北の、北海道・暑寒別岳(北海道の尾瀬と
  言う人も居る「雨竜沼(雨竜湿原)」から見るとちょうど「尾瀬ヶ原から見た至仏山」をイメージ
  させる山)をスタートして、八海山~中ノ岳は 8月3日(26及び27座目)、今日9月7日現在
  は「山梨県・乾徳山(49座目)だったそうです。  

  田中陽希氏 及び 撮影スタッフ達の 驚異的な体力・精神力に、唯々感服させられている。

いよいよ来週から師走!

師走になると毎年思い出す事がある、それは雪国ならではの事で、もはや忘れ去られてしまいそうな小さな事だが、恐らく同年代の人達には共感頂ける事だろうと思う。

ちょっと話題にするには季節が早いかも知れないが、「クシキ」「ガッチャン」と言う言葉、だんだん忘れ去られる運命なのかなあ!

最も、「クシキ」はそのまゝだと思うが、「ガッチャン」は恐らくこの地方だけの呼び名だと思う。

現在の平均的父親・母親世代位から若い世代の人には、同じ雪国暮らしでも殆んど知らない言葉であり、今では知る人の方が少ないのではないかな?

何はともあれ、写真を見た方がわかり易いでしょう!

 

【クシキ】

   ◆ 昭和37年1月中旬の写真・・・家の前の雪かきや屋根の雪降ろしには必需品だったS37年1月 13・14・15日 - 005 (田舎・上原).jpg

    我が家の玄関前、当時12月末~2月下旬迄は早朝自宅前から公道迄、各戸毎に除雪するが、
    大抵の家では小学校上級生頃から、これが通学前の我等の仕事になっていた。
    そんな時、クシキはシャベル(スコップ)より軽くて扱い易い道具であった。

    屋根の雪降しはやはり、雪が締まってクシキよりシャベルが便利になる2月下旬迄、軽くて軽快
    に使えるクシキはプラスチックのスコップが出て来る迄、無くてはならない雪国の必需品。

    自分の背丈以上に降り積もった雪壁にクシキで縦に切れ目を入れ50cm~1m四方の、大き目な
    豆腐の様な雪のブロックを切りだし、思った所に投げ降ろせた時は妙に感動した事も有ったっけ。

 

【ガッチャン】

   ◆ スキー靴など学校の体育教師しか履いて居ない時代、我等にはガッチャンが有った
S37年1月 13・14・15日 - 008 (田舎・上原).jpg

   そう、普通のゴム長靴でスキーを履く為の金具、我々はそれを【ガッチャン】と呼んで居た。
   スキーを履く時、金具を締める音が「ガッチャン」と聞こえるのが名前の由来と思うが、本当の製
   品名かどうかは知らない。

   残念ながらボケた写真しか無いが、【スキーに長靴の先端(爪先部)を保持する金具を取り付け
   そこからカカト迄革で繋ぎ長靴のカカトを金具で止める事で、スキーを保持する金具】
である。

   現在の、ノルデックスキーをイメージして貰えればわかり易いと思うが、カカトが持ち上がる構造。
   (勿論、現在のノルデックスキー用金具とは根本的に構造や耐久性が違い、比べ物にならない)

   この(昭和37年)頃にはスキー技術も進みつつある途上で、写真では付けて無いが、カカトを固
   定する為の「ゼンケイ」と言う物が使われる様になっていた。
    (名前の由来は、これを付けると前傾姿勢をとれるから ・・・ だと思うのだが?)
   これはカカトの後部に金具を取り付け革紐で長靴の上からくるぶし付近に巻き付け固定するもので、
   これにより ボーゲン直滑降斜滑降 程度しか出来なかったスキーが、簡単なスラローム位迄出来
   る様になったものだ。 (ただし、競技用には無理があったと思う)

 

【スケート】

   残念ながら氷の上で滑れる様な場所は我らの故郷(魚沼地方全体)には無く、スケート文化は遅れ
   て居たのだと思う。 (本格的スケート靴では歯が雪にメリ込んで滑る事が出来ない為)

   が、遊びとしてのスケート文化は先輩から確実に受け継いで居た。
   写真は無いが、誰が考案したのか、遊び心には感服する。
   【スケート靴の歯型の部分を厚さ1~2cmの1枚の板(木)で切り出し、長靴を結わえ付ける
   為の板を歯型の上(カカトの方から見ればT字型)に付けて紐を付ければ外形的には完成】。

   更に、氷上・と言うより、固くなった雪面を滑る為には
    「歯型の接氷面に、ワックス(鳥獣の油やロウ等)を塗ったり、薄く削った竹の皮やトタン板
    を貼って」 滑りを良くする工夫

   を加えてスケートが完成する。

   と、言う構造のもので、当然市販品は無く各自・自作(もしくは誰かに作ってもらう)もので有っ
   たと思う。  (大工であった私の親父も時々頼まれて作っていた様だ)

   いつ滑るか? ・・・・・ 今でしょ! なんて言いません!
   やっぱり滑るには「雪の固まる条件」が揃わないと滑れません。
   雪国育ちの皆さんならもうお気づきと思いますが!・・・ そうです、凍み渡りの時。
   田圃や畑の上がちょうど良いスケートリンクとなる訳だ。

   でも、個人的には同じ所をぐるぐる回るだけの遊びにはすぐ飽きてしまい、スキー担いで野山に
   出かけて、キジ や ヤマドリ、ウサギ 等を追いかける事に熱中する事が多かった。
    (今では狩猟免許が無いと出来ない事ではあるが ・・・)

 

 【雪国の朝】・・・・晴れた日に玄関を開けると

   上記・記事とは直接関係ないのだが、思い出深い光景が同時期のネガに見付かった。

   ◆ 昭和37年1月中旬、【晴天の朝10時頃】、自宅玄関前からの藤原山(桂山)方向
S37年1月 13・14・15日 - 003 (田舎・上原).jpg

   この眺めが好きだった!

           厳しい吹雪も 暗い雪雲の日々も、

                   この、凛とした空気と陽光がすべてを洗い流す

             こんな日差しが1日有ればこそ、10日の吹雪にも耐えられる

                        今の私の原点を育てた風景が、ここに有った。
  

           「ふるさと今昔物語 Part-1」  より続く

 

再び、実家の周辺図から始めましょう。

   ◆ 不完全ですが、「昭和30年代の屋号」上原十字路下(しも)の図
       本図は小生の記憶の範囲で作成、後日修正版との差し替えを予定中。
S30年代上原十字路(下).jpg

    上図中、少なくとも実家を中心とした薬師様・役場・鎮守様・映画管周辺のエリアについては
    間違い無いと思う。(城内文化・映画館通りの上下エリア)

 

【新田掘】

我が家の前の川が【新田掘】で、上流は田崎の先、【三国川(さくりごう)】・深沢(ふかそう)の八ヶ堰から取水して上原のほゞ中央を横切り、【宇田沢(うだぞう)川】の河底を潜り、長森新田の灌漑用水として、現在もその田畑を潤している。

   ◆ 我が家の前での【ママ探り(魚の手掴み漁)】 ・・・・ ヤマメやイワナも捕れた
故郷の昔 - 020 (抜粋).jpg

   注 : 前の家に渡る橋がコンクリート製になっている (以前の写真では木製の橋)

実はこの灌漑用水、徳川・四代将軍家綱の時代、藩(越後高田藩)の「米(年貢米)増産」政策での長森ヶ原新田開発計画が発端
山懐の浅い宇田沢川の水量だけではそれまでの田畑で限界があり、山懐の深い三国川の豊富な水を引こうと言う事になったのが理由。
しかし、これには藩内では裁き切れない反対運動が起き幕府を巻き込んだ裁定の結果計画通り推進となったと伝えられている。
   (最新版、「新編 城内郷土誌」より、
             以下の内容も、同郷土誌の解説に私の推論を加えたもの

単なる村人の反対運動だけでなく、当時まだ寺領や格式が10万石(これは?)相当の【法音寺】が係わって居て、その結果は反対運動側の敗訴、法音寺も反対の立場だった。 (法音寺の場合、工事に伴って寺領地の削減などの不利益生じる為)
現在の法音寺の侘しさを考えると、もしかしてこの事件が凋落の一因ともなっているのかも知れない。

法音寺の件は、別の機会にするとして、新田掘の規模は、とても江戸時代初期のものとは思えない大工事を行って作られている事に、今でも驚かされる。

私が実際に見て感動するポイントを幾つか挙げると、
   ① 測量技術
       三国川から宇田沢川を抜けて長森新田に流す為の傾斜をどの様にして作ったのか?
       直線では無く干溝からハコドヨ迄の傾斜丘陵台地を、深さ10m以上まで開削して作っ
       ている。
       もっとも、もし自然傾斜で流すと地形的に丘陵台地の端、石万川(ごくまんごう)と並
       行に流すしか無くなり、長森新田の半分も灌漑に使えなくなる事も想像出来る。
   ② ハコドヨ(水路の大規模立体交差点)の発想
       実は新田掘開削前からの川だったものと思うが、私の知る限りでは湧水等の水源を持た
       ない川の様で、雪解け時期や雨の後数日で干上がり、灌漑用水の役割は少なかった様だ
       が、雨が続いたり集中豪雨の様な時は異常な増水が見られた事から災害対策の安全弁的
       な川であった様だ。
       因みに下流でも石万川に合流させずに下原新田で宇田沢川に流していたのも同様の理由
       からと思われる。
       従って、人家の多い方に向かって流れる新田掘に合流させると災害も予想される為、立
       体交差で従来通りの方向へ流す構造を作ったものと思うが、発想が凄い。
       ハコドヨの上流は杉や雑木の林に囲まれて藤原まで続いていたが、その川ををミズオシ
       と呼んでいたのも「水が押し出して来る」と言う意味だったのかも知れない。
   ③ 宇田沢川の川底を渡して長森ヶ原の新田開発が出来ると言う発想
       これは当時としては奇想天外な発想で有った事と思う。
       この発想をした人とそれを認めて実行した高田藩為政者に敬意を表したい。
       先に書いた反対運動や技術的な困難等、余程の実行力が無ければ成し得ない事である。

   注 :  「新編 城内郷土誌」の中では高田藩主を「松平上総之輔」とだけ記載している為誤記
       かどうか、真偽はわからないが「 松平姓」で「上総之輔」と言う高田藩主は存在せず、
       【松平上総介(かずさのすけ)忠輝】と言う藩主が居た事は有るが 四代将軍家綱の時
       代にはすでに改易されて後任が2代も代わっている。
       将軍家綱の時代の藩主は【松平越後守(えちごのかみ)光永】、この頃家老・小栗美
       作(みまさか)と美作が招聘した家臣・河村瑞賢(ずいけん)の指揮で新田開発・殖
       産興業等を行った事が周知の事実として記録されている。
       つまり、【「新田掘 開削事業]と「長森ヶ原の新田開発」】はこれ等藩政の一環事業
       のひとつで有った事が推測できる。
       小栗美作や河村瑞賢が推進者として係わっているなら、奇想天外な案も有りだろう。

 

【新田堀】の現在 ・・・・・ (実家周辺) 

    以下現在の写真は Google Map ストリートビューよりの画像です。

   ◆ 実家前 : 新田堀は道路の下を流れている
sv 実家.jpg

     道路の中央は消雪パイプのラインで、新田堀はその右側の舗装の下を流れている。
     左側、沼田屋の向こう、県道を越えると新田堀が道路の左に姿を現す。

   ◆ 県道から先の新田堀 ・・・・ 道路の左側     (この写真は自分の撮影)
2007.05.21 _ A (1280×711).jpg

     左に現われた新田堀、宇田沢川堰堤道路(薬師様や墓地のある所)の手前で土管に
     吸い込まれ、対岸の長森新田で再び地上に現われる。

   ◆ ストリートビューが行ける限界、薬師様は右手前の家に隠れて見えない
sv 上原・薬師様.jpg


再度、実家前より新田堀の今

   ◆ 映画館通り、左右の風景 (新田堀・下流方向)sv 新田堀下流方向.jpg

   ◆ 映画管通り、左右の風景 (新田堀・上流方向)
sv 新田堀上流方向.jpg

     この写真の道幅のほゞ中央から左側(橙色の線の間)が【新田堀】、赤い鉄の板は
     消雪作業時などに開けて使う部分のフタ。 (右端は普通の側溝で、雨は新田堀へ)

     昭和30年代はこの道の突き当りに、【城内文化】と言う映画館が有った。
     (突き当りと言っても当時の突き当りは、奥に見える三角屋根の家位の場所)

もう一度、県道の上手(八海山方向)と、下手(下原方向)
   (下手は県道がカーブの為、鎮守の森迄しか見えない)

   ◆ 沼田屋前から左の道が上原十字路から山口・八海山方向、右は映画館通り
sv 沼田屋角から八海山方向.jpg

     冒頭の「昭和30年代地図」にも記載した、昔の薬師様の境内に有った「半鐘」が、今は
     こうして消防小屋の前に吊るされている。 (やはり懐かしい気がするものだ)

   ◆ 下原方向 : 正面の杉が数本見える所が鎮守の森 (今は林とも言えないが)
sv 旧役場前から鎮守様方向.JPG

     昭和30年代は鎮守の森と呼ぶにふさわしい杉林の中に、ご神木と言ってもいい欅の巨木が
     そびえていた。
     そんな神社の境内で、毎年行われた盆踊りも、今はただ懐かしい思い出だけになってしまった。 

 

 

昭和30年代の遊びと「自然の味覚」・・・自然の中で!

     ※ この時代、子供と言えど大人の手伝いが多く仕事の間に行われる遊びも多い。
       それ等は遊びと言わないものもあるかも知れないが、私の独断で代表的な幾つかを!

【春】 3月~5月 (魚沼地方:南魚沼市・湯沢町・十日町市・魚沼市周辺)

  ◆ 凍み渡り ・・・・ しみわたり (魚沼地方の表現) ・・・ 仕事上でも活用
       ・ 雪国であれば何処でもする事だが、全国的な共通表現かどうかは不明。
        雪国以外の方の為に、現象の概略
          冬から春に季節が変わる時、大量に積もった雪は春雨や温かくなりつつある南風
          や日中の陽光で、溶けた雪の水滴で表層と大地両側から雪質はザラメ雪に変わる。
          この状態で、昼の間に溶けて表層に残った水滴が、夜間の寒気で氷結し最中の皮
          の様に雪面が凍る。 これが何回か重なり、次第に表層の氷結層が厚くなり、や
          がて人が乗っても沈まなくなる。
          これを利用して、道以外の雪上を移動手段に使う事を【凍み渡り】と呼んで居る。
        遊び : 通常、地上で行う遊びはほとんど実行可、以下はこの時のみの遊び
         ・ そり(橇)遊び      ・ ウサギ・キジ・ヤマドリ追い(捕獲猟)
         ・ 杉っ葉(すぎっぱ)滑り・・杉の葉を尻の下に敷き山の斜面を滑り降りる
         ・ ドッポ(この呼称は城内でも知らない人が多い様だ)
             「落とし穴」の事、表層を丸く切り取りフタにして、その下に穴を掘り
             下に罠を仕掛けてシカ・イノシシ等大・中型動物を捕獲する猟だ。
               (熊には使えない法方らしい)
             子供達の遊びでは罠は無く、危険の無い様浅く掘って悪戯に使った。
         ・ スキー、その他
        仕事・手伝い : 遊びとは言えないが、凍み渡りを利用した作業
         ・ 施肥・肥え撒き
               ・・・施肥と消雪の目的で、人や牛馬の糞尿・堆肥を田畑に撒く作業
         ・ 灰撒き・・・・・・・・青菜(青物野菜)の畑や稲の苗床等の場所の消雪目的
         ・ 炭出し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・炭焼きした木炭の出荷(運搬)
         ・ 山林伐採と運搬・・・・ソリが使え、大きな杉やヒノキ等が運び出し易い時期
         ・ 春山・・・・・・・・・・・・・山林管理やマキ(燃料等の為)の柴刈り作業
         ・ 杉っ葉拾い・・・・焚きつけ(点火)用に杉の葉の枯れ葉を集める子供の仕事

     【注意】 凍み渡りは目に見えない危険もあり、地形を知らない所は行かないのが原則
           夏から秋には水が枯れてしまう様な小川でも、雪解けのこの時期の水量は半端
           では有りません。 また、雪原に隠れた小川の上はアーチ型に抉られて、非常
           に薄くなり、人が上に乗ると、まさに落とし穴(ドッポ)の様に抜け落ちて、
           冷たい水に押し流されて亡くなると言う事故も少なく有りません。
           地元の人でも深い霧に包まれたりすると、雪原の中では方向感覚が狂い、事故
           に遭った事例が有る程、むやみに凍み渡りをする事は危険を伴います。
           特に温暖地域から来られる方々は地元の人に良く確かめて、くれぐれも 知らな
           いエリアに足を踏みいれない様ご注意下さい。

  ◆ 山菜採り ・・・・ 当時は主に自分の家で食べる為に採っていた
         ・ アサヅキ堀り・・・・主に雪解け直後の場所に芽吹く黄色いモヤシ状の新芽。
                     土改(土地改良)後はあまり採れる所が無くなった。
                     最近秋田・山形の一部では、栽培品を別名で売ってい
                     るが、日に当てて栽培しているので普通のワケギと変
                     らない様だ。 それに比べて雪の下からのアサヅキは
                     生で味噌を付けてもヌタや味噌汁等に使うと美味しい。
         ・ 木の芽摘み・・・・・ 魚沼地方ではアケビの新芽(蔓の新芽と葉の新芽、両
                     方とも食べるが、メインは蔓の方)を木の芽と言う。
                     因みにサンショウの葉も最近では木の芽と言うらしい。
         ・ 竹の子採り・・・・・・言わずと知れた、根曲り竹の新芽 (5/末~6月)

         ・ その他・・・・・・・コゴミ、ゼンマイ、ワラビ、ウルイ、ウド、etc.

【夏】 6月~8月

  ◆ トンボ捕り・・・早朝、小川の縁の草を利用して夜の間に這い上がったトンボのヤゴが羽化
            して、まだ飛べないトンボを採集して来て飛び立つ迄を観察する
            (注 : 羽化の途中で羽を掴むと変態が途中で止まり羽が歪み飛べなくなる)

            遊びの対象は、やはりトンボの王者、ヤマドンボ(オニヤンマ)。
            その、羽化したばかりの時は全身が黄色なのに、時間と共に黒と黄色の鎧の
            様な体と大きな透き通った四枚の羽に変わって行く。
            特にヤマドンボのメスはオスより一回り大きな体型で、見飽きなかった。
            当時は捕っては来たが、無事羽化が終えて自然に飛び立つのを見て満足した
            ものである。  (勿論、羽化現場の自然の中で観察する事の方が多い

  ◆ トンボ釣り・・・こちらは日中、やはり殆んどがヤマドンボを対象の捕獲遊び。(他のトンボ
            でも同様に出来たが、遊びとしての面白味は格段に違った様に思う)
            ヤマドンボのメスは小川等の小さな綺麗な水辺をテリトリーにする習性があ
            り日中はこのテリトリーを往復している事が多い。
            そこで、この(主に)メスを網等で捕獲して、これに糸を付けて囮にする

            この囮で多くの場合はオスが飛んで来て、交尾しようと絡み付いた所を捕ま
            える。 この場合、手で簡単に捕獲出来る。
            この捕り方を、トンボを釣る(魚釣りになぞらえてか?)と言う
            別のメスのテリトリーで放すと、攻撃する為か、やはり絡み付く場合があり、
            これも捕獲し易いが、この場合素早くしなければ逃げられる確率も高かった。

  ◆ セミ捕り・・・・これは全国同じ方法だと思うので省略。 ただ羽化について少し参考迄に!
            私の場合、羽化の観察は大抵近くの鎮守様が一番の観察スポットで、アブラ
            ゼミ、ミンミンゼミ、ヒグラシ等の羽化が、晴れた日の夜明けから日の出頃
            迄、飽きさせる事無くあちこちの木の幹で続く。 これは捕ると言う目的よ
            り観察が主で、意外に感動させられたのはアブラゼミの羽化直後
            成虫としてのアブラゼミは良く知られている様に、ミンミンゼミやヒグラシ
            に比べ全身(羽も含み)焦げ茶色系の地味な色をしている。
            それが幼虫から脱皮した直後から羽が伸びきって数分の間全身が【黄緑色】
            のセミが出現する、やがて全身が変色して見慣れたアブラゼミになる。
            その色彩の変化が成虫とのイメージの落差が大きい事に、感動したものだ。

            そう言えばトンボも脱皮直後は黄緑色系の体色で、ミンミンゼミやヒグラシ
            も、なぜか黄緑系の色で羽の成長が完結すると、それぞれの種の本来の色に
            変化して行く。 (ハチやカブトムシも、脱皮直後は黄色系だったと思う)
            脱皮する昆虫に共通で、血液か何かのホルモンに秘密があるかも知れないが、
            これは大学か何処かの研究所にお任せする事にしたい。
            クラゲで貰った人も居る、もしかしたらノーベル賞級の秘密があるかもね

  ◆ 魚捕り・・・・・これについては城内地域独特と言うものは無いが、清流の流れる宇田沢川と
            三国川、そして魚沼盆地を貫いて流れる魚野川。
            それらの河川を主な水源として、縦横に張り巡らせた田畑の小川や導水路が、
            その遊びの場である事から、主に以下の様な遊びになる。

            ☆ ざっこすき(雑魚すき=すくい) 
                     ・・・・「ドジョウすくい」と同じだが、網を使用して
                          小川や水路等での追い込み漁

            ☆ 魚突き(「ヤス突き」とも言ってた様な?) 
                     ・・・・ まさに「ヤス」で突いて捕る漁

            ☆ まゝ探り(前出) 
                     ・・・・ 大きな石や岩の下に出来た窪みに隠れている
                          魚を素手で捕まえる漁
             ※ 岩の窪みや石垣・堰堤の隙間、大きな石の下等を【まま】と言っていた

                    ◆ 

                    ◆

                    ◆

                    e t c .

 

今、我々の故郷でさえ冒頭の写真の様な「ママ探り」や「トンボ釣り」、「杉鉄砲」等、自然の中での遊びをする子供達の姿はほとんど見る事が出来なくなって久しい。
勿論、そう言う自然が少なくなっている事も事実だが、私はすぐ身の回りに遊びの環境が有っても遊べない子供が増えている事に危惧を感じている。

子供達の、【創意工夫】【社会性・協調性・思いやり】【ケンカの限度・危険察知力】【忍耐力】等々は、TVゲームや学校教育で醸成される事よりも、日常の遊びの中で学び・実践しながら覚えて身に付くものではないかと思う。 

一方、家庭内でも家族構成の分散化と仕事の形態が教育環境と乖離(かいり)して、利益優先の社会システムが躾けの崩壊を促進させている。 (経済的弱者の急増も問題)

小人数で、自然の中で、そこに有るもので創意工夫をし、遊ぶルールも自分達で作りながら意見を交換又は戦わせ時にはケンカもしながら自分たちの社会を作って行く事で成長して行く事が本当の教育だと思う。
今の様に無闇に大人が干渉しない。 ただし、放任・無関心は最悪の事態を招く可能性大。
社会秩序を外れたり、危険な行為についてのみ助言・支援をする程度がベスト。

ただ、現代の親世代が、すでに【個の時代】と叫ばれ【TVゲーム】【遊びよりも塾】優先の教育環境で大人への道を歩いた人々の為、急に【子供達を自然へ!】なんて言っても笑われてしまうかも知れない。

しかし、最近の異常な犯罪や限度を知らない若者達の暴行事件、折れ易い精神が原因と思われる切れ易い人の増加が、形を変えて我が子への虐待・・・等々の現象を引き起こしているのではないかと思われる。

詳細な分析はしてないが、本質的な問題点の7割以上が子供時代の躾け環境と育て方に原因があるのではないかと思われる。
従って、これからは学校の授業以外の教育に自然の中での、遊びを通じた情操教育】が、見直され、重要視される時期に来て居ると思う。

発想を変えれば → ビジネスチャンスにも !

首都圏に近い自然も多い我等の故郷は、そんな社会に【子供達の情操教育の場】として廃校などを利用して短期カリキュラムなどを提供すれば、新しいビジネスチャンスが生まれるのでは? と思う。 (南魚沼市全体での取り組みがベスト)
もし、実現すれば子供達の合宿場所の他に、期間(1週間~1ヶ月単位位)中に親達の出入りも予想されるので土産物・道の駅や温泉等の需要も期待出来る。 (あくまでも私見です)

 

この「八海山倶楽部」の仲間、智通君の投稿【懐かしい昭和30年代の上原家屋図】に触発されて、少年時代の古い写真を探して見た。

昭和30年代と言えば、まさに我々が少年時代を過ごしたその時期である。
ただ、実際に写真や資料を探すとなると、学校の卒業記念アルバムや文集など僅かなものしか無い事を痛感させられる。

私の場合、その卒業アルバムや文集なども、転勤先の住居で「阪神淡路大震災」に遭い、住んで居たマンションの上階で下水管が破損、居室内に漏れて来た下水の為に思い出の写真や文集など書類の殆んどを失ってしまった。
そんな状況から僅かに残された写真の中に、義兄(姉のダンナさん)が帰省の都度撮り溜めた写真が数枚残って居たので、今回はその写真と、智通の作ってくれた【昭和30年代上原家屋図】、Google Map(ストリートビュー含む) 等から得られた画像を元に構成してみました。

 

故郷の現在と郷土史の城内全図

   ◆ 南魚沼市の中の故郷周辺 (Google Map より)
六日町・城内 MAP A.jpg

最初に、私達の故郷の昭和30年代を語るには、その頃の行政区割を知っているとわかり易いでしょう。
そう、何回かの市町村合併を繰り返して現在の【南魚沼市】となった訳だが、我々の故郷はその頃【城内村(じょうないむら)】と呼ばれる地域で、現在は学校名等の施設名の一部にその名残りを残すのみで、住所や地名からは【城内】の名前は消えてしまった。

上記のMAP(写真)の左下から上に向かって流れる【魚野川】と、写真下部の中程から左上に向かい魚野川に合流する【三国川(さくりごう)】、それに【桂山】【高倉山】【阿寺山】【八海山】【猿倉山】【六万騎山】から【魚野川】を繋ぐ線で囲まれた地域が、【城内村】とされていた。

   ◆ 城内村全図:昭和35年発行「城内郷土誌」より (I Nagumo 君ご好意による)
                     (下記地図の中で〇印・上原(かみはら)が私の実家周辺)
城内村全図(S35年発行・城内郷土誌より)  (1280×749).jpg

   ◆ 現代の観光周辺Map (南魚沼市観光協会発行パンフより抜粋)
六日町周辺マップ.JPG

   注) このMapは便宜上約90°程、右に回転して作られて居ます。(左側が南、右が北)


さて、ちょっと寄り道になりますが、故郷は今【秋真っ只中】。 
山では紅葉が始まり、里では秋の味覚が色々と登場して来て居る頃、今では中々見る事はなくなったが 私達の少年時代、下記掲載の写真の様な【ハッテ(ハサ掛け)】が、家々の回りや畦道沿いに所狭しと並んで居た事を思い出す。

   ◆ 【ハッテ】掛けの風景
      (数年前のNHK番組のワンシーン/画面写真だけなので番組名・場所不明)
ハッテ 1B  (814×534).jpg

私達が子供の頃の【ハッテ】は横には竹竿などを使ったと記憶しているが、この映像はナイロンの綱の様でより密集して干されている様に思う。
こんな所も近代化した訳だが今はそれも殆んどがカントリーエレベーターで強制乾燥・選別・貯蔵用処理する方式に変わっている。

それにしても、この「稲束を投げ・受け取り干す所作」が、懐かしいのでつい写真に残した。
風景としては残して行きたい光景だが、この後の脱穀や選別等の手間を考えると、TPP対策は別としても労働環境改善の為には不可欠な事だろうと思う。

そうそう、その当時【稲刈り(手刈)】と、【ハッテ掛け】【ハッテ外し(降し)】の作業に関連した【稲束運び】の手伝いがモッパラ子供達の仕事になる訳だが、【稲刈り】や【稲束運び】を手伝った初日の夜は、体中チクチクと痛痒くて眠れない事が有ったなあ!
(次の日位から体が慣れて殆んど気にならなくなるのだが・・・人に依って反応も違った様だ)

昭和30年代の農業は 米の増産・増産が叫ばれ、これを目的の秋田・八郎潟干拓が始まったのも昭和32年でした。 (昭和42年から入植開始→昭和52年竣工)

 

昭和30年代の秋景色(生活編)

そんな時代、【生活面で城内の一般的な村の秋】を思い起こして見ると、

9月「稲刈り」に始まり→10月:「米の出荷」「果実・野菜類の収穫」→11月:「文化祭/野菜などの品評会」「漬菜(野沢菜漬け作り)」→11/末~12月中旬:「雪囲い、家に依っては雪池(ゆきだな)作り」で雪の季節に備える事になる。

一方、【自然界の秋】は、
平均的に9月末:標高の高い「八海山の頂上」の紅葉に始まり、里の秋の紅葉は11月上旬に盛りを迎えた。
(年に依って1週間位前後のズレ有り・・・何故か、昨今は更に季節のズレが大きい様である)

   今では八海山の紅葉も、ロープウエイで気軽に見に行ける様になった。

そして【山の幸】。 この時期になると、キノコ、ヤマブドウ、ミヤマツ、エブ(エビヅル/サンカクヅル)、山栗、クルミ、トチの実、アケブ(アケビ)、カヤの実、サルナシ、etc.
そう言えば、良く熟れた【マタタビ】も甘いキウイの様で、サルナシ同様美味しかったな!

その秋も、11月中~下旬には八海山に初雪(冠雪)が来て、「山に3回雪が降ったら次は里に雪が来る」と言われ、里人は根雪が近い事を想定して【ダイコダテ】(冬の間の野菜:大根・白菜・人参などの雪中保管庫)作りなど、雪に閉じ込められる冬の準備を進めてて行く。

   ◆ 城内とは角度は違うが、五日町スキー場からの【根雪直前の雪前線】の例
         雪で白くなる等高線が下がって来る (ゆきぐにネット・ライブ映像より)
hv2012-11-28-12-20 八海山.jpg

この頃だったと思う、宇田沢川や三国川、魚野川に、石の下に産み付けられた【カジカ(魚)の卵】を捕りに行ったっ事が今では懐かしい。

当時は道路の消雪設備も無く、道路の除雪も国道17号線がやっと始まった位で城内村等は対象外、根雪が降ると陸の孤島に近く、自動車も止り、春までは ソリ(橇)を使うか人が担ぐしか物流通の手段が無くなるのである。
現代の若者達には想像も付かない事と思う。
こんな生活についても絵にして残せたらいいのだが、残念ながら私にはその様な絵心が無い。

絵心と言えば、初雪の頃にはこんな(下記・写真)素晴らしい場所が今でも随所に有る、残したい風景のひとつだ。

   ◆ 下薬師堂付近【宇田沢川】堰堤より (2008年12月上旬、前夜の里・初雪)
里の初雪(直後).jpg

    写真下の住宅地、30年代はどんな風景だったのだろうか?

 

昭和30年代の冬景色

今では登る人も居ないだろう「鬼の面山」の尾根繋がりで、私達遊び仲間の間で「暮坪山」と呼んでいた山(小中学校と宇田沢川を挟んだ対岸の山/この山の向こう側では学校のスキー実習も行って居た)の中腹からの写真である。

   ◆ 昭和36年3月末頃、暮坪山中腹よりの上原方向
         (長崎出身・義兄撮影、凍み渡り体験時に撮影したもの)
S36年暮坪山からから上原方向  (1280×388).jpg

下を流れる【宇田沢川】の左対岸に「合同製糸」工場と煙突が、川下(右)には「城内中学校と小学校の校舎」が見える。
背後の山は「金城山」(左)と「坂戸山」(右)。

それにしても、
 「坂戸山(標高634m)」と同じ高さの「東京スカイツリー」が出来るなど、想像も出来なかったなあ!

   ◆ 宇田沢川下流方向 (新堀新田~下原新田・長森方向と魚沼丘陵)
故郷の昔 - 013 (抜粋).jpg

   ◆ 東を見ると【八海山】、手前の集落は【下出浦(しもいずな)】(右奥:上出浦)
故郷の昔 - 010 (抜粋).jpg

 

   ◆ 上記写真の撮影場所:現在の【城内小学校】付近から(早春春)

2007.05.21 _ C (1599×615).jpg

 

写真集・少年時代

個人情報保護の見地からは顔を隠した方がいいかも知れないのだが、何十年も前の顔やすでに鬼籍に入られて居られる方も多い為、写真はそのまゝ掲載する事にします。

なお、写真撮影の年・月・日等は「震災」時にアルバムから剥がしたまゝだった為情報が曖昧になり、年代順で無い場合がありますのでご容赦願います。

   ◆ 昭和30年代の【八海山】と【合同製糸】 ・・・ 左の山が【鬼の面】と呼ばれる崖
故郷の昔 - 001 (抜粋).jpg

    ※ 1  【合同製糸】 ・・・・ 富岡製糸のミニ版、城内周辺での養蚕繭から生糸にする工場。
              近くに行くと繭を茹でる時の独特なニオイが結構強烈に漂って来たものだ。
              当時はあまり良いニオイと感じたことは無かったが、今では懐かしい。

    ※ 2  【鬼の面】 ・・・・・ 昔話・言い伝え等も有るが、宇田沢川に削られた、急峻な崖。
              写真の【合同製糸】と【宇田沢川】を挟んだ対岸の岩壁。
              地層は古いので雑木は繁茂しているが、高さ約80m/約60°位の急斜面。

   ◆ 現在の鬼の面 ・・・ 【宇田沢川】堰堤より (5月上旬)
八海山 -  009 上原 640x480.jpg

    昭和30年代、此処は流が左側の山に直接ぶつかり岩肌を抉(えぐ)って深さ1.5m位、
       幅5~10m、長さ15~20m位の淵を作って居て、我々少年達には格好の「流れるプ
       ール」であった。

     私が泳ぎを覚えたのも、この【鬼の面】の「流れるプール」でした。

    【合同製糸】はこの写真の右堤防、ちょうど写真が切れた辺りから手前右側に有った。
      撮影位置が、ちょうど【合同製糸の煙突が有った辺りのだと記憶している。

 

我が家の周辺

   ◆ 周辺地図 【昭和30年代=屋号の時代・・・上原十字路から下(しも)の範囲】
       (個人情報保護の見地から、直結し易い氏名=屋号の家は空欄にしました)
      なお、本地図は修正要因が多々あると思われる為、情報をお願いしますS30年代上原十字路(下).jpg

智通君が作成した【懐かしの昭和30年代・上原十字路付近地図】をベースに、上原十字路から下の部分を思い起こして作成して見ました。

およそ半世紀前の状況を思い出しながら作成してますので違う所も有ろうかと思いますが、お気付きの点が有りましたら是非教えて頂ければ幸いです。 (必要に応じて修正・補正をして行きます)

なお、細かい文字も、PCで拡大すれば楽に読めると思います。
 (携帯の場合、見難いかも知れませんが、ご容赦を!)

   ◆ 我が家の前の風景
       (前の川が新田堀、前の家のヤギは草を求めて下を覗いている状況)
故郷の昔 - 007 (抜粋).jpg

   ◆ 我が家(左)と隣家(右)の間から前の家の作業小屋兼ヤギ小屋
       (石垣の上が、通称「映画館通り」、とは言っても砂利道、遠くは八海山の裾野)
故郷の昔 - 006 (抜粋).jpg

   ◆ 前の家に行く橋を渡った所での「お袋」と「上原薬師」  (早春の頃)
       (この頃は橋が板橋である事にご注目、背景の建物は上原の「薬師堂」)
       上原の薬師様、言い伝えを信じれば、法音寺成立の歴史と深く係わっているらしい。
       御本尊の薬師像は江戸時代の洪水で右腕を失ったが、近年その右腕が帰って来た
       と言う、数奇な経過を持ち、もしかしたら重要文化財級かも知れない。(盗難が心配)
故郷の昔 - 003 (抜粋).jpg
 
    「薬師様の腕帰る」の新聞記事 ・・・ 新潟日報だったかと思う  (I Nagumo君より)
上原薬師.jpg

   ◆ 2年位後の夏、母と近所の人々
       (背景の建物は「城内役場」と「薬師堂」、その前の大きな石は「二十三夜塔」)
故郷の昔 - 004 (抜粋).jpg

   ◆ 小5の頃の3月頃、隣家の前にて
       (道路が雪で高くなっている事から、村内一斉に行う除雪行事、「雪割り」の前だと思う)
故郷の昔 - 008 (抜粋).jpg

   ◆ 小6の時だが、卒業式の日では無かったと思うけど? (TI 君・SS 君と)
故郷の昔 - 015 (抜粋).jpg

   ◆ 我が家 (年代不明  : 小学校4~6年頃)
        隣に美容室が建つ前で沼田屋が写っている事や、道路から玄関の下り口が
        新しいスロープになっている所から、井戸→水道に変わった頃と思われる。
         前の家の板橋(4枚上の写真)がコンクリート製に変わったのもこの頃。
故郷の昔 - 005 (抜粋).jpg

   ◆ 【一家団欒】 この頃「囲炉裏」が消え「箱膳」が「チャボ台」に、でも「団欒」の時は有った
故郷の昔 - 014 (抜粋).jpg

 

           「ふるさと今昔物語 Part-2」  へ続く

 

八海山の美しい姿を写真で残したい、そう思う人は多いと思う。  しかし、地元に居ても中々絶好の
タイミングが捕え難いのが自然。  また折角、絶好のタイミングに巡り合ってもカメラを持って無かっ
たり場所・アングル等で、後から見直すと中々満足出来る写真にはなり難い。

そんな自然のワンチャンスを実家の兄が何年か前に捕えていた。   これは何度見ても飽きない。
私の場合PCの壁紙にもこれを導入して、他のお気に入り写真と気分次第で切り替えて楽しんでいる。

すでに「八海山のある風景」でその写真を1枚紹介していますが、私一人で楽しむだけではもったい
ない。  今回はその時の他の写真を皆さんにも楽しんで頂きたいと思い掲載いたします。

 

雨上りの「白髭八海」


チャンスは数年前の5月中旬、午後4時過ぎに 突然やって来たと言う。 城内でも比較的 標高の高い
薬師堂から上の地域では 田植え直前、この日は朝から曇りだったそうだ、 午後2時頃 雷雨が 始まり
3時~4時頃迄結構激しく降って居たとの事。 それが4時を過ぎると急速に晴れ渡り、仕事も一段落
して帰宅した兄は 早速カメラを持ってお気に入りの場所に出かけて撮ったのが これからお見せする、
一連の写真。 午後4時半頃~約1時間、雨上りの夕方の光の移り変わりをお楽しみ下さい。


   ♦ ちょっと「ヒゲ」にはバランスが取れて無い雲だが、「ヒゲ男爵」のイメージから八海山-001  (1280×855).JPG

 

    ♦ 場所を少し変えて、標準画角で、
           左端に「八海山スキー場」ロープウエイ山頂駅が見える八海山-004  (1280×767).jpg

 

    ♦ 八海山の顔 (城内・正面からの眺め)
           「清滝」・・・今は落石等で滝に近付けないが、昔は滝迄道が有った八海山-003  (1280×842).jpg

 

    ♦ 徐々に暮れゆく城内、 “暮れなずむ” と言うには少し時間が早い様だが ・・・八海山-005  (1280×810).jpg

 

残念ながら、日没迄の写真は撮って無いとの事で有った。

 

7/26、今年初めてミンミンゼミの鳴き声を聞いた。 場所は勤務先の群馬県伊勢崎市、駅は太田市の方が近い境界地域です。
関東地方は梅雨明けが早かった割に、ミンミンゼミの出現は平年並みの様な気がする。 ニイニイゼミはかなり以前に聞いて居たのだけれど?

 

それでは本題に入りましょう。

私の 「故郷」 は新潟県南魚沼市。 その中でも 越後三山 のひとつ 「八海山」 の山懐、【城内】と呼ばれる地域(下図の〇印の所)です。

   (YAHOO! Map より)
Y-地図・魚沼全図 (丸印・城内).jpg

恐らく私に限らず同郷のほとんどの人達の幼い頃は、ウサギを追う事は無かったであろうが、カジカ(魚はカジッカとも言った、美声のカエルも同名だった)やヤマメ・イワナ・アユ、トンボにセミ・カブトムシなどを追いかけて育ち、仰ぎ見ればいつもそこには 【八海山】 がそびえていた。
当然、小・中学校共に校舎から雄大な【八海山】を仰ぎ見る事の出来る位置にある。

だから私達の小・中学校時代は 【八海山】 と共に育った、と言っても過言では有りません。 八海山の麓には【学校林】もあり、年に1回、丁度今頃の季節だったと思うが、その杉林(当時はまだ10年未満の若い低木林)の下草刈りも学校行事のひとつでした。
従って、私達に取って 「八海山」 は世界遺産になった「富士山」以上の存在だと言えます。
そんな心に刻まれた ふるさとの山 【八海山】 も、見る方向・場所・時間・季節などに依って、まったく違った表情を見せてくれる。

今回は 【八海山】 にこだわって、そんな風景を幾つか違う方向から眺めて見たいと思います。
 (これまでの投稿で使用した写真も何枚か出ますが、悪しからず、ご容赦を願います)

 

1.まずは我等が見慣れた「城内」エリアからの【八海山】


   ♦ 春の風景・・・・・田植え直前の田圃と残雪の八海山  (雨上りの夕刻:実家の兄撮影)
20040514   八海山-022.JPG

 

   ♦ 春・田起こしの頃・・・・・上の写真の季節より約3~5週間前(撮影場所も違います)
八海山 -002A 春・田起しの季節 .jpg

 

   ♦ 晩秋・・・・・八海山、初冠雪の朝
八海山 -  02B 晩秋・初雪の朝.jpg

 

   ♦ 八海山スキー場、ロープウエイ駅・駐車場からの八海山「八つ峰」
          (杉の木に絡んで咲いているのは藤の花) ・・・・・ 5月
八海山 -  005 ロープウエイ駅駐車場.JPG

 

   ♦ 八海山の山容イメージ 1  ・・・・・城内口2合目登山口の案内図八海山 -  007 2合目屏風道登山口.JPG

 

   ♦ 山容イメージ 2 八海山 -  008上原からのズーム.jpg

最近では、「八つ峰」の岩峰のみを【八海山】と勘違いされている地図(下記地図を含む)やガイドブック・ネット書き込み等が見受けられるが、我々は昔からこの山の【山容全体】を【八海山】と呼んで居た。
つまり、主要ピークで言えば左から「薬師岳」・「地蔵岳・不動岳・七曜岳・白河岳・釈迦岳・摩利支岳・剣ヶ峰・大日岳」・「入道岳」を左右に広げた裾野で支えた山容全体を【八海山】と呼び、八海山信仰のご神体となっています。 (因みに、八海山の最高地点=標高は 1,778m が公称値でその頂きは 「入道岳」 です)

なお、右に見える 「 阿寺山 」 は、八海山の裾野ですが、一般的には八海山のピークとしては数えません。
従属山群の一つとなっています。

 

   ♦ 鬼の面山(オニノツラ:左手前の山)からの八海山・・・川は八海山を源流とする「宇田沢川」八海山 -  009 上原.JPG

私達が子供の頃は左側・鬼の面の岩場に川の流れが突き当り、大きなプール(淵)を作って居て、夏休みになると毎日ここに来て、泳いだりヤマメやイワナ・カジカ(魚)を捕って遊び、夕方は鬼の面山でヒグラシが大合唱をする迄時間を忘れて遊び、夕暮れのカジカ(カエル)が鳴き始めると家路に付く。 そんな日々が思い出される。
この下流(後方)300m位の所に現在の城内中学校(昔は小学校も併設)がある。

 

2.城内エリアから離れて!

   ♦ 今回の対象エリア ・・・・・ 青い〇印が主な撮影スポット
八海山から清津峡 -B .jpg

 

  2-1 国道17号線~余川

   ♦ 「庄ノ又川」より・・・・・左:4月上旬(かなり湿度が高い)、 右:5月下旬
八海山 -  011+012 六日町 R17.jpg

   ♦ 上記右と同じ時に撮影 : ズームアップ (上越線の電車も写したかったのだが・・)八海山 -  010 六日町 R17.JPG

 

   ♦ 左:六日町インターより  右:飯綱山古墳群入口より八海山 -  014 六日町 IC と飯綱山古墳.jpg

 

   ♦ 余川、発箇峠への途中より八海山 -  015 六日町 余川.JPG

 

  2-2 魚沼スカイライン ( R253・発箇峠 ~ R353・十二峠 ) 

   ♦ 発箇峠・見晴台 (右側に展望図=下図がある)八海山 -  016 魚沼SKL・発箇峠見晴台.jpg

八海山 -  017 魚沼SKL・発箇峠見晴台.jpg

  ※ 実は、見晴台からの方向ではあるが、もっと上空からの写真ですので悪しからず。

 

   ♦ 発箇峠→枡形山山頂の少し手前より八海山 -  018 魚沼SKL・発箇峠 .jpg

 

   ♦ 魚沼スカイラインにて ・・・・・ タムシバ (別名:ニオイコブシ ・・・ 5月)
八海山 -  020 魚沼SKL.JPG

  ※ 開花して半日から1日経つと花びらに傷やシミが出来てしまう為、遠くからは綺麗に
      見えても中々満足できるアップ写真を撮らせてくれない花です。 別名の通り、素晴
      らしい香りがする。 (コブシは殆んど香りが無い)

 

   ♦ 栃窪峠より ・・・・・ 魚沼スカイライン2つ目の十字路、大沢温泉への降り口
                  (十日町側へ降りると越後水沢駅方面に出る)八海山 - 022B 魚沼SKL・栃窪峠より.JPG

  ※ 写真は4月上旬、この季節は大抵魚沼スカイラインは通行止め。 この時は、十日町
       側から入って、来た道を帰った。 (スタットレスタイヤ装着は必須条件)

 

   ♦  魚沼スカイラインにて ・・・・・ 「三つ葉アケビ」 の花 (5月)
八海山 -  021 魚沼SKL.JPG

  ※ 芸術的な、雄花・雌花が共存しているのが面白い。

 

   ♦ R353 十二峠(十二峠トンネル出口:石打側)より
               (八海山~中ノ岳~金城山) ・・・・・ 5月八海山 -  023 十二峠(トンネル).JPG

 

  2-3 石打~塩沢

   ♦ 石打花岡スキー場より
      左:守門岳~金城山の裾野  右:八海山~金城山の裾野
      (金城山の裾野の延長で一番高い所が「坂戸山」、雪渓が残っている所)
八海山 -  024+025 石打花岡スキー場.jpg

 

   ♦ 大沢温泉の上手より、・・・・・更に登ると「栃窪峠」に至る八海山 -  026 大沢.JPG

 

   ♦ 塩沢より ・・・・・ 5月
             (左手前の山の、左端のピークが「坂戸山」)八海山 -  027 塩沢沢.JPG

 

 2-4 五日町~浦佐方向からの八海山

   ※ この方向からの八海山の写真はネット上からの写真しか有りませんが、参考までに
        掲載します。

 

   ♦ 五日町スキー場より・・・「雪国ネット様・五日町スキー場ライブカメラ」より
         左:初冬の夕方、月の出   右:参議院選擧前日7/21の様子
八海山 -  028+029 (Web) 五日町スキー場.jpg

 

   ♦ 浦佐スキー場からの八海山(右)と越後駒ヶ岳(左)、中ノ岳は八海山の真後ろで見えない
       左側手前に見える駅は、上越新幹線「浦佐駅」。

     (本写真の掲載元データ喪失の為、著作権侵害でしたら削除致します、お申し出下さい)八海山 -  030 (Web) 浦佐スキー場.jpg

 

  3. 越後三山

     実は越後三山が遠くから見ると八海山に似た形に見える方向がある事を知ったのはおよそ6
     年程前の事であった。

     八方尾根で出会ったアルピニストから、越後三山が見えると言われ、カメラの倍率(MAX10
     倍)を利用して覗くと確かに三ッつのピークが寄せ集まってひとつの山の様に見えた。
     しかし、確かに三ッつの山が重なってひとつに見える事は分かるが、どれが八海山か迄は
     分からなかった。
     その人の説明では左から、 「越後駒ヶ岳」・「八海山」・「中ノ岳」  との事で、 それを聞
     いてヒラメイた、 「そうだ、十日町から見た越後三山が、その順序で並んでいた様な?」
     「今日の天気ならこれから行っても写せるのでは?」 と言う事で他の予定をキャンセルして
     十日町へ直行。

     それが、写真として実現したのが下記の写真なのだが、見ての通り「魚沼丘陵」が邪魔をし
     て芳しく無い。  とは言え魚沼丘陵が無かったとしたら手前の山が別の邪魔をするかも知
     れないのだが、それでも「越後三山」がバランス良く見える場所が有ると考えている。
     そんなビュースポットを今も探しているが、中々行くチャンスが無くなって来て現在に至っ
     てしまいました。

     もし、どなたか探し当てたら是非教えて下さい。

   ♦ 今迄に見つけたベストバランスの撮影スポットはこゝ、十日町市・鐙坂(信濃川河畔)
八海山 -  031 十日町・鐙.jpg

 

   ♦ もしかしたら、こゝのエリアにベストポジションが有るかも?Y-地図・欠ノ上から四十日.JPG

今調べて見たいエリアは上記地図の三つの丸のエリア、魚沼丘陵・笠置山周辺ではないかと思って居ます。 が、保証の限りでは有りませんので、念の為。

市境(魚沼丘陵の稜線)から東側(南魚沼市側)は急傾斜地でモロい地質です。 入られる時は、くれぐれもご注意下さい。

 

考えて見たら秋に故郷へ帰る事が極めて少なかった。 その為、秋の写真が極めて少ない事に、今回探して見て改めて気が付いた。
今回の写真に秋の風景が無い事もそんな理由からだった。 ネットからの借用も考えたが、私の主義に反するので今回は最小限に留める事にした。

その内、機会が有れば、故郷の秋・冬についても写すチャンスを作りたいと思っています。

それと、故郷のみんな! 秋・冬の景色についてはみんなの方がチャンスが多いと思うので 「ちょっと気に入った写真」 だと思うものは、是非≪見せっこ(投稿)≫し会いましょう!

5月19日、中々同時に休めない親友と故郷で催される【山菜会】に招かれ、日帰りで参加する事にした。

前日の天気予報では故郷(新潟県・南魚沼市)では「曇り後雨」、【山菜会】の始まるお昼頃からは雨になるかも知れない。 と、言う事なので、少し早出をして、【美人】に逢いに行こうと言う計画をたてた。
友も私も故郷を語る時、幼い時から馴染んだ春の風景には言い現わし切れない郷愁の共通点があり、雪解け・春霞・ブナの芽吹き・山菜は春の代名詞と言える。

今回は、そんな春の【山菜】に出会える事になったのだから、ついでに【美人】にも逢いに行って来ようとなった訳。 もうお気付きの方も居られるでしょうが、そう、【美人】は美人でも、芽吹いて間もない【美人林(ブナ林)】の事。

故郷の隣、十日町市(松之山)にあると言う【美人林】、親友は何回か行った事があると言うが私は一度も行った事が無かった。 でも、行って見た結果、やはり行って見て良かった。 こゝへはリピーターになりそうだ。 子供達が一緒ならバードウォッチングには最適だ。

出来れば、レコーダー持参で1~2時間定点録音をして小鳥たちの声と風の音を収録したかった。 キツツキのドラミングも日常を忘れさせてくれる。 恐らく夏の夕暮れにはヒグラシの大合唱が聴けるだろうし、秋の黄葉や晩秋の落ち葉の森も散策にはいいだろうな!

そして時間が余ったのでついでに【星峠の棚田】や信濃川河畔・「越後三山」のビュースポット【十日町・北鐙坂(きたあぶみざか)】、故郷・城内の【上原と新堀新田境界・石万川付近】から「八海山」を撮影して回り、ちょうど昼からの【山菜会】に間に合った。  と、言う行程でした。

今回は、そんな【美人林】と【山菜】に惹かれてのワンデー・ドライブを中心に書いて見たいと思います。

 

 

【美人林】

 

今回の主役はその名の通り【美人林】と呼ばれるブナ林で、白神山地や岩木山・北海道などではもっと大木が林立するブナ林を見た事があるが、これだけ身近で気軽に行けるブナ林で、これだけの規模と優美さを兼ね備えた所は、多分数少ないだろう。
「どこが?」 と、問われても表現出来ないが、太平洋側とは何かが違う、雪国の愛着の有るブナ林である。

 

   ♦ 【美人林】 入口
2013.05.19 U - 001 美人林.jpg

   ♦ 【美人林】 散策
2013.05.19 U - 007 美人林.jpg

2013.05.19 U- 017 美人林.jpg

2013.05.19 U - 022 美人林.jpg

木漏れ日の中、時折聞こえるキツツキのドラミングと小鳥たちの綺麗な鳴き声を楽しみながらの散策は、木立ちの放つ新緑の香りと相まって心洗われるひと時だ。

 

梢でさえずって居た小鳥かどうか解らない(鳥には詳しくなくて解らない)のだが、偶然目の前の小枝に飛んで来て、すぐに飛び去った小鳥が一羽カメラに捕えられた。

   ♦ 鳥の種類等不明 ・・・ 尾羽が長く、雀位か少し大きい?
     (ムクドリよりもかなり小さくスリム、逆光気味な事もあるが体色は黒か灰色に見えた)
2013.05.19 A - 小鳥 【美人林】.jpg

ブナの実は鳥たちだけでなくリスや小動物~熊などをも育む。 大切に残したいエリアだと思う。

≪ 余談 ≫

美人林の入口(駐車場の所)で山菜が売られていたが、思ったよりリーズナブル。 この日はウドとワラビが大量に出ていたが、木の芽(アケビの新芽)やウルイ・コゴミ・タラノ芽・コシアブラ・蕗、等々。 この後6月頃は竹の子(根曲り竹)が出る様になるとの事だった。
 ※ ゼンマイも採れるが、乾燥したものでないと売れない為観光用には出さないそうだ。

 

 

【星峠・棚田】

 

元来この地域を始め、日本各地では古代から水稲の産地が多く、棚田はどこにでも作られた。 最近まで棚田をわざわざ見に行くなど考えた事も無かったが、この【美人林】訪問の関係で集めた十日町観光協会発行のパンフレットに載っていた【星峠の棚田】写真に魅せられて、つい足が向いてしまった。

 

   ♦ 棚田の風景
2013.05.19 U - 001 星峠・棚田.jpg

 

【美人林】 を堪能した後の時刻で、かつ天気が下り坂で湿度が上がって来ていた為、覚悟はしていたが遠くが霞んでしまい、PCで少しコントラストを強調してやっと、この写真でした。(これ以上調整すると、違和感が出るでしょう)
やはり、かなり整地された棚田でしたが、春夏秋冬・日の出前後・雲のたなびき方などのタイミングに恵まれたら、いい写真になる地形でした。
ちなみに、私の感動した十日町観光協会発行のパンフレットに掲載されていた写真と同じ写真を下記掲載しますが、著作権侵害となってはいけないので、他用出来ない縮小リサイズ版です、イメージ用とお考え下さい。

星峠・棚田.JPG

なお、この写真を始め、関連棚田写真は Google などの検索サイトから「星峠」・「棚田」をキーワードに見つける事が出来ますので、写真としてはそちらのサイトでお楽しみ下さい。
 

 

 

【信濃川と越後三山】 ・・・・・ 信濃川河畔(十日町・北鐙坂付近)にて

 

   ♦ 写真左 : 河岸段丘上からの信濃川下流方向  写真右 : 同じ位置からの越後三山
2013.05.19 C【鐙坂・十日町】.jpg

上、左側の写真 「信濃川」の右岸に十日町市街地が広がり、手前に見える橋がR253号線。
写真撮影の場所は足元から30~40mの崖(河岸段丘)になり、信濃川西岸を形成している。

上、右側の写真は同地点から東正面を眺めた風景。空気が澄み切って居れば【越後三山】が良く見えるのだが、大気中の水分が増加中のこの日は残念ながら魚沼丘陵の後ろに、薄っすらとしか見えなかった。 越後三山はこの方角からが一番、三山揃ってバランス良く、美しく見える。
 ( 越後三山とは左から、「越後駒ヶ岳」・「八海山」・「中ノ岳」 )

 

   ♦ アンニンゴ(ウワミズザクラ)の花
2013.05.19 C【鐙坂・十日町】.JPG

勿論、ご存知の方が多いとは思いますが、こゝ河岸段丘上で見付けたアンニンゴ(ウワミズザクラ)が満開で、新緑や藤の花との微妙なミスマッチも絵になるかと思い、1枚。
説明不要かと思いますが、白い猫じゃらしの様な花が「アンニンゴ」の花。 この花の蕾みが白くなる前の柔らかい時期に摘んで塩漬けにしたものが、山菜のアンニンゴとして道の駅などで売られている。
(一部の地方では若い=柔かな果実も同様に塩漬けにしてアンニンゴと呼ぶらしい)

 

 

 

【八海山】 ・・・・・・ 久し振りの上原からの眺め

 

   ♦ 富士塚の南、石万川とザッポリ川の合流地点付近から
2013.05.19 C 【八海山・上原より】.jpg

天気のせいで色彩は出難かったのだが、山頂をズームアップして行ったら 「千本檜小屋」 や 「地蔵岳」 への登り道、脇にある「大きな(丸い)岩」まで良く見えた。 昔、この岩の上で、イサオが万歳してた写真が有ったっけなー。

 

 

 

【山菜会】 ・・・ 恐縮、ただただ山菜料理を「ごっつぉ」んなり
        腹いっぱい食って飲んで・・・幸せだな~ 僕かあ! (古~い!)

 

   ♦ 会場になった、地域開発センター(鬼の面=おんのつら前)からの宇田沢川
2013.05.19 C 鬼の面 【八海山・開発センター前】.jpg

こう言うコンクリートの見えない、魚たちや生態系に優しい堤防も残したいものだが、地元に暮らして居ない人間のエゴなんだろうか?

 

   ♦ 【山菜会】 献立お品書き
2013.05.19 C 【山采会メニュー】.JPG

 

   ♦ 開始前、配膳 ・・・ 参加者多数でテーブルに並ぶ形、写真はほゞ一人前のレイアウト
山菜料理の一部.jpg
 

写真の「おひたしの盛り合わせ」は右側が私の割り当て分、左は隣の人の分。 また、上のテーブルの3品は3人にひと鉢平均に盛り付けられた漬物類で、ミヤマイラクサ・蕗・ウルイ、アサヅキとアンニンゴの漬物。

この他、天ぷら(タラノ芽・フキノトウ・ウド・コシアブラ・ツルニンジン・モミジガサ)やワラビ汁、ヨモギご飯、手打ち蕎麦などが出され、他にビールや日本酒などが十二分に振舞われた。 山菜の種類は約20種類との事だが、宴が進むにつれて’(色々な料理に混入する例があり)数え切れなくて、数える事を止めた。

ヒデコ

   おひたしの盛り合わせの中に、【シオデ】 と言う山菜が有ったが、東北(特に秋田を中心)では
   【ヒデコ】 と呼ばれている。 民謡・ヒデコ節 にも歌い込まれる程ポピュラーな山菜らしい。
   我々が子供の頃は、シオデもヒデコも聞いたことも食べた記憶も無いのだが・・・・・?
   子供の頃の記憶はともかくとして、山のアスパラと言われる位で、やっぱり美味かったな~!

謎の山菜 【クタチ】

   私にとって幼い頃は良く食べた記憶があるのだが中学卒業以来、誰に聞いても明確に覚えて
   居る人に会えず、【クタチ】と言う山菜が長い間 謎の山菜であった。
   今回は改めてその【クタチ】を味わう事が出来た。 (そう、まさに記憶の味・香りだった)

古老の話と地元の通人の話を総合すると、一般に「ソバナ」と言われている「ツリガネニンジン」によく似た花を咲かせる植物とわかった。 言われて見れば、ソバナもネーミングからして食べられる植物に完するナ=菜とソバ=蕎麦で、山菜辞典などにも載っている。
ただ、なぜ【クタチ】なのか、なぜ魚沼地方の特に古老でも一部の人しか【クタチ】と言わないのか? 疑問は残るが、【クタチ】の正体がわかっただけでも大きな第一歩だ。
それにしても、ソバナなら山野草として、花も葉も良く知っていたのに50年以上山菜としての認識をして無かったなんて、気が抜けてしまうね!

城内人の絆

今回 【山菜会】 に出席させてもらって嬉しかった事は、故郷の人達がこういう絆を大切にしている事と、こう言う集まりがもう数十年続いている事を初めて知った。 これが何よりも嬉しく頼もしい気がする。
そしてもうひとつ、我が町の自然 【ギフ蝶の生息地保護】 について、熱く語り会う人達が居た事である。
感動したな~! (これも古いフレーズでした! ・・・・・・ が、気持ちは同じです)

 

 

 

【関連地図】

 

   ♦ 広域図 ・・・・・ 赤丸の中にAマークの場所が【美人林】
松之山・美人林 広域.jpg

 

 

   ♦ 十日町観光協会発行のパンフレットに載っているMAP抜粋
【美人林・星峠】 案内図.jpg

     美人林 ・・・・・・・・ B5
     星峠の棚田 ・・・・・・ A4

 

 

   ♦ 美人林・補助MAP(詳細)
松之山・美人林.JPG

  注) 森の学校キョロロの位置がもっと手前だった様に思う。 松之山松口、美人林の入口付近だった。

 

 

   ♦ 星峠の棚田・補助MAP(詳細) ・・・ ✔ マークの所
十日町・星峠.JPG

 注1.) 松代方面(右)からR403を来ると、右折場所がわかり難くトンネルまで来てしまう場合あり。
     その場合はトンネルを潜って出たらすぐ左折すると、トンネルの上を通って星峠の棚田へ行ける。

 注2.) 撮影場所を求めて未舗装の細い道に安易に車を乗り入れない事。 軽自動車のワダチを普通車
     以上の車両で辿って行こうとすると、抜けられなくなったり転落事故の元となります。

 


 

 

※ さらに、私の他のブログも読んでみたいと言う方はこちら 「♪ お暇なら来てよね!」 へアクセスを!
  (テーマごとに分類した索引です)
 

意外でしょうが! 八方尾根からのパノラマ写真からご覧頂きましょう。

 

【八方尾根から 「八海山」 が見える】

みなさん! 長野県白馬連峰・唐松岳山麓八方尾根から、新潟県南魚沼市の「越後三山」が見えるって、
いや、「八海山」が見えるって知ってましたか?

見えるんです、1年に何日かは肉眼でも見えるんですよ! 特に残雪のある季節の、よく晴れた日は
とっても見付け易いんですよ!

  ♦ 八方尾根第一ケルン付近より   (撮影 : 2007.05.21)
      --標準撮影--
2007.05.21 八方尾根・第1ケルン周辺からの越後三山 1.jpg

     --約12倍ズーム-- 【越後三山 : 越後駒ヶ岳・八海山・中の岳】の総称2007.05.21 八方尾根・第1ケルン周辺からの越後三山 2.jpg

え、 「越後三山じゃなくて八海山ではないか?」って? そう、「越後三山」全体で「八海山」の様に、
      形が似てるんですよねー。

でも、次の写真をご覧下さい。 同じ日の午後、同じ方向、十日町からの写真です。

  ♦ 十日町市北鐙坂(あぶみざか)付近からの「越後三山」
2007.05.21  十日町からの越後三山.jpg

こんな風に越後三山の中でも前に見える事から、八海山の事を「前山」もしくは「前岳」と、
呼んだ事もあるとの事。

「百名山」2峰を従者として引き連れた「八海山」の堂々たる姿は中世ならずとも信仰の対象にしたくなる、
 もしも、深田久弥がこの角度で越後三山を見て居たら、百名山も入れ替わって居た事だろう。

と、前振りが長かったが、手前に見える魚沼丘陵の向こう側、八海山の麓に広がる旧・「城内村」、
この “のどかな村” が今回のテーマの舞台です。

 

【現在の旧・城内村・全景】

  ♦ 魚沼スカイラインよりの俯瞰写真
    (魚沼スカイライン:魚沼丘陵の尾根道、魚沼盆地や山岳展望のドライブウエイ)2007.05.21  N-002 魚沼SKL (B)A.jpg

※ 旧城内村とは、写真の中の、三国川(サクリゴウ)と魚野川に囲まれた八海山の麓の地域。
   現在では南魚沼市の一画となっています。
   八海山スキー場のロープウエイは通年運転で、10月中旬~11月上旬は紅葉が綺麗ですよ!
    (勿論、登山にも便利)

 

【キーワードは 「藤原(ふじわら)」】

ここ南魚沼市には昔からの大きな城下町でも無いこんな小さな地域の中に、何故か古来からの由緒を持つ
寺社が寄せ集まっている。
その中でも六日町を中心とした私達の生まれ故郷の寺社の縁起を信じると、どうやら「大化の改新」の中
富鎌足=藤原鎌足のルーツ
に繋がるハナシらしい。

ま、神社・仏閣の縁起などは、大部分が捏造されたりその時々の権力者や政治のはざ間で改ざんされて、
真実は曲げられている前提で考えなければならない。 が、逆の見方をすれば、真実も含まれている可能
性もある訳だ。

今回はプライベートに色々調べた程度であるが、私達の生まれ故郷にある「藤原」と言う部落名のルーツ
について探って見たい。

その前に、ここで言う【部落】は【部落差別】とは、一切無関係です。誤解のない様にお願い致します!
従って、【〇〇部落】とは住居表示と同様に、居住エリアの区別に使っている以外の意味は有りません。

話を元に戻します。

まず、現在の私達の故郷がどんな所かイメージを描いて頂きましましょう。

  ♦ 南魚沼市観光協会発行のパンフレットより
周辺マップ.JPG

上図中、城内村とされるエリアは、左回りに、八海山・六万騎山・魚野川・三国川・高倉山・阿寺山
に囲まれた地域です。
そして「藤原部落」は、図中の高倉山の上に〇で囲んだ “法音寺” と表記されている地域にあります。

昔からそのルーツについては 「平家の落人説」、「後三年の役の落人説」、或いは 「藤原摂関家の
関係者ルーツ説」 等々、色々な説がある。

ここでひとつ一つを検証して行くつもりは有りませんし、これが正しいと言える物証も乏しい。
そこで、細かい検証作業は専門家に任せるとし、今回はみなさんにもそんなルーツ説に触れて頂いて
この地を旅する時の参考にして頂ければ幸いです。


また、歴史を紐解いて行く過程で、物証の無い所を推理して自分なりに歴史を紡いで行く作業も結構
楽しいものです!

 

【「文献、記録」・「寺社の縁起」等】による歴史

1.「城内郷土誌」による年表・・・・昭和34年度編纂版による。

  ♦ 年表・関連部分抜粋 ・・・ コピーの為、見にくい点はご容赦願います
城内郷土誌・年代表-01.JPG

この郷土誌編纂では、明らかに違うと確認されたものは除いているが、口伝なども細かく拾い上げており、
資料としはて心強い。

口伝もまた、真実のヒントを含む場合が多いと私は思っている。

 

さて、この年表を見ると、「西暦272年、清原政次と言う人(神職と思う)が氏子8苗を引き連れて大和
・豊明の里より八海明神を奉じてこの地に移住して来た」と言う項目で、城内史は始まっている。

この時の8苗とは、岡村・貝瀬・上村・北村・遁所・行方・山崎・山本の8姓だそうだ。 しかし、3世紀
後半、卑弥呼が亡くなったと言われる西暦249年からわずかに23年目、大和政権も生まれたか否かと思
われる時代、大和の国から8苗の氏子を連れて移住をして来る神職が居るとは考えられない。

また、清原姓も8苗姓も、西暦272年時代の氏名(うじな)としては近代的過ぎるのも違和感がある。

従って、この逸話は明らかに後世の人の捏造だ。

 

9世紀中頃(856年)、「大地震により、峯八海社倒壊」。 10世紀(913年)、「暮坪に峯八海遥拝の
場所として里宮を建立」 とあるから、古く見積もってもこの頃作られた逸話であろうと考えられる。

ただし、八海明神信仰(木曽・御岳の八海山など各地に八海山と命名された修現場が作られた)は、山伏達の
活動とリンクして、4~5世紀位から活発になっている。
大地震で倒壊した【峯八海社】は彼等山伏達が建立したものと推測される。(場所は暮坪か?)

実は、暮坪と言う現在の地名の場所をその地であるとするには疑問を拭えないのだが!
何故なら、八海山を遥拝するはずの【峯八海社】を、最初からわざわざ手前の山で八海山が見えなくなる位置
に「社」を建てるだろうか? と言う疑問が湧く。

「八海山」 遥拝の地としては、むしろ、後述する 「藤原の裏山(飯盛山)柳平=行基菩薩が草庵を結んだと
言われる場所」では無いかと考えて居る。 そう、【法音寺】 発祥の地。

それならば、なぜ今の暮坪の地に移ったのか? これについては今回のテーマとは離れてしまう為、また別の
機会に考えて見たいと思う。

 

余談ではあるが、西暦856年の大地震と言うのが気になる。
もしかしたら2004年10月16日の新潟県中越地震と同じ震源では無いかと思う。

 

次に、西暦731年~743年の記述、これが今回の最大の謎。
もしも、記述が真実であれば、こんなヘンピな城内村、或いは南魚沼市は、古代史の名刹を抱えた歴史的
地域だった事になる。

 

2.「藤原部落」と「法音寺」

  ♦ 現在の 「法音寺(ほうおんじ)」 と 「藤原(ふじわら)」 周辺地図
城内地図01C.jpg

地図中央の下の方に、「法音寺」と「亀福寺」と2つの寺が見えるが、この【法音寺】が今回の主役。

そしてその周りの「法音寺と藤原、妙音寺」と書かれた地域すべてを昔は【藤原村】、歴史が下って
合併前迄は【藤原部落】と呼んでいた。

なお、【法音寺】は越後・上杉家の菩提寺だった関係で慶長4年(1599年)会津移封で多くの末寺と
共に会津若松へ、そして関ヶ原後は米沢に移り、現在藤原には僅かに寺としての名跡を残すのみ。
本尊その他も、春日山・会津を経て山形県米沢市の上杉家御廟所のある現在地に移された。

  ♦ 【法音寺】 縁起、冒頭部分抜粋(城内郷土誌より)
法音寺・縁起 AAA.jpg

     ・・・主要部分を要約すれば次の様になるらしい・・・

天平3年(731年)   行基菩薩来たる、現法音寺の裏山「飯盛山」の柳平と言う所に草庵を結んで
             三厳庵 と名付けた。
天平8年(736年)   聖武天皇勅宣により、藤原不比等の子息・藤原政照、堂舎仏閣造営諸国巡見
             の為下向。
天平9年(737年)   藤原政照、この地にて落命(疱瘡の為)柳平から現在の地に移された三厳庵
             で埋葬。聖武天皇の綸旨を賜り、藤原政照の法名から【飯盛山法音寺蜜(三
               ?)厳庵国分寺】 通称【法音寺】と改名・昇格し、仏法興隆の精舎(僧侶の
               修行道場)となった。
               同時に、この地の名前「上河条村」を、藤原不比等の氏名(うじな)を宛て
               て【藤原村】 にせよ!との事で、村名も変えた。
               この時聖武天皇から金一千万両・珠御剣・三千仏の唐絵などが贈られ、妻女
               や藤原房前からも納経その他が寄進されたとの事。
天平11年(739年)    藤原政照の妻女、興福寺精舎にて妙音比丘尼となりこの地に来て、法音寺の
               近く、現在の妙音寺に庵を結び、ここで生涯を終えられた。
               この庵が後に【妙音寺】となり「妙音寺村」の総鎮守となる。

その後、源頼朝から源家繁栄の祈祷を依頼された事から繁城山法音寺】(なぜ「繁盛」でなくて「繁城」
なのかは不明)、そして時期は不明だが八海山法音寺】(多分、会津移封の時と思われる)と、山号が
変遷し、会津移封に伴い、末寺を含むほとんどの寺仏・経本等が会津・米沢に移された為、現藤原には僅
かな鐘堂などを残して現在に至る。

ただ、今回のテーマからは外れるので、山号の件は割愛し、以降は単純に【法音寺】として進めます。

なお、この【法音寺縁起】が起草された時代については、【繁城山法音寺略縁起】の見出しから始まって
いる事から、古くとも 「鎌倉時代」 ではないかと推測できる事をも念頭に、読み解く必要がある。

 

3.「関連資料」

  ♦ 米沢「法音寺」ホームページ (抜粋)
米沢法音寺・縁起 01.JPG

       ――― 以下省略 ―――
 

  ♦ 「雲洞庵(うんとあん)」ホームページ (抜粋) ・・・ 天地人ゆかりの寺

雲洞庵縁起B.jpg

  ♦ 藤原氏系図 ・・・ コンビニで入手の雑誌切り抜き (雑誌名不明)

      (代表的系図でわかり易いでしょう)
藤原氏系図.jpg

  ♦ 藤原氏北家、系図 

    数多く提唱されている藤原家の家系図で、小生が調べた系図に最も近く、より詳しい系図。
    「北道倶楽部」のHPから、主催されておられる岩田様の許諾を頂いて掲載しております。
    詳細は「北道倶楽部」のHP http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_41.html  もご参照下さい。

藤原房前家系図.JPG

 

 

【検証】 

1.藤原摂関家と魚沼地方の関係

  場所や設置時期の特定は出来てないが越後・魚沼地方に屯倉(みやけ:大和政権の直営倉庫)が有っ
  た事は、色々な古書に出て来る。
  従って、魚沼地方には屯倉に集める程の穀倉地帯があり、政権直轄の荘園が出来ていた。

  西暦645年の大化の改新でこの荘園が、中富鎌足=藤原鎌足に下賜されたと言う。

  これについては否定するべき材料がない、従って、事実として話しを進める事にする。
  (今回のテーマの時期に藤原一族の誰が引き継いだのかは不明なのだが)

  また、現在の六日町に大河ドラマでも知られた【雲洞庵】(うんとあん:前出の観光パンフレットの
  左下にある寺) があるが、ここも藤原本家由来の寺と言われている。・・・前述、雲洞庵縁起参照。

2.藤原政照とは誰か?

  城内郷土誌では「藤原麻呂」をその人としているが、はたして同一人物か?
  と、言う事で関西在住の知人に調べて頂いていたが、残念ながら最近その知人が亡くなられた為確認
  はできなくなった。  しかし、過去に途中経過の報告で「同一人物だろうと思う」と言っていた。

  もし、「藤原政照=藤原麻呂」だったとしたら聖武天皇の命を受けて諸国巡視と言う事も有りうる事
  であり、或いは陸奥の多賀城から秋田への新道開削で途中、体調を崩しての帰途、領地のこの地で落
  命したとも考えられる。 (実は新道開削は公務として記録があるが、諸国巡視は記録不明)

  死亡原因が天然痘による病死である事、時期が天平9年(737年)7月と共通で、藤原麻呂の記録
  では帰京(藤原京)後に亡くなった事になっているが、天然痘だとすれば、当時は都が疫病蔓延の中
  心地。 家族を避難させる事はあっても、病を押しても帰る(又は帰れた)だろうか?

  疫病であれば、死後すぐに遺体を焼く事も当然だろうし、結果、諸説もまた生まれ易い。
  城内郷土誌中の法音寺縁起にも【彼歯骨等奉南都贈当寺留置示後・・(以降現代訳)・・再度の勅に
  よって当寺を政照の墓所とし、政照の法名を取って法音寺とする・・・】 とある事を見れば、

  天皇の勅により陸奥・多賀城に下向していた藤原麻呂が、多賀城から秋田城までの軍用道路開削指揮
  の途中で痘瘡(天然痘)を発病した。当時痘瘡と言う疫病に苦しめられていた藤原京の為政者達は、
  例え不比等の孫と言えども都への帰京は許されず、藤原家辺境の所領地での療養を名目に上河条村へ
  来て(或いは来る途中)亡くなった。 そこで遺体の焼却(当時は土葬が普通、高貴な家柄であれば
  なおの事)を指示した、そしてその事後処理が問題となる。例え、骨だけとは言え、都に帰すとなれ
  ば彼の従者達も帰さなければならなくなる。と言う事は、再び疫病を都に持ち込むリスクが大きい。
  そこで、苦肉の策として取られた策がこれ。
   【麻呂の遺体は現地で焼いた、お骨は一番近い藤原家の所領地の寺に留め置き麻呂の
     墓所とする、そこに家柄に相応しい寺の格付と村の名前変更を、勅と言う形式で実施しよう】

  とすれば、本来「藤原麻呂」だった人に、(任期途中だったとの)傷を付けたくない誰かが、便宜上
  法音寺関連だけに「藤原政照」の名前を使用していた。 と言う推論も成り立つ。
  これなら「藤原麻呂が藤原京に帰ってから痘瘡に罹り死亡」と言う説も容易に作れる。

  が、藤原麻呂の「天平9年(737年)持節大使に任ぜられ、陸奥・多賀城より雄勝村を経由して出羽・
  秋田城への直通道路開削事業を行い、同年に帰京するが、当時流行していた天然痘にかかり7月13日
  に薨去」と言う記述には不自然な点がある。
  当時の藤原京から陸奥・多賀城(柵)迄の往復日程と出発帰着前後の準備・整理日程、軍用道路開削
  日程それに痘瘡の潜伏期間から死亡までの期間すべての行程を考えると、わずか半年で起こる事象と
  するには無理がある。(例え元日に勅が出たと仮定しても)
  そして、前記「法音寺・縁起」の中で、【・・当寺留置示後帝王自再綸御下為・・】 とあるのは何を
  意味するのか?
  もちろん藤原政照は勅により諸国巡見に出ていた事になっているから再度勅が出ても不思議はない。
  しかし、その内容は別格で、前後の歴史に名前が載らない様な人物、まして僧侶でも無い人物の為に
  国分寺級の寺を建てるなんて有り得ない事である。

  従って、【「藤原政照」とは為政者(藤原本家房前)の都合で便宜上作られた名前】で【藤原麻呂
  が実名
と考えた方が論理的な話として繋がるのではないかと思う。

  不比等の息子4人とも、わずか1年半位の間に全員天然痘で亡くなった事は有名な出来事である。

3.法音寺と行基の関係・・・法音寺開祖説

  これは全くの捏造だ。
  まずは行基の行動範囲、実質的に行基が行動していたのは広く見積っても現在の地理で奈良から京都
  ・滋賀・三重の範囲、彼の弟子達が動いたとしても天平12年(740年)以前、この地に行基の関
  与があるはずが無い。
  行基と聖武天皇の関係が始まったのが天平13年(741年)、天平15年(743年)大仏建立の
  勅で本格的に全国への勧進活動が始まる。
  この地、藤原村に行基の係わりが出来るとしたら、この天平15年以降しか考えられない。
  まして、行基が健在の年代に行基菩薩云々と言う伝承は、自ら捏造を白状している様なものである。

4.藤原村の人々

  藤原で500年以上続いていると言う旧家があるだろうか?
  恐らく城内中を探しても500年以上の系図(文書と言う意味ではないが)を持つ旧家は無いと思う。
  城内と言う所は意外に人の出入りが激しい所の様です、古くは平将門の残党や前九年・後三年の役の
  残党も来たかも知れません。
  しかし、城内はおしなべて人々の入れ替わりが多かった地域らしい。従って、古の名刹も意外に忘れ
  去られてしまったのかも知れない。

 

【「藤原(村もしくは部落)」のルーツ まとめ】

 ♦ 私の考える「藤原」のルーツは以下の通り。

   1. 藤原麻呂(京家)が陸奥平定の為の、多賀城→秋田城間の軍用道路開削中に藤原京で感染し
      潜伏していた天然痘が発病。(天平8年末~天平9年春)

   2. 帰途、都は天然痘が蔓延、療養目的で藤原家所領地の越後上河条村に来たが、ここで死亡。
      しかし、ここで天然痘が流行ったと言う形跡が無い事から、事実は途中で亡くなって、遺骨
      となってこの地へ来た可能性もある。(天平9年7月頃)

   3. 藤原摂関家の政治力で【麻呂】を【政照】に替え、勅(みことのり)と言う形でこの地に祀
      る事にして、その法名をとり【法音寺】を国分寺格の寺院として建立。 (天平9年)

   4. 同年、それまで「上河条村」と言っていた村名も藤原の呼び名に変えて【藤原村】とした。 

   ※   その後の経過については、法音寺縁起の項と重なるので割愛します。

 

【余談】

 始めは奥州藤原氏の流れを有力と思ったり、藤原魚名の名前から魚沼のルーツかも・・・なんて考え
 たりして見たが、やはり天然痘の流行、キーマンの没年と中央の政治的動向などを考えると、法音寺
 縁起の記述が、かなり正確なのでは無いかと思えて来て、上記のまとめとなりました。

 色々と、情報収集にご協力頂いた皆様方に、改めて感謝致します。  ありがとうございました。

 


 

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ここ、関東平野の片隅・茨城県取手市(の中の旧・藤代)は昨日も33℃。
一昨日よりは多少風が有って少し楽だが、・・・・ それにしても暑い!

 ♦ ミステリアスな花 :  こんな真夏の真夜中にしか咲かない不思議な花 ・・ 秋には赤い実になりますよ!2007.08.14 P-1007.JPG

【 真夏の"キリゼー" 】

さて、「真夏の“キリゼー ”」って何のこっちゃ!?  と、思って居られる方が多い事と思う。

或いは、新潟県の(南・北)魚沼地方の方々の中には、
  「もしかして、あれの事?」 なんて思われた方も居られるかも知れませんね!
    そう、季節外れの 「あれ」 の事です。
ま、答は後ほどわかって頂けると思いますので、話を先に進めましょう。

暑くても用事が有れば外出しない訳には行かず、うだる様な暑い日中を出歩いて昨夜の8時頃帰宅した。

「さて、今夜の食事は何にしようかなー」 「暑いんで火は使いたくないし・・・・」 なんて考えながらTV
を付けたら、昔よく歩いた上高地から北穂高岳への登山番組で、何とはなしに見て居ると、井上靖の「氷壁」
で有名な徳沢園でお昼のシーン。 野沢菜の漬物を刻んでチャーハンを作って出して居た。

「懐かしい ! そうだ、昔あそこで同じものを食べたっけ」、 などと思い出すと同時に、今夜の夕食のヒント

が浮かんで来た。

ご飯は今朝1日分焚いたものがある、野沢菜(漬物)は長野の知人がお中元に同梱してくれたものがある。
冷蔵庫には他に納豆や豆腐、サラダ用野菜などが常備してある。

よーし!今夜は刻んで混ぜる簡単メニューにしよう!と決めて作ったのが冒頭の 「真夏の“キリゼー”」 だ。

なぜ 「真夏の」 なのかと言うと、元来は野沢菜の漬物も納豆も冬の食べ物。
それを組み合わせて作る 「キリゼー」 はなおさら、冬のたべものと言う認識が強い。

それを 「真夏」 の今、食べられると言う事の幸せ!
何だか、自分だけの胸の内に仕舞って置くのがもったいなくって、このブログを書いて居ます。

エ! 「“キリゼー”」 の説明はどうなってるかって?

申し訳ありません大変遅れましたが、漢字で書けば 「切り菜」 、魚沼地方の方言で 「“キリゼー”」 と言う。
材料は 「細かく刻んだ野沢菜漬と納豆、少々の調味料」 で、後はかき混ぜるだけで出来上がり。
冷蔵庫に入れて置けば、2~3日はほゞ味が変わらずに楽しめて簡単惣菜になる。

温かいご飯に 「“キリゼー”」 が有れば・・・・大抵の人が食が進むと思います。
お茶付けにしても美味しいですよ、納豆や漬物が嫌いで無い限り、是非 一度お試しを!

野菜の栽培技術と冷凍・冷蔵技術の進歩の成せる技。 そのお蔭で 「真夏でも“キリゼー”」 が楽しめる。

ただ、あまりにも季節感が無くなって来る昨今に、一抹の不安も禁じ得ないのだが  ・・・・・・・

真夏のミステリー

下の写真は 2005年8月中旬・帰省した時に所用で六日町から十日町へ向かう途中で写した “ツユクサ”
です。    でも皆さん良く見て下さい、何かがちょっと、おかしいと思いません?

 ♦ 八箇トンネルを過ぎてしばらく下って棚田が始まったあたりの国道253号両側・畦道にて2005.09.13 B R253十日町・八箇 P  - 015.JPG

背後の水色で大きな花弁の(少しボケて写っている)花が普通の “ムラサキツユクサ” 。
しかし手前に写っているツユクサも、花以外はムラサキツユクサと同じ、まったく見分けが付かなかった。

実はこの写真の一角(ほゞ1㎡位)がほとんど、変種と思われるこの 「ツユクサ」 で、中に普通のムラサキ
ツユクサが上の写真の様に数本混じっている、と言う状況だった。

その時は珍しいツユクサの仲間だな! 位に考えて居たのだが、後で調べて見ても名前がわからない。
改めて写真を撮ろうと次の年にその場所に行ったが、何故か普通のムラサキツユクサ以外、ツユクサの
花は見付からなかった。  (その次の年も、そのまた次の年も)

そして、その他の場所でも、ツユクサの有る所へ行くと注意して見て居るのだが、以来一度も見かけた事
が無い  「ミステリアスな “ツユクサの花”」  である。

どなたか、名前をご存知の方が居られましたら是非教えて下さい。

 


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オリオン星座と言えば、普通は冬の星座だと思って居る人が多いと思う。

しかし、それは一般的に人々が星を見上げる時間帯、それが夕方から遅くも午前1時頃迄に天空に見える星座、を季節の星座としているからである。
確かに今頃の季節は天の川や白鳥座、カシオペアなど見るべき星座に事欠かないが、夜明けのオリオン星座は最高に美しい。
そして、誰でも普通のカメラで簡単に写せる。

一般に、星座の写真を写そうとすると、沢山の星が写り込む為第三者に星座であると解釈してもらえる撮影は難しい。
所が、明け方のオリオン星座は星座全体が明るい恒星で構成されている為、かなり明るくなっても星座として認識出来、都合がいい事に露出も自動が使える様になる。
勿論、マニュアルで撮れる人は更に綺麗な写真も撮れる可能性がある。

そんな【真夏のオリオン】は、明け方の東の空に昇って来て太陽が昇る頃(明るくなって)見えなくなる。
  (勿論 日中見えるとしたら天空を周ってる、実際に周っているのは地球だけど)
最初に【夏のオリオン】に気付いたのは美ヶ原からの夜明けのアルプスの写真を頼まれた時だった。
この時の写真は版権が無いので掲載出来ないが、雪国ネット・八海山ライブの過去ログデータに、
八海山上空に綺麗に写ったオリオン星座とアンドロメダ大星雲の写真を見付けたので紹介しよう。

  ♦ 写真は五日町スキー場のライブカメラ映像 (雪国ネット様承諾済) 2010-08-11-04-00 八海山 (五日町スキー場より).jpg

写真は1時間置きにログを残す設定で、オリオン星座が少しずつ欠けている為、写真2枚を並べてみました。
3時の写真でオリオン星座の左端の星【ぺテルギウス】が、4時の写真では上部・「ゆきぐにネット」の “ト” の字の上に来ている事がわかる。
つまり、1時間でこれだけ移動していると言う事です。 星ってけっこう動くものですよね!

ちなみに オリオン星座の中、三ツ星の右下に斜めに星が並んで見えているがこれが【アンドロメダ大星雲】、太陽系の属する我々の銀河に一番近いとして知られて居る【銀河のお隣さん】です。

ところでこの【ペテルギウス】、今「超新星大爆発」が迫っていると天文学者達が熱くなっているらしい。
地球から約640光年離れている星なので、もしかしたらすでに爆発してしまったのかも知れないが、爆発現象の到着はこれからである。
東大宇宙研のシミュレーションによれば、昼でも第2の太陽が3か月位続けて見えるらしい。

  ♦ You Tube のひとコマ (昼も見える超新星爆発のシミュレーション)peterugiusu bakuhatu.JPG


【ペテルギウス】の和名を「平家星」、星座の対角線にある星【リゲル】は「源氏星」と言うそうだ。
今年のNHKの大河ドラマは 「平清盛」、平家星が源氏星より早く消滅するなんてドラマと似てませんか?

 ・・・・・ ハハハ!  ちょっと締めくゝりに無理があるかな?

 

残暑で寝苦しい時は少し早起きして、ウォ―キングでもしながら夜明け前の東の空を見上げて見て下さい。

   【真夏のオリオン】が “あなた” を待っていますよ!
        そして、ペテルギウスやアンドロメダに思いを馳せて見て下さい。

きっと、いっとき暑さも忘れる事ができるでしょう。  と思う ・・・・ 退場しまーす (笑)

 


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我々の故郷には出浦(イズナ)と言う地名がある。
何故“出浦”と書いて“イズナ”と言うのか? 子供の頃からの疑問であった。
今回は、そんな【出浦(イズナ)の疑問】と【故郷の古代史】を重ね合わせて謎解きを試みてみたい。

 

【プロローグ】

先の投稿【「魚沼」ってどんな沼?】では魚沼盆地は、「有史以来7世紀~8世紀初頭の頃まで、満々と水をたゝえた湖(大沼)だった」 と推理をした。
そんな地形のイメージを前提に、この地に移り住んだ古代人達が見た八海山はどんな眺めだったのだろうか? と想像してみた。
  (写真合成が粗雑で見にくい点はご容赦を!)

  ♦ 魚沼盆地が湖だった時代、古代遺跡がある現在地名で南魚沼市・余川付近からの春の風景hakkaisan yokawa.jpg

  ♦ 同上、余川の少し上部・上の原付近から、3月下旬・凍み渡りの頃の早朝風景。hakkaisan uenohara.jpg

魚沼丘陵の西側・信濃川沿いは、石器時代から縄文時代・弥生時代と交通・文化の要衝遺跡が数多く、遺跡ロードと言える。
一方、魚沼丘陵の東側・魚沼盆地は弥生時代以前の遺跡は規模も小さく数える程しか無く限りなく無人地帯に近かった。ただし、縄文時代は前期・中期・後期合計すると1万年もの期間があり、この間常に魚沼盆地が満水だったとは考え難い。何回か増・減水期を繰り返し、減水期には縄文人の進出も繰り返された事と思うが、増水期には縄文人の痕跡も再び消し去られる、これを繰り返して来たのでは無いかと思う。
従って遺跡が無いから縄文人が住んで居なかったとは言えないと思う。これからも思わぬ所から縄文遺跡が発掘されるかも知れない。

そんな魚沼盆地に人々の移住が始まったのは3世紀初め頃、本格的集団移住は3世紀末頃だろう思われる。
時期を同じくして信濃川流域への集団移住と考えられる遺跡が増えている。むしろ移住者の大半は信濃川流域へ住み着いたのでは無いかと思う。
日本史で「古代」と言われる時代であり、大和朝廷の草創期(或いは黎明期)と時を同じくしているのは何を意味するのだろうか?
信濃川流域と魚沼盆地への集団移住は、やはり大和朝廷の拡張政策と大きく関係していたのではないかと考えるのが一般的なのではないだろうか。

  ♦ 信濃路は 今の墾道 刈株に 足踏ましなむ 履はけ わが背

   ( しなのじは  いまのはりみち かりばねに  あしふましなむ くつはけわがせ )   

昔、中学校(だったかな?)で習った万葉集の中の一句。
「信濃へ出兵する夫への情愛を歌った心温まる歌」、位にしか考えて居なかったが、意外に我々のルーツに密接に関係していたかも知れないなんて、ロマンですよねー!
でも、我々のルーツが信濃川上流からの移住民だとしたら、当時は大和朝廷方=敵方の兵士の妻が歌ったものだけど、・・・・ま、美しい歌には敵味方ないですね!

 

【地理的イメージと古代史の舞台】

 ♦ 広域 A (新潟県側・信濃川流域と魚沼盆地)uonuma kara sinano A.jpg

 ♦ 広域 B (長野県側・信濃川流域と関連地域)uonuma kara sinano B.jpg

南魚沼市・余川には【飯綱山古墳】と言う重要な古代遺跡跡が有り、そこはまた可憐なカタクリの花の一大群生地でもある。

 ♦ 飯綱山古墳群の入口から八海山を撮影、この日は古墳群全体がカタクリの群落だったiizunayama katakuri.jpg

一方、越後三山のひとつ【八海山】には八海神社が2つ有るが、現在の八海神社は何れも江戸時代から明治時代に活発だった山岳信仰を目的に作られた神社。
従って、どちらも八海山の登山口に設けられている。つまり「大崎口」と「城内口」、どちらも里宮と言うが本宮(又は奥社)は無い。山伏にとって山全体が本宮なのだそうだ。

話を戻して、2か所の八海神社であるが江戸時代以前については、かなり以前から何かが有っただろうとは思うが、資料・確証が無い。と、思っていた。
が、「城内口」に現在地から少し離れるが古代の【元祖・八海神社】跡らしき遺跡が有った事がわかった。
その場所が、下記添付写真の【長者原】である。

 ♦ 魚沼盆地の湖上を渡った古代人が上陸したであろう【出浦】と遺跡が有った【長者原】izuna-tyoujyahara 1.JPG

長野市の北北西に飯綱山と言う山がある。(“広域 B” 参照)
3世紀初頭の頃、この山裾を中心として恐らく現代の地名で、信濃町・飯山・信州中野・須坂・小布施・松代そして飯綱町を含む長野市内の大半を占めた、一大文化圏があった。
それは縄文時代から連綿と続く、現代の地名で妙高・高田・直江津や糸魚川地域との交流が活発に行われた事で、出雲や海外交易を中心とした日本海文化圏の影響を色濃く受けていた幾つかの豪族の集団支配地域だったと思われる。
一方、元々は日本海文化圏の一員だった豪族の中から、大和朝廷の影響を受けこれに組する豪族達が現われ始め、信濃川流域でもそのうねりの中に巻き込まれて行った。

 

【古代史 (ストーリー)】 ・・・・・以下はすべて小生の推測です

 1. 大和朝廷東進で、難民の一部 が現在地名・余川周辺へ集団移住

3世紀末頃信濃川上流(現在の長野県飯綱町を中心に信濃町から信濃川流域付近を)拠点として栄えた一族が居た。 (以降便宜上、飯綱一族とする)
時代は大和朝廷勃興期、その影響力が徐々に強まり臣従か拒絶かを問われる事になる。
4世紀中頃、現在の千曲市・更埴JCT 近辺 に勢力を持つ豪族を味方に付けた大和朝廷の締め付けに、飯綱一族の中で臣従を拒絶する人々が信濃川下流へ逃れて来る。 (勿論、飯綱一族以外の部族からの難民も多く居たものと思われる)
その中の一部の人々が新天地として選んだのが、現在の南魚沼市(六日町)・余川周辺である。

(注記) 
大和朝廷側に味方したと思われる豪族とは、広域 B の千曲市で更埴JCTから上信越道を上田へ向かって最初のトンネル入り口右側に、「森将軍塚」と呼ばれるこの地方最大の前方後円墳がある。
“森” と言うのは地名らしく、正式な氏族名は不明だがこの一帯を治めていた一族の墳墓と思われる。
此処から出土した三角縁神獣鏡のかけらから、中国産の鏡である事がわかり、この事や前方後円墳を許された事等から大和朝廷からもかなり重要視(王族待遇?)された豪族である事が推測される。

飯綱一族、彼等を共通の価値観で繋ぎ心の支えとなったのが戸隠山を中心とした山岳信仰だろうと思われる。
近世の山伏達の山岳信仰と違い、山そのものが御神体であり、遠くから、もしくは高台に登りそこから戸隠山を参拝する形式が主体であったのだろう。
年に1・2回 “飯綱山” へ登り、山頂から戸隠山に向かって祭祀を行った可能性も大きい。
  (後世の飯綱権現信仰などにも繋がって来ると思われる)

現代の風景で考えるなら黒姫山の方が祭祀に向いていそうだが、当時は活発な火山活動をしていたものと考えられ、人間を寄せ付けない山だったに違いない。(今でも山頂火口跡では地熱で雪解けが早いと言う)

大和朝廷の圧迫から彼等の一部が新天地を求めて信濃川を下り、多分津南から十日町の間の尾根から魚沼丘陵を越えて、満々と水をたたえた湖水の向こうに荒々しい峰々を天に突き上げる様にそびえる八海山を見た時、信奉していた戸隠山が重なっただろう事は十分に考えられる。

下の写真は現代の魚沼スカイライン・栃窪峠(塩沢・十日町線が交わる所)からのものだが、古代もこの様に見えたものと思う。ただ、此処から見える平地部分は殆んど湖水に覆われて、また魚野川上流はかなり奥まで湿地帯と灌木で、人の入植を拒んで居たとも考えられる。

 ♦ 魚沼スカイライン・栃窪峠からの守門岳から八海山2003.04.11 - uonuma SKL・totikubo touge.JPG

当時の湖水の水位を考えると、人々が居を構える為の大地は余川周辺と塩沢の上流域位だったと思われる。 (水位は海抜200mから250m前後)
しかし塩沢の上流から湯沢付近にはかなり広い台地があったと思われるにも係わらず、余川付近に比べて遺跡数が極めて少数だ。 やはり八海山全体の山容が見える地域へ集中して集落を作った、と思われる形跡が遺跡の発見場所と遺跡数の差からも推測できる。

この様にして現飯綱山古墳群が残る余川や上の原(上の台)付近を中心に集落群を形成して行ったものと考えられる。また余川一帯に移住した飯綱一族の繁栄が、6世紀頃まで続いた事は飯綱山古墳群が物語っている。
同様の年代、同じ様な規模・様式の古墳群が長野県の彼等の故郷付近に数箇所残っている事から、故郷の人々とも密接な交流があったものと思う。

6世紀と言えば、聖徳太子が活躍した時代である。

一方、山岳信仰の必要性もあってか、対岸・八海山の山裾に行く試みがあったと思われる。

 2. 【“出浦”(イズナ) と “元祖・八海神社”】 ・・・・・前出の写真【長者原】参照

八海山・山裾側の湖水の水位は現在の岡村から山口の間(海抜250m前後)と推定される当時、小舟で渡った人々は何処に上陸したのだろうか?
うってつけの場所は、まさに現在の “出浦(イズナ)” と呼ばれるその地だったものと考えられる。
なぜなら、傾斜のゆるやかな水辺には葦や雑木が繁茂しやすく、また蓄積した泥濘は現在の山口方面への人間の上陸を阻んだものと考えられる。
また、出浦も現在の様に奥地まで入るのは困難と思われる事から、上陸地点は出浦も入口付近と思われる。

さて、出浦に上陸した人々は陸路で現在の長者原に小さな居住地を作った。そして祭祀の為の小さな祠が作られた、元祖・八海神社の芽生えである
居住地と言っても、おそらく神聖な場所として祭祀を行うのが目的で、そこには施設を維持管理する為の人々が数人住んだ程度ではないかと思う。

時代が進み水位が下がると山口方面からの上陸が可能になり、やがて祠も便利な現在の地に移され、幾たびかの宗教的改変を経て、江戸時代から現在の八海神社になったと考えられる。

話は戻るが、“出浦”の命名について。

飯綱一族はすでに日本海文化の影響で、文字(漢字)を使う文化を持っていたと思う。しかし当時から出浦(いずな)と呼んでいたかどうかは疑わしい。
一方、舟の出入りする所を浦と呼ぶのは全国で共通の事実。
後世、その昔対岸の飯綱山近辺からの舟が出入りしていた事を (言い伝えなどで) 知る知恵者が“出浦”の漢字を当て字として“いずな”と呼ばせたのが真実ではないかと思われる。

 

【エピローグ】

飯綱山の周辺に住んでいたから飯綱一族とするなど、かなり無理してのストーリーでしたが、大きな流れとしてはそれほど違っていないものと思います。

「歴史とは点と点の史実・物証を想像で紡いだ小説」 と有名な小説家がTVで語っていたのを思い出す。

今迄殆んど語られた事の無い、「この時代・この地方の歴史」 について、興味を持つ人が一人でも増えてくれたら非常に嬉しく思います。

 

前回投稿記事の 【“魚沼”ってどんな沼?】 と併せてお読み頂ければ、この地方の地形の成り立ちとの関連もわかって来るのではないかと思います。
もし、まだ読んで居られない方はこちら 【“魚沼”ってどんな沼?】 をクリックして見て下さい。

 

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はちゃ! また!

 (南魚沼市地方の方言 : それでは!  また次の機会に!  ・・・の意味)

【プロローグ】

私の出身地は現在の新潟県南魚沼市それも八海山の山懐・城内(合併前の村名)だが、自分の生れ育った地に付いて、なんで地名に“魚沼”が付くのか?  魚沼も“北” “中” “南”の3つの地域があるが、どの地域にも地名と結び付く様な“沼”が無い。
それなのに、何で“魚沼”なのか?  そんな素朴な疑問から文献や伝承みたいなものを探してみたが、納得出来る様な説明は見当たらない。
そこで、むかし衛星写真を分析する仕事をした経験が役に立つだろうと、調べ始めて気が付いた。

  • “はっけぇ様”(八海山の事=城内の方言)は、大昔は火山だったんだ !
  • “魚沼”は3つあったんじゃなくて1つの巨大な“ユの字形の湖”だったんじゃないか?

って事に !

そして、下記万葉集の一句が故郷の歴史と交叉しているかも知れない 【「故郷の古代史」と「八海山」】 も併せてご覧ください。

     信濃路は 今の墾道(ハリミチ:切り開かれた道) 刈株(カリバネ=切り株等)

       足踏(アシフ)ましなむ(=つまずいたり怪我しない様に) 履(クツ)はけ わが背(セ=夫)  

まずは現代の航空写真で魚沼地方のイメージを持って頂いた方がわかり易いと思うので掲載します。

 (写真は Google Map で地図表示付きとした)uonuma-kouiki-MAP (魚沼・広域地図).jpg

数億年~数千万年前、ユーラシアプレート・北米プレート・フィリピンプレートそして太平洋プレートが衝突し、日本列島が形成されて行った事は周知の事実。
そして魚沼地域はそのユーラシアプレート・北米プレート・太平洋プレートがちょうどせめぎ合う地域に符合する。
航空写真と中越地震・中越沖地震の報告書に登場して来る魚沼丘陵の隆起年代などを参考にすれば以下の様なストーリーが見えて来る。

 

【八海山と魚沼丘陵の誕生】

それは日本列島や日本海が、現在の形状になる過程での出来事から始まった地形と考えれば地形の成り立ちが推測し易いでしょう。

以下のストーリーは、あくまでも小生の推論ですが形成年代や数値の変動はやむを得ないでしょうが、形成プロセスはそれ程違っていないものと考えています。

およそ数千万年前、北米プレートの南端部に位置するそこには山頂の規模が現在の阿蘇山に匹敵する規模の外輪山を従えてプレート上を自重で沈む位重い、恐らく標高3000m以上の巨大な火山があったものと思われる。
また、西側には広大な扇状地を広げた旧信濃川が流れる平原が日本海まで続く光景があった。

約500万年~300万年前、太平洋プレートに圧迫された北米プレートが、ユーラシアプレートとの間に挟まれて西側へ、上に乗せた火山は自重で沈み込みながら、西向きに転倒し始める。
約200万年前、ほぼ現在の位置に来た時、火口のおよそ1/3を太古の信濃川河川敷に埋める事になる。

この頃には火山活動の原動力であったホットスポットは、現代の日光白根山、又は那須岳付近に噴出口の位置を変えた。
  (プレート移動を年間 50mm~80mm 前後として → 約80km~120km東へ移動した)

航空写真の分析をして行くと、この火山の内輪山・火口壁の現有最高地点が今の八海山であり、六日町の方向から見て
  左側は、池の峰 → 猿倉山 → 堂平山 → 鬼の面(オニのツラ)山 →(上原)
  右側は、阿寺山 → 高倉山 → 桂山 →(田崎)
と火口壁のなごりが囲んで内輪山を形成し、現在の下原から魚野川の地下深く辺り迄が八海山対面の火口壁だったものと推定される。
  (最も新しい噴火口跡、“溶岩ドーム”の形跡は山口付近だったと思われる)
そう考えれば、八海山の山容が峻嶮な岩峰である事、城内の一部を抱え込むかの様な山群にも説明が付く。

八海山の成因が火山である物証としてもう一つを挙げるとすれば、金属鉱床だ。
かなり以前に廃坑となってはいるが、東邦亜鉛の採掘抗があった。 普通、亜鉛の様な金属鉱床はマグマの様な高温と高圧の条件が無ければ生成されない。
つまり八海山の地下には過去にそう言う条件を満たす状況が存在したと言う証拠であろう。
ただし、先に書いた通りホットスポットが東へ移動しているので、現在は噴火の心配は全く無い。

また外輪山は、越後駒ヶ岳・中ノ岳・巻機山・金城山などによって構成されていたと推定して居る。

一方、かって太古の信濃川・河川敷(扇状地)だっ堆積物層は圧縮されて隆起し、現在の魚沼丘陵を(新潟付近まで) 形成する事になる。
   ☆ 魚沼丘陵が大河の下流だったことは各峠道などで玉石を含む堆積地層が露出している事など
   からも 証明できる。
   また、これらの点は地震や原子力関係の地質学的各調査でも、証明されている。
そして新しい信濃川が、現代の十日町付近から小千谷へ向かって流れ始めると同時に、魚沼丘陵で塞がれた地域はほゞ現在の魚沼盆地の形を形成。そしてその盆地は巨大な湖に成長して行った。
  (便宜上これ以降、この魚沼盆地側の淡水湖を【大沼 A】と呼ぶ事にする)
その後も地殻変動などで喫水の変動はあったものと思うが、人類が登場する頃以降は有史時代に入ってもかなり新しい時代まで、更に巨大になった湖が存在していたと思われる。 理由は後述。

 (魚沼盆地が湖だった頃の八海山を想像すると、こんな景色かな!)2005.05.20 -L N-001A 六日町・城内.jpg

 

【魚沼”のルーツ】

その後、中越地震を起こした断層が動いて魚沼丘陵に亀裂が入り、“大沼 A”と新信濃川をつなぐルート (堀ノ内付近) が出来、一旦ほとんどの水が流出したと思う。
その後も地殻変動や気候の変動で【大沼 A】の規模は縮小・拡大を繰り返したものと思われるが、最も大きな変動は【信濃川西岸の隆起】地震だと考えられる。
小千谷付近から長野県の飯山付近まで、長大な河岸段丘を作った大変動で、この時の力は想像を絶する巨大地震を生んだ事だろう。
  (数10万年~数万年前の出来事、今の所隆起年代特定などの資料が不足の為、小生の推測)

これにより信濃川の川口~小千谷間が堰き止められて、信濃川流域に【大沼 B】を形成し、やがて魚沼盆地の【大沼 A】と繋がって “ユ” の字形の湖 【超大沼】 を形成した。

  (便宜上この【超大沼】= 大沼 A + 大沼 Bを、以降は簡略化して【大沼】と呼ぶ事にします)

“魚沼”のルーツはこの【大沼】に由来するものでは無いかと思う。
古代人が【大沼】の形状が “ユ” の字をして居る事を認識して居たとは思わないし、魚沼丘陵を挟んだ2つの湖が実は繋がって居る一つの湖だと知る人もほとんど居かったのではないかと思う。
実際はどちらか一方の湖を見ただけでも【大沼】と認識する事と思う、そんな状況を記憶していた先人の言い伝えか、又は実際にそれを見た昔の人々が、大きな沼・【大沼】と言う意味で名付けたものと推測する。

話し言葉としての発音「大」が“オー”も“ウォー”も“ウオ”も混同され易く、後の世「魚」に変化して(もしくは変化させて)【魚沼】に変わって行ったものと考えられる。
また、【大沼】の最大期は長野県・飯山市付近にまで水位を上げていたものと思われ、縄文~古墳時代がこの時期に重なって見えて来る。

 

【古代人と【大沼】】 (縄文から古墳時代)

新潟県立歴史博物館の資料から“魚沼地域”で古墳時代以前の遺跡・史跡を調べた結果、添付の表になった。

uonuma-kodai iseki.jpg

注目すべき点は、信濃川流域(現在では合併して十日町市)には旧石器時代から古墳時代までの遺跡が115ヶ所も有るのに対して、魚沼盆地(湯沢~小出~越後須原)では同じ時代のものはわずか 8ヶ所しか見付かって居ない事だ。
また、所在の明確な十日町と 魚沼盆地 の遺跡の 標高 を調べたら、魚沼盆地では 海抜 200m~250m前後。
十日町の縄文中期位までのものはやはり海抜  200m~250m 前後、その後の遺跡を含めても海抜 200m 以上の高台に住んでいた事になる。
そして十日町の場合、例外はあるがほとんどの遺跡は現在の国道117号線から魚沼丘陵側に分布している。

中里村は更に標高が高い地域なので特に標高は調べて見なかったが同様で、ほとんどが国道117号線より山側に分布。 十日町地域と様子が異なるのは信濃川東岸の川岸がかなり急峻な所が多くなる為か、かなり山側に入り込んで分布している遺跡がある事だ。

津南町、こちらは古いもの程、清津川沿いに分布している事から、石器材採掘の為の住居跡が多いものと見られる。
 (今風に言えば、石器ビジネスの為の採掘場、東北の遺跡でも清津川産の石器が多く出ている)

話を戻そう、

河岸段丘の隆起で堰き止められた信濃川・下流域の最上流部に位置する遺跡に、小千谷市の三仏生(さぶしょう)遺跡がある。9月の奉納花火大会で有名な片貝に近い遺跡で、その標高は海抜 約 50m。
そこ迄の信濃川上流河畔の遺跡については、データの有る所(現・十日町市・下条付近から上流)の標高は、すべて海抜 200m~250以上で有った。

そこで、古代人と【大沼】に係わる疑問をまとめると下記の3点が浮上して来る。

 Q1 「三仏生遺跡と、その上流の流域遺跡との、標高差 150m~200m は何を意味するのか?」

 Q2 「信濃川流域の遺跡も魚沼盆地側の遺跡も、同じ海抜 200m~250m 前後のなのは何故か?」

 Q3 「十日町より上流の信濃川流域の遺跡数と、魚沼盆地側の遺跡数の極端な差は何故か?」

これらの事実は何を物語るのだろうか? 類推して行くと、次の様な答えが出て来た。

 A1 (Q1に対して)
    理由は、三仏生遺跡より上流域の遺跡では生活圏を標高差150m~200m以上の地域に選ぶしか
    選択肢が無かった事。
    原因は、河岸段丘の隆起で堰き止められ、信濃川と魚野川で作られた湖(ダム湖)の水位。

 A2 (Q2に対して)
    魚沼盆地側の遺跡の標高も信濃川流域遺跡と同じ理由で標高の高い場所が選ばれた。
     「魚沼盆地側も信濃川流域のダム湖も同じ水位、つまり両方の湖が繋がっている」
    と言う事であろう。 この事実があったからこそ【大沼】はひとつとの結論が見付かった。

 A3 (Q3に対して)
    信濃川流域遺跡で遺跡数が特に多いのは縄文時代以前の遺跡数103遺跡、一方同じ縄文時代
    魚沼盆地側の遺跡数はわずかに3遺跡。
    縄文時代、魚沼盆地側は限りなく住み難い所だったらしい。
    魚沼丘陵の山容から、信濃川流域の縄文人が1万年近く山を越えられなかったなんて考え難い。
       (縄文時代は、前期・中期・後期を合わせると約1万年もあると言われている)
    考えられるのは、山を越えても“彼等が住み付く事を許さない状況、又はメリットが無かった事だ。
    なぜか?
    推測の域を出ないのだが、魚沼盆地側は人の住める台地が極めて少なかっただろう事と、信濃川
    流域には石器時代からの 「物流ルートが出来上がって居た為ではないか」 と考えている。
       (糸魚川から東北へヒスイを運んだヒスイロードの一部だったのかも知れない)
    縄文時代とは言えそんな物流ルートに人が集まるのではないか、やはりルートから外れた魚沼盆
    地側には人々が定住しにくかったのではないか? と考えられる。
    縄文後期に入ると新しい遺跡は少なくなるが、古墳時代になると状況が変わり、魚沼盆地側への
    入植も始まった。

    もう一つの理由は湖(ダム湖)の水位の増減。
    縄文時代、約1万年もの間湖水の水位が常に一定だったとは考えられない。  そこで、例えば魚
    沼盆地側と信濃川流域が同時に水位が変動したとして、減水期に増える集落数が同じとしても高
    台が多い信濃川流域の集落は、比較的従来と同じ地域に近接して高所に居を構えるだろうと思う。
    一方、魚沼盆地側は高所の平地が少なく未開の所へ水位が下がって居れば、必然的に低地の居住
    地で集落を創る事になる。
    再び増水した時、どちらがどれだけ残れるか?  それが1万年の間に何回繰り返されたのか?
    例え一回だけの減水→増水だったとしても、魚沼盆地側の集落はほとんどが湖水に沈み、痕跡は
    泥濘の中に埋もれてしまった可能性が高い。

 

【エピローグ】

その後の歴史を眺めて行くと、魚沼盆地が歴史上確実な痕跡として登場して来るのは8世紀・平安時代の頃~11世紀・鎌倉時代の頃。
例え湖が無くなっても、大小の沼や湿地帯が散在する湖底付近まで人間が入植するには、更に100年以上が必要だったからであろう。

ちなみに、2009年のNHK大河ドラマ天地人で現在の六日町一帯を“上田の庄(荘)”と言う表現をしていたが、これは7世紀中頃に始まった荘園制度の名残りである。
とは言え、この地に荘園制度が伝わるのは40~50年後の8世紀に入ってからと思われる。

8世紀初めと言えば坂上田村麻呂が東北遠征を行っていた頃だ、その頃の“魚沼盆地”では広大な多くの湿地帯や大小の沼が多数残り、そこにはトキや鶴・コウノトリなどが自由に飛びまわっていた事だろう と思う。

【大沼】の一部で有った魚沼盆地、この湖底に降り積もったミネラルなどが 今日の“魚沼コシヒカリ”の源でも あろうと思われる。

なお、冒頭で触れた通り古代の魚沼と八海山については、【「故郷の古代史」と「八海山」】 の様に考察してみましたので読んで居られない方は、是非一度ご覧ください。

また、他のブログも読んでみたいと言う方はこちら「♪ お暇なら来てよね!」(テーマごとに分類した索引)からが便利です。

 

はちゃ! (南魚沼地方の方言 ・・・ それでは、またの機会に! の意味)

【集中豪雨災害】

 亘さんのブログに【昭和44年8月の集中豪雨災害】の事が詳細に書かれて居た。
当時すでに東京の会社に就職して居た私に取っては、 「大変だったろう」 とは思って居たが改めて見直
すと、この時の災害の大きさを、思い知らされた気がする。
同時に、まさに壊滅に近い状況から復興させ、現在の繁栄を築き挙げた故郷の人々とその中核として活動さ
れたであろう、団塊世代の我らの仲間達に、改めて脱帽である。

 

【昭和44年以前の城内】

 ところで、我々がトンボやセミ・ホタルを追いかけたり、畔豆(大抵は大豆)の葉枝で編んだ(タタミ
と言ったかな?) ものを、ブーメランみたいに投げて遊んだりして育ったた故郷の風景。
あの頃の風景はこの “被災” が引き金となったのか、以外に早く【土木改良事業】で変わってしまった。

故郷の人には申し訳ない事だけど、故郷を離れて数十年を経ると、あの頃の風景が見られない事に一抹の
寂しさも感じる。

 写真は中学2年の3月下旬だったと思うが、長崎育ちの義兄を案内して・凍み渡りをしながら暮坪山
(くれつぼ山 : 宇田沢川を挟んで学校の対岸の山) へ登った時、義兄が写していたもの。

  ♦ 暮坪山から見た 【昭和36年頃の、合同製糸 から 城内中学方面】jyounai kamihara.jpg

左下の工場が「合同製糸」、手前の鬼の面(オンノツラ)山が一部邪魔しているが煙突も見えている。
記憶が定かでないが、一番右側下の建物がS44年の災害で流された中学校の体育館かな?
遠方は藤原から下原新田位までの範囲が写っていると思うのだが・・・今の風景とはだいぶ違いそうだ。

 

【雷電様】・・・・・命の水の水源地

 藤原と言えば、我らの実家・上原(学校のある地域)などの上水道の水源地 【雷電様】 のある所。
  【雷電様】 にはこんな希少な花も咲く、清酒 【八海山】 もこの水から生まれると言う。まさに命の水だ。

  ♦ 【アズマシロカネソウ】 (東白銀草)2007.04.16 azuma sirakanesou (雷電様にて).jpg

     ※  水源の岩場からの湧水を、雫としてまとった様な姿、まるで【妖精の集会】だ。

 


 

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何度走っても飽きない道がある。  行く度に、それぞれに違った感動や安らぎを与えててくれる道。
私はそう言う道を “心の道” と勝手に決めて、折に触れてドライブし、命の洗濯をしている。

私の中で何本かある “心の道” の中でも、「奥只見シルバーライン」は、アルプス展望の「ビーナスライン」 と双璧を成すお気に入りのコースだ。
特に紅葉のシルバーラインは山紫水明の世界とダイナミックな山岳ドライブ、それに錦秋の風景が相まって他では体感できない感動が待っている。

そんなシルバーラインの錦秋を、少しご紹介します。

私は殆んどの場合、途中の景観を楽しみながら枝折峠を越えて銀山湖へのルートを行く場合が多い。
(ただし、このコースは途中「大湯から枝折峠」間が、午前は大湯→枝折峠・午後は逆と、方向が変わる一方通行路なので要注意、時々逆走して来る車も居るので、なお注意が必要だ。 枝折峠から銀山平以降は対面交通となる)

写真は枝折峠を下り、銀山平と越後三山の中ノ岳(左奥の高い山)と越後駒ヶ岳(右側の高い山)、八海山は越後駒ヶ岳の後ろで此処からは見えない。

♦ 銀山平はキャンプ施設や旅館・日帰り湯などがあり、中の岳や駒ヶ岳を眺めながら入る日帰り湯も格別。2002.10.18-020.jpg

♦ 奥只見湖岸をかなり走って振り返った景色2002.10.18-031.jpg

♦ 「銀山湖」の名前の由来、銀山発掘地の神社「十二山神社」2002.10.18-032.jpg

2002.10.18-033.jpg

2002.10.18-035.jpg

2002.10.18-034.jpg

2002.10.18-036.jpg

♦ 「銀山湖」最奥の橋から上流方向の景観2003.10.15-014.jpg

♦ 銀山湖を離れ、福島県側の林道。 尾瀬の燧ケ岳が目の前にそびえる。2002.10.18-040.jpg

♦ まもなく桧枝岐に出る直前、最後の景観は「モーカケの滝」2002.10.18-044.jpg

♦ 「モーカケ」 って何の事でしょう? ・・・・・・ 答えは現地で!  ヒントは、天女伝説。2002.10.18-048.jpg

 

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