故郷を離れて既に40年 東京・武蔵野の水辺を中心とした身近な風景と駄文を発信します

故郷の最近のブログ記事

『場内散歩』の案内メールを、南魚沼市女子力観光プロモーションチームに送ったら、今日その返事が届いた。
※ 掲示板にそのコピーを載せておきました。

既に「女子力………」のブログでも取り上げてくれていたようだ。
又、公民館城内分館のブログでも気合の入った案内がされていた。

企画は1年間を通してのものだから、相当話題になりそう。
亘は勿論のこと、地元メンバーの心意気とご苦労のおかげです。

この「八海山倶楽部」もチョットばかり鼻が高い感じ。

鬼の顔(おんのつら)登攀

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GWで帰省した際、鬼の顔(おんのつら)に登ってきた

 

鬼の顔は、ここ何年か、一度登ってみたいと思っていて今回それが実現した次第。
鬼の顔の正面、鼻筋に当たるコースを真っすぐ上に登った。実際の勾配は60度位か。しかし実感としてはもっと急に感じる。
木の枝につかまりながら登ったのだが、その枝が無ければ到底姿勢を維持することも出来ない。足を滑らせれば下まで転がり落ちるし、結構緊張した。
登攀時間は20分位だったと思う。

下りは西寄りの、下の写真で言えば左側の稜線(三角形の左の辺)に沿う形で降りた。
降りるときも枝につかまって降りるのだが、枝をしならせながら次の枝まで下りればいいので楽だった。

 

8月13日から16日まで、実家に帰省して来た。
とは言っても、先月から施設に入ったおふくろの泊り帰宅が14日にあり、身の自由が利かないおふくろが家にいる間、誰か付いていなければならない為、日ごろ地元の姉妹たちにおんぶに抱っこの世話を掛けている身としては、その役を買って出たと言うところで、実際はお盆などと浮かれている状態ではなかった。
そんなこんなで、殆ど出かけることも無かった。

写真はその合間に身近な所を切り撮った分で、自分の記録といった意味での掲載。脈絡もなく単なる羅列。

 

雷電様

冬でもない限り実家に帰省すると、たいていは足を延ばす。
亘も「こもれびの歌(藤原)」で書いているように、やぶ蚊と言うかブヨと言うか、本当にうるさい。眼の中に飛び込んでくるのが煩わしい。

bon-5.jpg

 

以前、Community掲示板に掲載した文章を、掲示板閉鎖に伴いこちらに移転しました。若干の補足を加えて。
地元以外の人には勝手が分からないかも知れませんが、悪しからず。

 

団塊の世代』で、目先に迫った親父の死、それに続く葬式への懸念に触れたら、秀一から「しんごと(死に事)は『仕事』で、大変だな」と言うようなコメントを貰った。
確かに葬式は大仕事だ。

 

ムセェ

ツツと同じく、地域的にどの範囲まで通用するものか分からないが、故郷には「ムセェ」と言う言葉が有る。ツツと違いムセェは、私が未だ家にいた頃には普通に使われていたし、多分今でも残っているんじゃないかな。
「むさい」と言う言葉は共通語としても有って「爺むさい」等の言い方で、「汚らしい」と言った意味で使われる。若しかして語源的に根元で繋がっているのかも知れないが、わが故郷の「ムセェ」の意味はそれと若干違う。

「ムセェ」の意味は、(多すぎて)「うんざりする」とか、「持て余す」と言ったところ。
畦草刈りや畑の草むしりで、中々終わりが見えない時、腰を伸ばしながら「えーィ!ムセェなあ」等と嘆息する。
この辺、共通語の「むさい」と共通していなくもない。しかしわが「ムセェ」は、これから述べるように中々味の有る言葉なのだ。

 

方言と訛り

魚沼の地に生まれた私は、自分も含めてこの地方は概ね「方言は有るが、訛りは無い」と思ってきた。訛りは時として一生モノとして残るが方言は比較的簡単に直せる。
ここでも書いたように、魚沼の地を離れて都会に出た時、「おまえ」の使い方の行き違いで相手に深刻な誤解を与えたと言う話は聞いたことが有るが、他に言葉で苦労したと言う話はあまり聞かない。

実家の嫁さんは大事にした方がいいよ

お盆が終わった。
田舎に帰省し、故郷のお盆を満喫した向きも有っただろう。
まあしかし、あまり色々なことを考えずに、楽しみに故郷に帰れるのは、親の生きている間。
親が死んだあと、実家の権限を握っているのは、親が健在の間、その下で耐え忍んできた赤の他人である後継ぎの嫁さんだ。

あんた方が盆や正月に実家に帰って、日頃の仕事や旦那の世話を忘れて「じょん伸び、ジョンノビ」している時、実家の嫁さんがどんな思いで、他人であるあんた方の世話をしているか。
その辺の想像力が欠如している御仁は、親が死んだあと、途端に故郷・実家が遠くなってしまう。
尤も最近その辺は双方とも随分、ドライに改善されているとは思う。今実家に帰る時でも泊るのは五十沢温泉だったり、六日町温泉だったりするのが多いらしい。
それはそれで多いに結構なことだと思うが。

偉そうなことはおいらにも言えない。
親を置いて家を出てきた身としては、逆に親の生きている間、今、現におんぶにだっこで親の世話を任せている妹夫婦に足を向けて寝られない。
盆・正月とは言わず、しょっちゅう帰って少しでもそのお手伝いをしなければ、と思うのだが、仕事やら様々な現実が立ちはだかってそう云う訳にも行かない。

 

おれ、ボク、私

お盆に入った。
帰省して、久しぶりにふるさとことばでくつろいでいる向きもお有りだろう。
今回はその「ふるさとことば=方言」に付いての大考察。

先ずは第一弾として、特に方言と言うことでは無いのだが、「おれ、ボク、私」について。

ビールと朝顔.jpg

連日暑いですね。
亘の「暑中見舞い申し上げます」にあやかって私も、下手なイラストを一葉。

このくそ暑い中、大晦日の話から始めるのも何なんだが、『おばあちゃんの思い出』の中で、「ふるさとでは大晦日の晩に「歳取り魚」と言って、塩引き鮭を大ぶりに切って食べる風習が有り、」と書いた。しかし改めて考えてみると他人の食卓を覗いて確認した訳でもなく、若しかしたら年越しそばで大晦日を過ごす家庭も有ったかもしれない。
あくまでも「我が家では………」と、ここで訂正しておくとして………。

我が家で大晦日に鮭が食べられるようになったのは、これはもうハッキリした記憶は無いのだがおそらく私の小学校の低学年頃だったろう。家で鮭を買える程度の経済状態になったのか、就職していた叔父さんたちがお歳暮に送ってくれるようになった為か、そのどちらが早かったか、今となっては分からない。
その前はホッケだった。ホッケは大晦日に限らず日常的なおかず魚だったが、歳取り魚として膳に乗る時には切り身で無く1匹丸ごと付いた、と言うに過ぎない。尤もローソクホッケと言う小さなモノだったし、頭は外されているから、尾頭付きとは言えなかった。
当時おいらの学校の弁当のおかずは毎日ホッケだけ。だから今でもホッケには恨みが有って店頭に並んでいても買う気にならない。


それは兎も角、日本は例えば「鮭文化圏」と「鰤文化圏」とに分けることが出来るようだ。
その境界線は、太平洋側は知らないが日本海側は新潟と富山の県境と言うことになるだろう。
「糸魚川・静岡構造線」とほぼ一緒だと考えるなら、太平洋側も静岡辺りで切り替わるのだろうか。いや、あまりそう云う話は聞かないな。
しかし東北、特に蝦夷北海道ではアイヌの時からの鮭文化が続いている訳で、太平洋側にもやはりどこかで境界線が有るのだろう。
 

子供の頃、六日町はまばゆい程の大都会だった。
そもそも山際の部落で、他の集落同士の交通路にもなっていなかった藤原ッ子にとって、1キロ離れた上原でさえ、当時文化や情報の中心地だった。普段は毎日学校に行っているからあまりそれを意識しないで済んだだけだろう。
高校1年生の夏休み、便利屋でアルバイトをしたことが有った。
同級生だった連中や後輩、その中には憎からず思っていた女の子も頻繁に行き交い、藤原に引っ込んでいたら得られなかった「情報交換」の経験を味わったものだ。
そのバイトが終わった時、何となく喪失感みたいなものに陥った記憶が有る。

その喪失感は、2、3年後、未だ雪の残る弥生3月に思い切り感じることとなる。
巻の「専攻科」と云うところを卒業し家に入り、それまで寮生活でワイワイガヤガヤしていたのを、納屋の二階で一人、春の農作業前の縄ない機を踏む生活に入った時だった。
『尾瀬‐山小屋三代の記』を読んだ時、学校の先生を諦め尾瀬の山で暮らすことを自ら受け入れざるを得なかった、平野長英の気持ちが切なく胸に響いたものだ。
そのおいらが、新潟市在住を経て今、渋谷でシティボーイをしている。そして又今、田舎暮らしに目が向いたりする。いやはや。

 

山登りとビール

20年程前の一時期、丹沢とか奥多摩で日帰り登山に励んだことが有った。一番の動機は、勿論頂上で飲むおいしいビール。
大体リッター缶を2本担いで登るのだが、最初このビールで大失敗をした。

山にクーラーボックスなど担ぎ上げる訳には行かないので、凍らせた缶ビールを持っていったら山頂で丁度飲み頃になるんじゃないか、と思ったのだが、これがトンだ大間違い。
一旦凍らせたビールは、それも温まらないように新聞紙などで包んでおいたものは、丹沢程度の低山を登る時間では半分も解けていない。

最初に缶を開けた途端、その貴重な解けた部分は、シューっと泡になって全て飛び出してしまって、後には凍ったままのビールのかたまりが缶の中でゴトゴトしているだけ。
このかたまりは、いくら逆さにしようが振ろうが、タクッ、タクッっとしか出てこない。
何の為に、ここまで担ぎ上げたんだ、って悔しがっても既にアフターフェスティバル。

それに懲りて2回目からは、登山用品の店で買った銀色の保冷袋に、スーパーなどで貰う保冷剤をビールと一緒に入れて持っていった。
この保冷袋、今は100均でも買えるが、NASAの技術が使われているとかでなかなか優れもの。以降、汗をかいた山頂で冷たいビールを呑む、と言う至福のひと時を過ごすことが出来るようになった。

 

お水のお話

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雷電様の水

おいらの出身部落、藤原は新潟県名水百選にもなっている「雷電様の水」を持っていて、と云うより、清酒八海山の仕込み水と言った方が、今は早いか。
八海山の今が有るのは雷電様のお陰だと、藤原の者は控えめだから口では云わないが、みんなそう思っている。
その割に八海山酒造が水の年貢として払う金額の、余りの少なさに驚いたことが有った。桁が違うんじゃないかと。しかしそれでも有り難がっている一部の人も居たそうだが………、まあしかし飛び出してきた人間がアレコレ言うことではないか。

俺たちが小学校の頃、この豊富な雷電様の湧水を水源として、集落に水道を引いた。集落総出で道路を掘りパイプを伏せて各戸に配水した、当時としては部落挙げての大工事だった。子供の俺たちは所どころに顔を出す青色の粘土を貰って遊んだものだった。

集落だけの簡易水道だし、水源は豊富だし、当初、蛇口一個に付き、使用量に係わらず月10円と云うことで、どこの家も鷹揚に流しっ放しで使っていたものだ。流しっ放しだから何時でも冷たい水が飲める。今考えると贅沢の極み。
おいらは高校の時、寄宿舎生活をしていて、その夏休みの帰省で上原から暑い中歩いて来ては、消防小屋の流しっ放しの蛇口の水を久しぶりに飲んで、その冷たさと旨さに改めて唸った鮮烈な記憶が有る。比べて初めて分かる恩恵だった。

今は広域水道に組み込まれ、昔の味と冷たさは到底望むべくもないが、鎮守様にはパイプで引いた雷電様の水を、今でも流しっ放しにしており、県外を含めて水汲みの車が頻繁に訪れる。
汲み置きしても長い間腐らない、とか聞いたことが有るな。群馬だったか埼玉だったかの喫茶店が、コーヒーを淹れる為に定期的に汲みに来る、とかも聞いたことが有る。
話もここまでになると、控え目な藤原もんは少しばかり気恥ずかしくなる。

 

決めごと

水道が引かれる前は、飲み用掘り(のみよぼりと呼んでいた)を通って流れてくる山からの水を、台所(水屋=みんじゃ)の水船に引きこんで使っていた。みん じゃの土間に石をくり抜いたり、木で枠を作ったり、中にはコンクリートで作った家も有ったかもしれないが、そう云う船を伏せ、川の水を流していた訳だ。風呂の水はそこから桶で汲みこんだ。

水道(上水)がないのだから下水など当然有る筈も無く、川上の家で使った水はそのまま川下に流れる。そこで集落内で決まりを作り、風呂などの使い湯を流す時には夕方と決めていた。
各戸とも朝一番に水を汲み、それをやかんや鉄瓶で沸かし冷ましにし、1日の飲み水としていた。子供なんか時に川に直接顔を突っ込んでその水を飲んだものだ。

赤ん坊のおしめだけは集落内の一番下、小路新宅の前に洗い場を決め、雨で有ろうが雪であろうがそこで洗い流した。
陽気のいい時期には、若しかして女しょの格好の「井戸端会議」になっていたかも知れないな。いや、きっとそうだ。
赤ん坊を持つ若妻達が、姑や小姑、時に旦那の悪口を言い合いながら、そのはけ口としたのだろう。

とまあ、これは水道が引かれる前の昔のことで、こう云った決まりごとも当たり前で普通なことと、最近まで特に疑問を感じることは無かった。
しかしある時、これは普通でなど無くトンデモナイことだったんだな、と気が付いた。

 

魚沼の雪

魚沼地方が豪雪地帯であることは、そこに住んでいる人だけでなく大方の人が知っていることだろう。
もう20年も前のことだが、市(City)としての世界積雪記録No-1の栄誉?は十日町市が持っている、と云う文章を読んだことが有る。
当時六日町は未だ市になっていなかったが、今なら南魚沼市もランクインすることになるかも知れぬ。

私はずーっと、なぜ北の北海道や東北に比べてさえこの魚沼に、かくも大量の雪が降るのか実は不思議だった。寒い方が雪は多い筈だろう、ってのが単純に考えられることだったからだ。
地球温暖化が深刻に喧伝されていた時の、後で「平成18豪雪」と呼ばれる記録的な豪雪が有って、その時ひらめいて腑に落ちた。

日本列島は弓なりに湾曲していて、大陸からの距離、言いかえれば日本海の差し渡しが一番広いところが、つまりは北陸地方の新潟と云うことになる。
シベリアからの乾燥した高気圧が日本海を渡って来る時、その長い経路全域に渡って日本海の湿気をいやと云う程吸収し新潟に上陸する。それが列島の背骨にぶつかって舞い上がり、上空で冷やされて雪となり県境の魚沼に降り積もる。そして群馬にカラッ風として抜けて行く。
地球温暖化で海水温が上がれば上がる程、この豪雪傾向が強まるんじゃないかと、終わりの見えない雪下ろし作業の中で、ゾッとしたことを覚えている。

横殴りに吹雪くことも無い訳ではないが、魚沼の雪は基本的には上から「素直に」降ってくる。
その様は、チラチラとか雪やコンコンの時も有るが、地元の表現「モカモカ」が一番ふさわしい。粉雪が上から上から、まさにモカモカとひっきりなしに降ってきては一晩に1メートルもその上も積もる。
降雪量の累計記録、と云うのはあまり聞かないが、年間20メートル位にはなるだろう。降った雪は固く押しつぶされながら、時として3メートル近い積雪に及ぶこともある。「23年豪雪」では入広瀬で505センチを記録したと云う。この時幸いにも六日町近辺はそれ程でも無かった。

2階から出入りするとか、電線をまたいで歩いたとか、「この下に高田有り」の立て札が雪に刺さっていたとか、虚実織り交ぜて色々なエピソードが各地に語り継がれている。
私の経験だが、この積雪たけなわの時、たまたまそう云うことを全く知らない関東の人間が遊びに来て、その連中に「この雪が全部消えるまで、3年位掛かる」と云って、「ふーん」と納得させたことが有る。
地元の人間にしても夏場、今年の冬はここまで雪が積もったと、背丈よりもはるかに高い場所を指さされ、一瞬信じられない思いに捉われたことさえある。

 

墓場

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近年しきりに昔の、具体的には土改前の故郷の風景が懐かしく思い出される。
特に比較的記憶が鮮明なのが墓場。昔はアチコチ大小取り混ぜて墓場が点在していた。共同で無く1軒で持っている家もあった。
おっかなくて印象深かった、と言うことも有るだろうし、墓場には栗やクルミの木が植えてあって秋にその実を拾いに頻繁に行ったと云うことも有るのだろう。
兎も角おいらの記憶の中で墓場は、言わばランドマーク。

この点在する墓場を点として、点と点を結ぶ線を思い出そうとするのだが、或る程度ハッキリ思い出せるところも有れば、モヤが掛かったように曖昧なところも有る。
無くなって初めてその存在の大きさが感じられるのだが、若し当時今の気持ちとカメラが有ったなら、土改前の故郷の風景を撮りまくっていただろうにと、所詮叶わぬ想いで振り返る。

幾つかあった墓場の中でやはり存在感の有ったのは、藤原のしんばか(新墓じゃないよ、死ん墓)とみょっちの墓。
俺たちの子供の頃は既に火葬になっていた筈だがその昔は土葬だった訳で、土饅頭になって少しばかり盛り上がっているところに石が置いて有ったりした。
今ああ云う怖くて気持ちの悪い場所が有れば、逆にカメラマンの格好の撮影場所になっているかもな。

藤原のしも、みょっちに抜ける道の途中に「おりょう塚」があった。
この由来を俺はずっと次のように覚えていた。

昔、おりょうと言う母親と娘の二人連れが部落を通り一夜の宿を乞うたが、どの家からも断られ母子は止むなく鎮守様かどこかの御堂で野宿した。
その夜部落に火事が有り、母子が宿を断られた腹いせに放火したんじゃないかと、2人は部落の住民になぶり殺された。
その後火災の本当の原因が分かり、母子の無実が判明したが後の祭り。二人の亡骸を手厚く葬り、おりょう塚とした。

こう言った話は内容を変えて同じ展開のものが各地に有り、若しかしたら「おりょう塚」の名前から勝手に連想したおいらの空想物語だったのかも知れない。
3、4年前、親父に聞いてみたところ全く違った話だった。

藤原が飢饉かなんかで困っていた時、おりょうと言う比丘尼か何かが、自ら生きながら穴に入り、救済を願って念仏を唱え生き仏となった、と言うことだった。

ふーむ、おれの作り話の方が、話としては面白いのにな、と思ったことだ。

 

ところで………、
墓と言えば、下原の花水に向かう道の、こちらから行くと左側に「焼き場」が有った。
これも強烈な印象を与えた筈だが、どうもその佇まいと言うか、風景を思い出せない。小さなお堂のような、微かな記憶が有るが。
城内の反対側で通ることが少なかったからだが、地元の人たちにとっては夜の往来には鬼門だったんだろうな。
史料が有れば亘にでも描いて貰いたいものだが。

遊び友達

今と違って子供はたくさんいた

おいらは団塊の世代の一番始まり。だから集落内にも同級生がいっぱいいた。
当時40軒余りの藤原集落に、小学校の頃死んだ1人を含めて15人生まれた。
その一級上が5人、その上に至っては2人だったから終戦後のベビーブームの波が分かろうというもの。

ただ今と違って(今も同じかな)同じ集落でも道筋や方角が違うと疎遠で、同級生同士と云うより近所の子供同士が学年を超えて遊び友達だった。
おいらの家を中心に考えると、半径およそ100メートル内に図のような配置でその遊び仲間が居たことになる。
この中でいつも一緒に群れていたのが、学年の上から、カズヨシ、カツオ、ワタル、そしてユウ(おいら)の4人。で、みな学年が1年ずつ違っていた。つまりおいらが一番歳下。

藤原航空写真.gif
 

ミネオとも一緒のことは勿論有ったのだが、ミネオは親父さんが集落では珍しい勤め人で、その転勤に伴って小学校だか中学だったかの頃藤原を離れ、父親の定年に伴い二十歳前後で帰ってくるまで居なかったので、遊び仲間としての印象は薄い。
クニオ、ヒサオの兄弟とも遊んだが、やはりこれだけ離れていると遊び仲間のエリアが違うと言うか、上記4人程には密ではなかった。

 

モロ(室)

この4人の遊びの拠点が、モロと呼んでいた、養蚕の為の卵から孵化させるまでの施設。その孵化作業の時期は一時で、それ以外は空いていたので格好の遊び場になった訳だ。兎も角屋根と床と壁が有るので雨の日でもそこで良く遊んだ。夏休みの朝勉強の場所にもなった。
ミネオのオジサンが学校の英語の先生だったようで、一度教えて貰ったことが有る。水が「ウォーター」で、お湯が「ワイター」だとか、ハゲ頭を「ハイットマルスベール」と云うとか、その程度の「英語」だったが。
 

しこ名

相撲のしこ名が有って、カズヨシが「ささきづる」、この由来が今でも分からない。しかし雰囲気としてはなんとなくそんな感じ。
カツオが「笑い山」、上級生だし相撲でも余裕があり、笑いながら取っていたんだろう。
ワタルが「こんちくしょう山」、目上のカズヨシやカツオ相手に、それでもいしくなしのワタルが「こんちくしょう!こんちくしょう!」と言いながら向かって行った姿が彷彿される。
おいらは「ころび山」、一番年下だしワタルみたいに根性も無かったので、端っから勝つつもりも意地も無かったって訳だ。

こうして見ると、カズヨシのささきづるは別として、このしこ名、学年の違いとそれぞれの個性を良く反映したもんだと、今思い出しても苦笑いしてしまう。
カツオは農業高校卒業後農協に入り、地域の将来を背負う人材と嘱望されながら若くに死んでしまった。同級生のヨシミさんはその奥さん。

 

おばあちゃん

私は子供の時、おばあちゃん子だった。彼女にとって私は最初の孫、それも農家の跡取りとしての大事な「あに」だったからで、私自身その記憶が残っている程度には" 溺愛"だった。
一つエピソードが有る。ふるさとでは大晦日の晩に「歳取り魚」と言って、塩引き鮭を大ぶりに切って食べる風習が有り、頭の方から、一の切れ、二の切れ......となるのだが、この時おばあちゃんは大事なあにに、一の切れを食わせるか二の切れを食わせるかで、多いに悩んだらしい。
位は高いが頭に近くて身の少ない一の切れか、位は譲って身の多い二の切れか、そのどっちをあにに食わせようかと言う、中々悩ましい選択を迫られた訳だ。

戦前の小作農の嫁の境遇などと言うものは、推して知るべしで、彼女も嫁入りの日まで自分の夫(つまり私のおじいさんだが)の顔も知らなかったと言う。

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