季節はゴールデン・ウィーク直前。気候も暦も最高の時だ。八海山倶楽部にもその辺の雰囲気を感じさせる投稿が寄せられている。それにしてもこの時期に丁度連休が重なるのは、偶然にしてはよく出来過ぎている。
おいらの二十歳前後、未だ実家にいた頃、逆にゴールデン・ウィークだの世間でニュースになっていたボーナスだのが、羨ましいと言うより妬ましかった。うちは酪農と米作りで365日休みなしだし、この時期田圃での作業の真っ最中。当然百姓にボーナスなど無い。
田圃脇の道路を歩く、都会からの帰省と思われる人を横目で見ながら、この時期裏作の牧草刈りだったか堆肥撒きだったかをしながらふてくされていたものだった。
あまり晴れがましい思い出の無かった故郷が、今しきりに懐かしく思い出される。
5月1日、世間ではメーデーだが、この日藤原では鎮守講が催された。
他の部落でもやっていたかどうか、やっていても同じような内容だったかどうか、それは分からないが、藤原では集落の各家を毎年持ち回りで会場にして、大人は酒、子供は甘酒を飲んだ。この甘酒は数日前から担当の家数軒で仕込んでいたような記憶が有る。
つまみと言うかおかずも各戸から持ち寄り。色々並んだ筈だが記憶に残っているのはウドの胡麻和え。昔は今より雪解けが遅かった筈で5月1日にウドを用意するのは多分大変だったと思う。持ってくる人は或る種の自慢も有って皆に披露したんだろうな。
自慢と言えば、飲めば決まってひらを切る(自慢話をする)オヤジが約1名いて、これはもう有名だった。
家の自慢、子供の自慢と切りが無い。子供の自慢についてはライバルの同級生が居て、何時もその子との比較で自慢話が展開した。引きあいに出される相手の家は多いに迷惑だったことだろう。
周りは「又、始まった」と顰蹙ものだったが、若しかしたら一つのイベントとして楽しんでいたのかもしれない。
マッ、顰蹙ものではあったが、本人に自覚は無いし、今考えると座敷を盛り上げる罪の無い道化役を演じていてくれたと思えば思える。
子供にとっても楽しみな鎮守講だったが、当時今ほどには日常的に酒を飲むことは出来なかった筈で、飲み放題の無礼講は大人に取って子供以上に楽しみだっただろう。ひら切りオヤジだけでなく、多分座敷は酒が回るにつれ乱痴気に近い雰囲気になっていたんだろうな。俺の親父も結構スケベ心を発揮していたらしい。
今は既に何年も前に絶えてしまった、秀一の実家の下の雑堀脇の家のかかも、この日は誰よりも多いに酔っぱらってクダを巻いていた。
この辺のエピソードは大昔のことで、とっくに死んだ人もいるしここで書き込んでも時効として許して貰えるだろう。
この鎮守講が、今年は我が家の回り番だと言う前年、親父が区長で集会所を作った。
鎮守講はそれ以後集会所でやられるようになり、別にそれを目論んでの集会所建設では無かった筈だが、我が家はすんでのところで回り持ちの会場を免れた。秀一なんかは若しかしたら集会所での鎮守講しか記憶に無いかも知れないな。
今も多分同じ日に集会所で続いていると思うが、日常的に酒を飲むことが普通になっているし、娯楽もありふれているしで、特別な一日と言う程のことは無くなっているのかも知れない。
鎮守講か、懐かしいな。今もやってるのかな? おれは集会所でやる前の記憶は少しある。鎮守講は楽しみの一つだった。麹で作った砂糖を使わない甘酒はうまかった。それにコウコウも。
ひらきりとはオレも知らなかったが、その人はまたいむの下の家の人じゃねえかな、と思うが・・・。