千川上水、開渠部を歩く
千川上水
千川上水(せんかわじょうすい)は、徳川綱吉の命により、1696年(元禄9年)完成の江戸六上水の一つ。設計は河村瑞賢、開削に当たったのは多摩群仙川村の太兵衛、徳兵衛。
玉川上水を水源とし、境橋から江戸城の城北地域ー小石川御殿(綱吉の別荘)、湯島聖堂(幕府学問所)、上野寛永寺(徳川家菩提寺)、浅草浅草寺(幕府祈願所)、及び六義園(綱吉寵愛の家臣、柳澤吉保下屋敷)ーへの給水を目的として掘削された総延長約22kmの用水路(上水)である。(Wikipediaからの参照)
元々はこのように水道用水としての利用が主要な目的で開削されたのだが、1707年(宝永4年)、農業用水としての利用が許可になった以降、何本もの分水路が引かれ沿線の水田灌漑に利用される(六ヶ村分水、原窪支流、中新井分水、矢端川の長崎村分水等々)。
明治以降は水車による精米・精麦・製粉などが行われ、鹿島紡績所、王子製紙、大蔵省紙幣寮抄紙局など、工業用水としても使われていたと言う。
それら水の需要の終わった1971年(昭和46年)、玉川上水からの取水が止められ、水の流れも途絶えていたが、1989年(平成元年)、東京都の清流復活事業により高度処理再生水が日量2000㎥流され、上流部約5キロがせせらぎとして復活した。この再生水は開渠部の終わる伊勢橋(関町一丁目交差点)で全て汲み上げられ、善福寺池池尻に放水、善福寺川の渇水対策に役立てられる。
撮影Map
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かっての分水口
現在の千川上水は下掲写真で見る「境水衛所」で玉川上水から分水されているが、元々はその500m程上流、曙橋の上流側に分水口が有った。ただこの分水口も1871(明治4)年設置のもので何回か付け替えられてきているそうだ。
夏草が茂って全体像はハッキリしないが、玉川上水側から晩秋に見た分水口はこちら。
堰跡
分水口の直ぐ下流に、おそらく堰の跡だろう。
玉川上水を下って境水衛所まで歩く。
境水衛所ー千川上水分水口
玉川上水境橋の直ぐ下流、32ヶ所置かれたと言う水衛所の一つ「境水衛所」が、現在も歴史遺産として保全されている。同時にここは現在の千川上水の分水口でもある。
千川上水分水口
玉川上水は写真左手前側から右に流れている。右側の構造物は堰の役割だろう。
流れの左側に千川上水分水口がある。ここからの分水は日量2000㎥。
都道7号線を超えて
境橋交差点で都道7号線が2本に分岐、左側は千川上水に、右側は玉川上水に沿う。それに挟まれた三角形エリアが緑地になっている。
清流復活事業
1982年(昭和57年)に東京都の「マイタウン東京」構想により、野火止用水が1984年(昭和59年)、小平監視所から下流の玉川上水が1996年(昭和61年)に「清流復活」。千川上水は1989年(平成元年)に、開渠部約5キロメートルにわたって清流が復活した。
但し「清流」とは言っても、昭島市多摩川上流再生センターからの、家庭排水を高度二次処理した再生水。
復活した千川上水、START
再生水とはいえ、やはり水の流れはいいものだ。沿線の木立と相まって趣のある景観が続く。
紅葉の時期はさぞや、と思わせる。その時期に又歩いてみよう。
緑道
流れに沿って、ほぼ一貫して緑道が続く
蛍橋
水道道路と交差
関前五丁目交差点。チョットした緑地となっていて千川上水は一時暗渠となる。
多摩湖自転車道と井の頭通りの中継地点
ここは、東京でも最長の直線道路、多摩湖自転車道の終点(逆に言えば始点)であり、その延長線上の井の頭通りの始点で、言わばその中継地点。
多摩湖自転車道も井の頭通りも、水道道路。かっての淀橋浄水場の機能を引き継いだ東村山浄水場から、境浄水場を経て和田堀給水所まで、東京水道の大動脈とも言える送水管が伏せてある。
井の頭通りは現在有数の幹線道路の一つとなっているが、元々は地下に送水管を通す導水路として始まり、「水道道路」と呼ばれていた。交通量の増加に伴い路面を整備強化して現在の道路に至っている。従って井の頭通りも直線道路。
写真後ろ側(北西)から多摩湖自転車道、左側前方に井の頭通りが始まる。
交差点を超えて
この部分、千川上水は暗渠になっているが、両側の並木に囲まれ気分のいい緑道が再開する。
再び開渠に
散策中の近隣の女性が、「ここが一番景色がいい」と言っていた。
ここから左側の緑道を歩く。
鎮守橋
緑道が真っすぐ続く。
都道7号線、武蔵野大学前交差点
交差点を超えて
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