遊び友達
今と違って子供はたくさんいた
おいらは団塊の世代の一番始まり。だから集落内にも同級生がいっぱいいた。
当時40軒余りの藤原集落に、小学校の頃死んだ1人を含めて15人生まれた。
その一級上が5人、その上に至っては2人だったから終戦後のベビーブームの波が分かろうというもの。
ただ今と違って(今も同じかな)同じ集落でも道筋や方角が違うと疎遠で、同級生同士と云うより近所の子供同士が学年を超えて遊び友達だった。
おいらの家を中心に考えると、半径およそ100メートル内に図のような配置でその遊び仲間が居たことになる。
この中でいつも一緒に群れていたのが、学年の上から、カズヨシ、カツオ、ワタル、そしてユウ(おいら)の4人。で、みな学年が1年ずつ違っていた。つまりおいらが一番歳下。
ミネオとも一緒のことは勿論有ったのだが、ミネオは親父さんが集落では珍しい勤め人で、その転勤に伴って小学校だか中学だったかの頃藤原を離れ、父親の定年に伴い二十歳前後で帰ってくるまで居なかったので、遊び仲間としての印象は薄い。
クニオ、ヒサオの兄弟とも遊んだが、やはりこれだけ離れていると遊び仲間のエリアが違うと言うか、上記4人程には密ではなかった。
モロ(室)
この4人の遊びの拠点が、モロと呼んでいた、養蚕の為の卵から孵化させるまでの施設。その孵化作業の時期は一時で、それ以外は空いていたので格好の遊び場になった訳だ。兎も角屋根と床と壁が有るので雨の日でもそこで良く遊んだ。夏休みの朝勉強の場所にもなった。
ミネオのオジサンが学校の英語の先生だったようで、一度教えて貰ったことが有る。水が「ウォーター」で、お湯が「ワイター」だとか、ハゲ頭を「ハイットマルスベール」と云うとか、その程度の「英語」だったが。
しこ名
相撲のしこ名が有って、カズヨシが「ささきづる」、この由来が今でも分からない。しかし雰囲気としてはなんとなくそんな感じ。
カツオが「笑い山」、上級生だし相撲でも余裕があり、笑いながら取っていたんだろう。
ワタルが「こんちくしょう山」、目上のカズヨシやカツオ相手に、それでもいしくなしのワタルが「こんちくしょう!こんちくしょう!」と言いながら向かって行った姿が彷彿される。
おいらは「ころび山」、一番年下だしワタルみたいに根性も無かったので、端っから勝つつもりも意地も無かったって訳だ。
こうして見ると、カズヨシのささきづるは別として、このしこ名、学年の違いとそれぞれの個性を良く反映したもんだと、今思い出しても苦笑いしてしまう。
カツオは農業高校卒業後農協に入り、地域の将来を背負う人材と嘱望されながら若くに死んでしまった。同級生のヨシミさんはその奥さん。
外でのあそび
石けり
外での遊びで覚えているのは石けり。ルールが有って「5段目(多分こう云う云い方だったと思う)」までと、「10段目」までの2種類。
最終的に向こう側の、道に引いた2本線の内側(大体30センチ位か)に石を投げたり蹴り入れたりして、それを拾うことが出来れば一段上がる.。例えば1段目だとスタートラインから投げた石をケンケン1歩で踏み、その位置から先のエリアに投げ入れ、それをケンケン3歩で拾う。2段目は2歩で踏み、投げ入れた石を2歩で拾う。3段目は3歩と1歩。4段目は4歩で踏みその場で投げ入れ、拾う。5段目はスタートラインから直接投げ入れなければならない。
入れるエリアの近くまで石を蹴ってもいい場合と、最初に投げた位置で踏み、そこからエリアに石を入れなければならない場合の二通りのルールが有った。但しどちらにしてもこれは5段目までの話。
6段目から10段目までは蹴ったり投げたりでなく、片足の甲に石を上げたままケンケンしたり、上着の裾にまくりこんで帯にねじ込み、腹を前に出してエリアに落としたり、顎に挟んだり頭の上に上げてケンケンしたり、等々有ったが詳しいことは忘れてしまった。
石けりと云う位だから本来は手ごろな平べったい石を拾って使うのだが、鉛が重くて意図したところに丁度良く落ちやすいとかで、いつの頃からか鉛を使うのが流行った。
店にも鉛の小さな円盤みたいなのが売っていたような記憶が有るが、当時絵具のチューブが鉛で出来ていて、絵具を使い終わった後その入れ物を十能か何かに入れ、囲炉裏の火であぶって溶かし使ったものだ。絵具を使うのは中学になってからだから(小学校の頃はクレヨンとかクレパス)、中学の頃の出来事だろう。
十・二十(とお・にじゅう)
二人ひと組になってやる遊びで最低三組は無いと面白くないから、6人以上集まった時にやったと思う。一人はジャンケンをしてもう一人が走る。
グウで勝てば5歩、チョキなら10歩、パアなら20歩、相棒を走らせることが出来る。そうして所定の間を5往復程走る。手に石ころを5個持って一往復するたびにそれを捨て、先に無くなった組が勝ち。
おいらは最年少だし背丈も低く歩幅もせまい訳で、専らジャンケン担当だった。でも結構パアで勝って相棒を休む暇なしに走らせた覚えが有る。
釘打ち
家から5寸釘などを持ちだして地面に打ち付ける。
ただこれは先手必勝のところが有って、最初に囲まれてしまうともう後の者は戦意を消失してしまう。あまり長続きする遊びじゃなかった。
勿論、かくれんぼ(かくれっこ)だの何だのもやったが、これは今でもルールとやることは同じだろう。
場取り
地面に四角型を書き、そのコーナーを自分の陣地にする。普通対角で二人でやる遊びだったように思う。
じゃんけんで勝った時、グーなら握りこぶし、チョキなら親指を支点にして人差指での円、パーなら親指を支点にしてて手全体で描く円で、陣地を増やしてゆく。で、四角型の中がそれぞれの陣地で埋め尽くされた後、今度は自分の陣地の先端から相手の陣地めがけて石をはじく。その石と相手陣地コーナーを、広げた指が届いた場合、その指で又円を描き、今度は相手陣地を浸食しながら自陣を広げて行く。だから最初のじゃんけんで作る陣地が広い程、つまり相手陣地に近い訳で石はじきの時にも有利になる。
最終的にどちらかの陣地で埋め尽くされた時、勝負が付く。
十六
多分「じゅうろく」と言っていたと思う。
地面に図のような線を書き、石を並べる。
図で青色が子、赤色が親。一回に一つづつ交代で石を一ますずつ動かす。
子が親を囲んで親が動けなくなれば子の勝ち。親は子の石の間に入れば、その両側の石を取ることが出来、最終的に親を囲めない数(三つかな)まで減らすことが出来れば親の勝ち。
親は最初否応なく4つの石を取ることが出来る。しかし定石と言うものが有るとすれば多分、必ず子が勝つようだ。
屋内での遊び
最初に書いたようにモロ「室」の中でも良く遊んだ。
月夜か桜か鉄砲か
「後ろの正面だ―れ」みたいな、要するに鬼がつかめっこする遊びなんだが、今考えても中々風雅な遊びだ。
かがんで目をつむっている鬼に、周りの子が「月夜か桜か鉄砲か、梅に鶯、行燈か」と声を合わせて囃す。それに対して鬼は「月夜!」とか「鉄砲!」とか云う訳だが、これは決まりが有って、「鉄砲」の場合、子は何歩歩きまわってもいい。「バン!バン!」と声を出しながら歩きまわる。「行燈」は逆にその位置から1歩も動いてはならぬ。「月夜」は、1歩だけだったか音を出さねば何歩でも歩いて良かったか、どちらか。「桜」は5歩、「梅」は3歩だったと思う。「鶯」は「ホーホケキョ」と言いながら、これも何歩歩いて良かったか、忘れてしまった。
鬼からすれば当然行灯が一番捕まえやすい訳だが、毎度毎度「行燈!」では「またあー」とひんしゅくを買う。時に大サービスをして「鉄砲!!」とか云う訳だ。
多分モロの中で一番やった遊びだと思うが、これなんか後に残したい文化だよなあ。
だるまさん転んだ
今でも話の通る良く知られた遊びだし、これもよくやった。
ルールも今と変わらないので特に説明も必要ないだろう。
冬の遊び
鳥追い、雪の洞
冬は雪の洞(ゆきのどう)作りが一大イベントだった。2月の14日、鳥追いと云う風習が有って、夜稲ワラを燃やして鳥追いの歌を歌う。歌は忘れてしまった。その鳥追いの舞台が雪の洞と云う訳だ。
言うなれば、かまくらと鳥追いの行事を一緒にしたようなもの。
2月になると作り始める。これも例の4人組がメンバー。
場所はモロの脇、昔は今より雪が多かったしモロの屋根から下ろした雪が下に溜まっていたからそれを積み上げる。規模は写真で見るかまくらなどとは比較にならない。下の雪を掘って上に上げる訳だから、相対的に結構な高さまで積み上げる。
勿論洞の中は穴を掘って14日の夜はかまくらと同じようなことをするが、同時に上に皆で上がって火を焚く訳だからそれに耐えなければならない。
崩れる心配と炭を起こしての一酸化炭素中毒を恐れてだろう、学校では禁止令が出たりしたがそんなことは聞いていられない。今なら多分ダメだろうな。
何しろ入り口は掘り下げた雪面の下の方に小さく、中は廊下を作ったり部屋を幾つかに分けたり。
一度こう云うことが有った。
表の通りから付けた立派な道は実は偽の道で、掘り下げた所に飛びおりるように作ってあるが洞の入り口には続いていない。一旦飛び降りてしまうと、中には入れないし上がるに上がれない。クニオが遊びに来て暗い中その罠にはまって苦労しているのを、裏につけた道から中に入っている俺たちは、覗き穴から見ながら大笑いしたものだった。
コンバっかち
コンバと云うのは固く丸めた雪の玉。
これをぶつけ合って相手のコンバを割った方が勝ち。
コンバを作るには先ず材料の選択が大事。粉雪ではパサパサして丸めづらい。ザラメ雪ではまるで駄目。グーラ雪と云って新雪が雨にも日照にも当たらないうちに上からの積雪で押しつぶされて、目の詰んだ正にグーラ雪の語感そのものの弾力性のある雪を使う。
小さな玉から捏ねて行き順次外側に階層を重ねて行く。最初は勿論手で玉にするのだが固くする時には靴の底で転がして捏ねる。
その際、杉の葉を下に敷いてその上で捏ねる。杉の葉が組織が壊れて云って次第に粘り気を持つようになるとコンバも表面が緑色に光沢を持つ。
そうやって苦労して作ったコンバも、ぶつけ合うと2、3回でパア。
落とし穴
道によく落とし穴を作った。特に雪の洞に続く道など。
雪に穴を掘って、その際表面の踏み固めた部分は丸のまま取っておいて、掘った穴の上にそっと据える。後は穴の周りがそれと分からないよう、靴跡を付けたりして。
学校での遊び
陣取り
小学校では、どうも部落単位で体育館で遊んだ記憶がある。他の部落は知らないが。
中学校に入って多分クラス単位だったような。クラスごとにバスケットボールなんかが有ったと思う。
小学校では陣取りをよくやった。
陣取りは2種類の遊び方が有って、一つは体育館の壁の柱等をそれぞれ敵味方の陣地として、守る役回りの子供と敵陣を攻める役回りの子供に分かれて(形勢に応じて随時攻守を変えるが)お互いに、相手陣地を攻め落とすべく戦う。
守る役の子供は自分の陣地にしがみついて剥がされないようにする。攻める側はそれを剥がして自分でしがみつけば勝ち。
もう一つは体育館のドッジボールのコートを使ってやる。
こんな感じ。
やはり何人かが陣地を守り、他の者は相手陣地を攻撃する。
戦いはコート内。外側の「通路」で戦うことは無かった筈だ。
相撲みたいに転ばされれば戦力外になったと思う。
大廻りで攻めずにセンターラインを越えて相手陣地に入ってもいい。その代わりその場合は片足ケンケンで入らなければならない。
相手の隙を見て、センター越しに不意に押しこかしたりする。
どっちにしても最終的に相手陣地を攻め落とせば勝ち。
それぞれ陣取りをするグループ。馬跳びをしているグループ。鬼ごっこ、相撲等など、今にして思えばあの狭い体育館に、大勢の子供が入り乱れてごった煮のごとく走り回っていた訳だ。
「陣取り」はかすかに記憶があるが、どのようにやったかは覚えていなかった。なんとなく思い出した。
一番思い出すのは「馬跳び」を冬になると一生懸命やったことだ。つぶれるともう一回飛んだように思う。飛んで乗っかる所は、飛んだ人の体重がもろにかかるので、歯を食いしばって我慢した。背の小さい人は大変だった。乗った人は腰をわざと振ってつぶすこともあった。一番奥の人から交代しながら飛び乗った。すぐに身体が暖かくなってきた。
冬の寒い時期にやるにはもってこい遊びだった。
もうひとつは小学校の体育館でドッジボールをよくやった。顔にボールが当たってよく鼻血を出したっけ。