近年しきりに昔の、具体的には土改前の故郷の風景が懐かしく思い出される。
特に比較的記憶が鮮明なのが墓場。昔はアチコチ大小取り混ぜて墓場が点在していた。共同で無く1軒で持っている家もあった。
おっかなくて印象深かった、と言うことも有るだろうし、墓場には栗やクルミの木が植えてあって秋にその実を拾いに頻繁に行ったと云うことも有るのだろう。
兎も角おいらの記憶の中で墓場は、言わばランドマーク。
この点在する墓場を点として、点と点を結ぶ線を思い出そうとするのだが、或る程度ハッキリ思い出せるところも有れば、モヤが掛かったように曖昧なところも有る。
無くなって初めてその存在の大きさが感じられるのだが、若し当時今の気持ちとカメラが有ったなら、土改前の故郷の風景を撮りまくっていただろうにと、所詮叶わぬ想いで振り返る。
幾つかあった墓場の中でやはり存在感の有ったのは、藤原のしんばか(新墓じゃないよ、死ん墓)とみょっちの墓。
俺たちの子供の頃は既に火葬になっていた筈だがその昔は土葬だった訳で、土饅頭になって少しばかり盛り上がっているところに石が置いて有ったりした。
今ああ云う怖くて気持ちの悪い場所が有れば、逆にカメラマンの格好の撮影場所になっているかもな。
藤原のしも、みょっちに抜ける道の途中に「おりょう塚」があった。
この由来を俺はずっと次のように覚えていた。
昔、おりょうと言う母親と娘の二人連れが部落を通り一夜の宿を乞うたが、どの家からも断られ母子は止むなく鎮守様かどこかの御堂で野宿した。
その夜部落に火事が有り、母子が宿を断られた腹いせに放火したんじゃないかと、2人は部落の住民になぶり殺された。
その後火災の本当の原因が分かり、母子の無実が判明したが後の祭り。二人の亡骸を手厚く葬り、おりょう塚とした。
こう言った話は内容を変えて同じ展開のものが各地に有り、若しかしたら「おりょう塚」の名前から勝手に連想したおいらの空想物語だったのかも知れない。
3、4年前、親父に聞いてみたところ全く違った話だった。
藤原が飢饉かなんかで困っていた時、おりょうと言う比丘尼か何かが、自ら生きながら穴に入り、救済を願って念仏を唱え生き仏となった、と言うことだった。
ふーむ、おれの作り話の方が、話としては面白いのにな、と思ったことだ。
ところで………、
墓と言えば、下原の花水に向かう道の、こちらから行くと左側に「焼き場」が有った。
これも強烈な印象を与えた筈だが、どうもその佇まいと言うか、風景を思い出せない。小さなお堂のような、微かな記憶が有るが。
城内の反対側で通ることが少なかったからだが、地元の人たちにとっては夜の往来には鬼門だったんだろうな。
史料が有れば亘にでも描いて貰いたいものだが。
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