故郷を離れて既に40年 東京・武蔵野の水辺を中心とした身近な風景と駄文を発信します

方言シリーズ第二弾(イとエ)

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方言と訛り

魚沼の地に生まれた私は、自分も含めてこの地方は概ね「方言は有るが、訛りは無い」と思ってきた。訛りは時として一生モノとして残るが方言は比較的簡単に直せる。
ここでも書いたように、魚沼の地を離れて都会に出た時、「おまえ」の使い方の行き違いで相手に深刻な誤解を与えたと言う話は聞いたことが有るが、他に言葉で苦労したと言う話はあまり聞かない。

 

あんた、東北辺りの人じゃない?

私も既に方言や訛りなどとは無縁の、きれいな標準語を話している筈だ、と自分では思っている(言葉遣いの適切さ、話のうまい・下手は別として)。ところが時々「あんた、東北か新潟辺りの人じゃない?」と言われることが有って、えッ、俺の喋り方のどこにそんな、越後を引きずったところが有るんだ、と不意打ちを食らった思いをすることが、今でも有る。
無いと思っていても、三つ子の魂は死ぬまで続くのかも知れないな。

 

イとエ

もう一つ有る。
いちごの、アッ、いや違ったえちごの人間は、言葉遣いに「い」と「え」の混同が有る、とはよく言われる話。越後だけでなく東北にまたがる共通の現象らしい。
これも一つの訛りと言えるかも知れないが、既に私はこれも完全に克服して、キチンとイ、エを使い分けていると自分では信じていた。
鉛筆はエンピツで、間違ってもインピツなどと発音してはいなかった筈だ。

ところが、去年まで一緒に働いていたパートのオバチャンに、何度となく「インピツじゃないの、エンピツ!!、訛ってんだからぁ」などと、お互い気さくさゆえの悪態を突かれることが続いた。
こっちはちゃんと「エンピツ」と言っている積りなんだが、相手には「インピツ」と聞こえるらしい。

 

大考察

ここで私は深い思索に陥り、イとエに付いての大考察を以下に展開することとなった。ソシュールやチョムスキーにも匹敵する言語学上の業績として後世に残るだろう(…なこと有る訳ねぇや)。

訛りとは言っても、イなりエなり、どちらかが言えないと言うことではない。魚沼にもその両方の音が有るし、それを区別して発音することも容易に出来る。ただ実際に使う時にはその区別が曖昧になって混同してしまう、と言うことらしい。

戯作者にして小説家、そして稀代の国語学者(だと私は思っている)である、故井上ひさしが、小説「吉里吉里人(キリキリ人)」の中で吉里吉里語(東北の一地方を想定)の説明として次のように言っている。これは魚沼語を理解する上でも参考になるが、一部違うところも有るように思うので、その部分を引用しつつ共通点と相違点を探ってみよう。

 

(引用、ここから)

イとエの混同
これはイとエとを、イでもなくエでもない、その中間音として発音することですが(中略)、イとエの混同に付いて、もっと厳密に言いますと、吉里吉里語の音韻体系にはイと言う拍(音節とも言います)が抜けている訳ですね。もっとも、単独の母音拍としてのイが抜けているだけで、音素としてのイが無い訳では有りませんから、そこのところを誤解なさらないように。とにかく(吉里吉里語、或いは魚沼語―※雄・注)初心者の方はイと言いたくてもそれを直ぐエと口に出す訓練が、エのエツバンに必要でしょう。
(以上、引用終わり)

要するに吉里吉里語に代表される東北には、イと言う母音は欠落してエとの区別が無くなるが、音素としては存在するから子音と結合した場合にはイ段もエ段も区別されると言うことらしい。
それに対し魚沼語には母音としてのイも無い訳でもない。イとエを使い分けて発音しようと思えば出来る(出来た筈だ。子供のころを思い出しても)。この点で吉里吉里語(東北弁)と違う。
ただ実際に使われる時には吉里吉里語と同じく、イもエも両方ひっくるめてエと発音してしまう、と言うこのようだ。その場合「イでもなくエでもない、その中間音として発音」するという吉里吉里語との共通性から、エと言ってもイに近いエと言うことになる。
元々魚沼にはイの音も有る訳だから、「五日町駅まで行って来ます」を「エツカマチエキまでエって来ます」とも、「イツカマチイキまでイって来ます」とも、言おうと思えば言えるし、聞く方としてもそれを区別せずどちらもそんなに違和感なく聞こえて通用するのだろう。
エチゴ生まれとも言えるしイチゴ生まれとも言えて、多分そのまま越後生まれと通用する。

 

省エネ

では、東北ではイを欠落させてエだけが残り、越後でもやろうと思えば出来る、イとエの使い分けをせずエに偏った、その理由は何故か?
これはひとえに省エネ、節約志向のせいだろう。越後・東北の人間はこと言葉に関してはノメシコキなのだ。
東北弁ではイとエばかりか、「し」と「す」、「ち」と「つ」及びその濁音「じ」・「ず」、「ぢ」・「づ」の区別さえ無くなる。これが有名なズーズー弁と言うことになる。「寿司(すし)」と「煤(すす)」、どちらも同じく「シィシィ(北奥羽)」或いは「スゥスゥ(南奥羽)」と発音される。※この「シィシィ」に見られるように、子音と結合したイは残っている。

さてイとエだが、イを発音するときには歯を閉じて(くいしばって)、唇だけ開き、その端に力を込めて少し横に引かなければならない。イの発音には結構気合が必要なのだ。赤ん坊が言葉を覚える過程で、最初に発語するのは、喃語(なんご)を別にすれば「nま」だが、「い段」の発音は多分相当後のことだと思う。
それに対し、エは、口に何の力も込めないで、呆けたようにポカンと口を開けた時に自然に出る音。アイウエオの中でも一番苦労せずに出せる音だ。実際に発音して見ると分かる。
どちらでも同じ場合、楽な方に流れるのは自然の道理だろう。かくして越後・東北ではエコであるエがイを駆逐し、天下を取ったと言う訳だ。

 

エの、グラデーション

イとエの使い分けが無い時、次にどう言うことが起こるか?
ハッキリしたイとエの間の、様々なレベルの中間音が(多分)混在することになるだろう。

 

ここで実験。
歯を閉じて、普通にイを発音する状態で「イー」と声を出しながら、徐々に歯を開いてゆくと、幾ら「イー」と言い続けようとしても否応なしに「イ → エ → エァ」と連続的に変化する筈だ。歯を開いたままイを言えないことも無いのだが、口の中に無理な力が掛かるし、純粋?なイ(i)は歯を開いた状態では発音できない。

つまりイ(i)の守備範囲は極めて狭く固定されているとして、エ(e)の範囲はイ(i)からエァ(発音記号で言えばaとeをくっつけたあの音)に至る連続的なグラデーションをなす、非常に幅広い領域にまたがる。
若しかして私のエとあなたのエは、イからの距離がチョッと違うのかもしれない。でもその区別を元々意識しないわれら魚沼人には皆同じエ(或いはイ)に聞こえてしまっているのだろう。

それに対しイとエを生まれながらに区別し、それを意識している東京人は、越後人が使う幅広いエを、イとエのどちらかに峻別したがる。

 

人は言葉を媒介にしてしか思考出来ない

話は少し違うのだが、アメリカ人には「肩こり」が無いのだそうだ。
NHKの昔の番組「英語でシャベラナイト」の中でアメリカ人レギュラーのパックンが言ったことなのだが、英語には「肩こり」と言う言葉が無く、従ってその言葉を媒介にした肩こりと言う現象そのものを、アメリカ人は意識し難い、と言うことらしい。
侘び・さびと言う言葉が無い時、その心理状態を西欧人に理解させるのが難しいとおなじこと。つまり人は手持ちの言葉を仲立ちとして外界を意識するしかない。

同じようにイとエをハッキリ区別して使っている人は、越後人の幅広いエを、やはり自分の枠に無理やり仕分けして、イかエかのどちらかに聞いてしまうのだろう。
私のエは、幅広いグラデーションの中の、イに近いエであって、前述のパートのオバチャンにはそれをイに区分けして聞いてしまったのだと思われる。

 

オバチャンへの実験

実はこのオバチャンに一つの実験をしてみた。
先ず最初に「インピツ」と発音した後、私が普段使っている「エンピツ」を発音して比べて聞いて貰うと、私の「エンピツ」もちゃんと「鉛筆」に聞こえるのだ。
次に私の「エンピツ」と、今度は「エァンピツ」を比べて聞いて貰うと、「エンピツ」は「インピツ」に聞こえてしまうらしい。

ここで又私は深い思索に陥って、結局このオバチャンに代表される東京人は、イとエ、そのどちらかしか音を知らないのに比べて、わが魚沼・越後人は、イからエァに至る幅広い音を我がものとした、豊かな言語生活を享受しているとの結論を(無理やり)得たのであった。

「エァ」なんか使ってないぞ、そんなのは中学に入って英語を勉強してからの話だ、とおっしゃる向きも有るかも知れない。実はわが魚沼では使っている。
「スッケァンコタアネエヤ」等と言う時のケァは、あのaとeがくっ付いた音以外の何物でもない。

深い思索の末の大考察も、くどいだけの怪しげな話で終わってしまったが、次回方言シリーズ第三弾は、気を取り直して「ツツと、ムセェ」について。

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