野火止用水
現在、「野火止」と呼称されているが、元々は野火留村(現在の新座市野火止)の名を取り、野火留用水と呼ばれていたとのこと。
野火止にしろ野火留にしろ、その地名そのものが、かってのこの地の様相を偲ばせる。飲み水にも事欠く関東ローム層の乾燥地で、水田など出来る訳もなく、主に焼畑で僅かばかりの作付をしていたのだろう。その延焼防止のための堤や見張りの塚等が有って、地名はその名残だと思われる。
野火止用水はこの、半ば不毛の野火留の地を潤すに大きな役割を果たした。
玉川上水からの分水
野火止用水の開削は、玉川上水工事の総奉行だった川越藩主の松平信綱による。
松平信綱はこの玉川上水完成の功績に対し、禄の加増を辞退する代わりに、玉川上水の水、3割を自領に分水する許可を得て、1655年、野火止用水を完成させている。
ちなみに野火止用水は、25キロを40日で完成させたそうな。
最初主に飲料水などの生活用水として使用されたが、その後灌漑用水にも活用、関東ローム層の不毛の原野を豊かな台地に変えて行った。
伊豆殿掘、知恵伊豆
この40日と言う短期間での完成に対し、玉川上水計画そのものが、野火止用水を最初から織り込んでの松平信綱の腹案だった、との説もあるようだ。多いに有りそうな話だが、真偽の程は私には分からない。
いずれにしても野火止用水の開削によって、この地の生活が大いに潤ったことは間違いなく、信綱に感謝の意を込めて、信綱の官途名乗りである「伊豆守」にちなんで伊豆殿掘と呼ばれるようになった。
また、上記の経過も含んでだろう、信綱に対し知恵伊豆と呼ぶこともある。
現在は流れていない?
3世紀もの間、武蔵野の原野を潤してきた野火止用水も、近年に入り近郊の都市化に伴う水質の悪化で、1973年(昭和48年)に玉川上水からの分水がストップ、野火止用水も荒れ放題になったと言う。
その後、関係住民、自治体等の努力により、「清流復活事業」の一環として、1984年(昭和59年)8月21日、昭島市内の多摩川上流再生センターから の、家庭排水を高度二次処理した再生水ながら、西武拝島線の東大和市駅の先、約300メートル程の地点から、清流の流れが復活している。
試みに玉川上水の「清流復活は」その2年後、1986年8月27日。
※ 例えば「北沢川緑道」の清流復活が、1995年(平成7年)であるから、野火止用水、玉川上水の同事業は、今各地区で見られる清流復活、せせらぎ復活の先がけになったと言えよう。
今回、玉川上水散策の途中で、やや横道では有るが「野火止用水」に足を延ばしてみた。
いずれこの野火止用水も、流域に渡って歩き通してみたい。
玉川上水、野火止用水との分岐
野火止用水は現在の小平監視所の地点で、玉川上水から分岐していたらしい。
ただ上記したように1973年に分水は完全にストップしたと有るから、現在は暗渠としても水は流れていないのだろう。
その意味では、北沢川、烏山川、目黒川のそれぞれの緑道とは異なると言えるか。
小平小橋を上がったこの地から散策開始(1)
玉川上水はこの右側奥に続き、この写真左側樹木の間は、野火止用水緑道となっている。
野火止用水緑道(2)
前方右側、雑木林公園風(3)
周囲に松やクヌギなどの雑木が豊富で、散歩道には事欠かないと言う感じ。
東京都薬用植物園(4)
道路右側に薬用植物園が見えて来る。正門は反対側の、東大和市駅の通り。
東京都薬用植物園については、こちら
東大和市駅(5)
ここで一旦緑道は途絶える
引き続き緑道(6)
東大和市駅脇の5号線を渡り、再び緑道が見えて来る。
せせらぎ(7)
約300メートル程歩くと、清流復活事業によるせせらぎが始まる。
写真中央、右側から高度処理水が流れ出ている。
見た目の水は正に「清流」
♪ 水路は続くよ、どこまでも(8)
この先水の流れは、埼玉県志木市の新河岸川迄の、全長約24Km続くらしいのだが、今回は玉川上水散策がメーンだったので、今日はここまで。
近いうちに是非、こちらも歩き通してみたいものだ。
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