故郷「藤原」のルーツを求めて

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意外でしょうが! 八方尾根からのパノラマ写真からご覧頂きましょう。

 

【八方尾根から 「八海山」 が見える】

みなさん! 長野県白馬連峰・唐松岳山麓八方尾根から、新潟県南魚沼市の「越後三山」が見えるって、
いや、「八海山」が見えるって知ってましたか?

見えるんです、1年に何日かは肉眼でも見えるんですよ! 特に残雪のある季節の、よく晴れた日は
とっても見付け易いんですよ!

  ♦ 八方尾根第一ケルン付近より   (撮影 : 2007.05.21)
      --標準撮影--
2007.05.21 八方尾根・第1ケルン周辺からの越後三山 1.jpg

     --約12倍ズーム-- 【越後三山 : 越後駒ヶ岳・八海山・中の岳】の総称2007.05.21 八方尾根・第1ケルン周辺からの越後三山 2.jpg

え、 「越後三山じゃなくて八海山ではないか?」って? そう、「越後三山」全体で「八海山」の様に、
      形が似てるんですよねー。

でも、次の写真をご覧下さい。 同じ日の午後、同じ方向、十日町からの写真です。

  ♦ 十日町市北鐙坂(あぶみざか)付近からの「越後三山」
2007.05.21  十日町からの越後三山.jpg

こんな風に越後三山の中でも前に見える事から、八海山の事を「前山」もしくは「前岳」と、
呼んだ事もあるとの事。

「百名山」2峰を従者として引き連れた「八海山」の堂々たる姿は中世ならずとも信仰の対象にしたくなる、
 もしも、深田久弥がこの角度で越後三山を見て居たら、百名山も入れ替わって居た事だろう。

と、前振りが長かったが、手前に見える魚沼丘陵の向こう側、八海山の麓に広がる旧・「城内村」、
この “のどかな村” が今回のテーマの舞台です。

 

【現在の旧・城内村・全景】

  ♦ 魚沼スカイラインよりの俯瞰写真
    (魚沼スカイライン:魚沼丘陵の尾根道、魚沼盆地や山岳展望のドライブウエイ)2007.05.21  N-002 魚沼SKL (B)A.jpg

※ 旧城内村とは、写真の中の、三国川(サクリゴウ)と魚野川に囲まれた八海山の麓の地域。
   現在では南魚沼市の一画となっています。
   八海山スキー場のロープウエイは通年運転で、10月中旬~11月上旬は紅葉が綺麗ですよ!
    (勿論、登山にも便利)

 

【キーワードは 「藤原(ふじわら)」】

ここ南魚沼市には昔からの大きな城下町でも無いこんな小さな地域の中に、何故か古来からの由緒を持つ
寺社が寄せ集まっている。
その中でも六日町を中心とした私達の生まれ故郷の寺社の縁起を信じると、どうやら「大化の改新」の中
富鎌足=藤原鎌足のルーツ
に繋がるハナシらしい。

ま、神社・仏閣の縁起などは、大部分が捏造されたりその時々の権力者や政治のはざ間で改ざんされて、
真実は曲げられている前提で考えなければならない。 が、逆の見方をすれば、真実も含まれている可能
性もある訳だ。

今回はプライベートに色々調べた程度であるが、私達の生まれ故郷にある「藤原」と言う部落名のルーツ
について探って見たい。

その前に、ここで言う【部落】は【部落差別】とは、一切無関係です。誤解のない様にお願い致します!
従って、【〇〇部落】とは住居表示と同様に、居住エリアの区別に使っている以外の意味は有りません。

話を元に戻します。

まず、現在の私達の故郷がどんな所かイメージを描いて頂きましましょう。

  ♦ 南魚沼市観光協会発行のパンフレットより
周辺マップ.JPG

上図中、城内村とされるエリアは、左回りに、八海山・六万騎山・魚野川・三国川・高倉山・阿寺山
に囲まれた地域です。
そして「藤原部落」は、図中の高倉山の上に〇で囲んだ “法音寺” と表記されている地域にあります。

昔からそのルーツについては 「平家の落人説」、「後三年の役の落人説」、或いは 「藤原摂関家の
関係者ルーツ説」 等々、色々な説がある。

ここでひとつ一つを検証して行くつもりは有りませんし、これが正しいと言える物証も乏しい。
そこで、細かい検証作業は専門家に任せるとし、今回はみなさんにもそんなルーツ説に触れて頂いて
この地を旅する時の参考にして頂ければ幸いです。


また、歴史を紐解いて行く過程で、物証の無い所を推理して自分なりに歴史を紡いで行く作業も結構
楽しいものです!

 

【「文献、記録」・「寺社の縁起」等】による歴史

1.「城内郷土誌」による年表・・・・昭和34年度編纂版による。

  ♦ 年表・関連部分抜粋 ・・・ コピーの為、見にくい点はご容赦願います
城内郷土誌・年代表-01.JPG

この郷土誌編纂では、明らかに違うと確認されたものは除いているが、口伝なども細かく拾い上げており、
資料としはて心強い。

口伝もまた、真実のヒントを含む場合が多いと私は思っている。

 

さて、この年表を見ると、「西暦272年、清原政次と言う人(神職と思う)が氏子8苗を引き連れて大和
・豊明の里より八海明神を奉じてこの地に移住して来た」と言う項目で、城内史は始まっている。

この時の8苗とは、岡村・貝瀬・上村・北村・遁所・行方・山崎・山本の8姓だそうだ。 しかし、3世紀
後半、卑弥呼が亡くなったと言われる西暦249年からわずかに23年目、大和政権も生まれたか否かと思
われる時代、大和の国から8苗の氏子を連れて移住をして来る神職が居るとは考えられない。

また、清原姓も8苗姓も、西暦272年時代の氏名(うじな)としては近代的過ぎるのも違和感がある。

従って、この逸話は明らかに後世の人の捏造だ。

 

9世紀中頃(856年)、「大地震により、峯八海社倒壊」。 10世紀(913年)、「暮坪に峯八海遥拝の
場所として里宮を建立」 とあるから、古く見積もってもこの頃作られた逸話であろうと考えられる。

ただし、八海明神信仰(木曽・御岳の八海山など各地に八海山と命名された修現場が作られた)は、山伏達の
活動とリンクして、4~5世紀位から活発になっている。
大地震で倒壊した【峯八海社】は彼等山伏達が建立したものと推測される。(場所は暮坪か?)

実は、暮坪と言う現在の地名の場所をその地であるとするには疑問を拭えないのだが!
何故なら、八海山を遥拝するはずの【峯八海社】を、最初からわざわざ手前の山で八海山が見えなくなる位置
に「社」を建てるだろうか? と言う疑問が湧く。

「八海山」 遥拝の地としては、むしろ、後述する 「藤原の裏山(飯盛山)柳平=行基菩薩が草庵を結んだと
言われる場所」では無いかと考えて居る。 そう、【法音寺】 発祥の地。

それならば、なぜ今の暮坪の地に移ったのか? これについては今回のテーマとは離れてしまう為、また別の
機会に考えて見たいと思う。

 

余談ではあるが、西暦856年の大地震と言うのが気になる。
もしかしたら2004年10月16日の新潟県中越地震と同じ震源では無いかと思う。

 

次に、西暦731年~743年の記述、これが今回の最大の謎。
もしも、記述が真実であれば、こんなヘンピな城内村、或いは南魚沼市は、古代史の名刹を抱えた歴史的
地域だった事になる。

 

2.「藤原部落」と「法音寺」

  ♦ 現在の 「法音寺(ほうおんじ)」 と 「藤原(ふじわら)」 周辺地図
城内地図01C.jpg

地図中央の下の方に、「法音寺」と「亀福寺」と2つの寺が見えるが、この【法音寺】が今回の主役。

そしてその周りの「法音寺と藤原、妙音寺」と書かれた地域すべてを昔は【藤原村】、歴史が下って
合併前迄は【藤原部落】と呼んでいた。

なお、【法音寺】は越後・上杉家の菩提寺だった関係で慶長4年(1599年)会津移封で多くの末寺と
共に会津若松へ、そして関ヶ原後は米沢に移り、現在藤原には僅かに寺としての名跡を残すのみ。
本尊その他も、春日山・会津を経て山形県米沢市の上杉家御廟所のある現在地に移された。

  ♦ 【法音寺】 縁起、冒頭部分抜粋(城内郷土誌より)
法音寺・縁起 AAA.jpg

     ・・・主要部分を要約すれば次の様になるらしい・・・

天平3年(731年)   行基菩薩来たる、現法音寺の裏山「飯盛山」の柳平と言う所に草庵を結んで
             三厳庵 と名付けた。
天平8年(736年)   聖武天皇勅宣により、藤原不比等の子息・藤原政照、堂舎仏閣造営諸国巡見
             の為下向。
天平9年(737年)   藤原政照、この地にて落命(疱瘡の為)柳平から現在の地に移された三厳庵
             で埋葬。聖武天皇の綸旨を賜り、藤原政照の法名から【飯盛山法音寺蜜(三
               ?)厳庵国分寺】 通称【法音寺】と改名・昇格し、仏法興隆の精舎(僧侶の
               修行道場)となった。
               同時に、この地の名前「上河条村」を、藤原不比等の氏名(うじな)を宛て
               て【藤原村】 にせよ!との事で、村名も変えた。
               この時聖武天皇から金一千万両・珠御剣・三千仏の唐絵などが贈られ、妻女
               や藤原房前からも納経その他が寄進されたとの事。
天平11年(739年)    藤原政照の妻女、興福寺精舎にて妙音比丘尼となりこの地に来て、法音寺の
               近く、現在の妙音寺に庵を結び、ここで生涯を終えられた。
               この庵が後に【妙音寺】となり「妙音寺村」の総鎮守となる。

その後、源頼朝から源家繁栄の祈祷を依頼された事から繁城山法音寺】(なぜ「繁盛」でなくて「繁城」
なのかは不明)、そして時期は不明だが八海山法音寺】(多分、会津移封の時と思われる)と、山号が
変遷し、会津移封に伴い、末寺を含むほとんどの寺仏・経本等が会津・米沢に移された為、現藤原には僅
かな鐘堂などを残して現在に至る。

ただ、今回のテーマからは外れるので、山号の件は割愛し、以降は単純に【法音寺】として進めます。

なお、この【法音寺縁起】が起草された時代については、【繁城山法音寺略縁起】の見出しから始まって
いる事から、古くとも 「鎌倉時代」 ではないかと推測できる事をも念頭に、読み解く必要がある。

 

3.「関連資料」

  ♦ 米沢「法音寺」ホームページ (抜粋)
米沢法音寺・縁起 01.JPG

       ――― 以下省略 ―――
 

  ♦ 「雲洞庵(うんとあん)」ホームページ (抜粋) ・・・ 天地人ゆかりの寺

雲洞庵縁起B.jpg

  ♦ 藤原氏系図 ・・・ コンビニで入手の雑誌切り抜き (雑誌名不明)

      (代表的系図でわかり易いでしょう)
藤原氏系図.jpg

  ♦ 藤原氏北家、系図 

    数多く提唱されている藤原家の家系図で、小生が調べた系図に最も近く、より詳しい系図。
    「北道倶楽部」のHPから、主催されておられる岩田様の許諾を頂いて掲載しております。
    詳細は「北道倶楽部」のHP http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_41.html  もご参照下さい。

藤原房前家系図.JPG

 

 

【検証】 

1.藤原摂関家と魚沼地方の関係

  場所や設置時期の特定は出来てないが越後・魚沼地方に屯倉(みやけ:大和政権の直営倉庫)が有っ
  た事は、色々な古書に出て来る。
  従って、魚沼地方には屯倉に集める程の穀倉地帯があり、政権直轄の荘園が出来ていた。

  西暦645年の大化の改新でこの荘園が、中富鎌足=藤原鎌足に下賜されたと言う。

  これについては否定するべき材料がない、従って、事実として話しを進める事にする。
  (今回のテーマの時期に藤原一族の誰が引き継いだのかは不明なのだが)

  また、現在の六日町に大河ドラマでも知られた【雲洞庵】(うんとあん:前出の観光パンフレットの
  左下にある寺) があるが、ここも藤原本家由来の寺と言われている。・・・前述、雲洞庵縁起参照。

2.藤原政照とは誰か?

  城内郷土誌では「藤原麻呂」をその人としているが、はたして同一人物か?
  と、言う事で関西在住の知人に調べて頂いていたが、残念ながら最近その知人が亡くなられた為確認
  はできなくなった。  しかし、過去に途中経過の報告で「同一人物だろうと思う」と言っていた。

  もし、「藤原政照=藤原麻呂」だったとしたら聖武天皇の命を受けて諸国巡視と言う事も有りうる事
  であり、或いは陸奥の多賀城から秋田への新道開削で途中、体調を崩しての帰途、領地のこの地で落
  命したとも考えられる。 (実は新道開削は公務として記録があるが、諸国巡視は記録不明)

  死亡原因が天然痘による病死である事、時期が天平9年(737年)7月と共通で、藤原麻呂の記録
  では帰京(藤原京)後に亡くなった事になっているが、天然痘だとすれば、当時は都が疫病蔓延の中
  心地。 家族を避難させる事はあっても、病を押しても帰る(又は帰れた)だろうか?

  疫病であれば、死後すぐに遺体を焼く事も当然だろうし、結果、諸説もまた生まれ易い。
  城内郷土誌中の法音寺縁起にも【彼歯骨等奉南都贈当寺留置示後・・(以降現代訳)・・再度の勅に
  よって当寺を政照の墓所とし、政照の法名を取って法音寺とする・・・】 とある事を見れば、

  天皇の勅により陸奥・多賀城に下向していた藤原麻呂が、多賀城から秋田城までの軍用道路開削指揮
  の途中で痘瘡(天然痘)を発病した。当時痘瘡と言う疫病に苦しめられていた藤原京の為政者達は、
  例え不比等の孫と言えども都への帰京は許されず、藤原家辺境の所領地での療養を名目に上河条村へ
  来て(或いは来る途中)亡くなった。 そこで遺体の焼却(当時は土葬が普通、高貴な家柄であれば
  なおの事)を指示した、そしてその事後処理が問題となる。例え、骨だけとは言え、都に帰すとなれ
  ば彼の従者達も帰さなければならなくなる。と言う事は、再び疫病を都に持ち込むリスクが大きい。
  そこで、苦肉の策として取られた策がこれ。
   【麻呂の遺体は現地で焼いた、お骨は一番近い藤原家の所領地の寺に留め置き麻呂の
     墓所とする、そこに家柄に相応しい寺の格付と村の名前変更を、勅と言う形式で実施しよう】

  とすれば、本来「藤原麻呂」だった人に、(任期途中だったとの)傷を付けたくない誰かが、便宜上
  法音寺関連だけに「藤原政照」の名前を使用していた。 と言う推論も成り立つ。
  これなら「藤原麻呂が藤原京に帰ってから痘瘡に罹り死亡」と言う説も容易に作れる。

  が、藤原麻呂の「天平9年(737年)持節大使に任ぜられ、陸奥・多賀城より雄勝村を経由して出羽・
  秋田城への直通道路開削事業を行い、同年に帰京するが、当時流行していた天然痘にかかり7月13日
  に薨去」と言う記述には不自然な点がある。
  当時の藤原京から陸奥・多賀城(柵)迄の往復日程と出発帰着前後の準備・整理日程、軍用道路開削
  日程それに痘瘡の潜伏期間から死亡までの期間すべての行程を考えると、わずか半年で起こる事象と
  するには無理がある。(例え元日に勅が出たと仮定しても)
  そして、前記「法音寺・縁起」の中で、【・・当寺留置示後帝王自再綸御下為・・】 とあるのは何を
  意味するのか?
  もちろん藤原政照は勅により諸国巡見に出ていた事になっているから再度勅が出ても不思議はない。
  しかし、その内容は別格で、前後の歴史に名前が載らない様な人物、まして僧侶でも無い人物の為に
  国分寺級の寺を建てるなんて有り得ない事である。

  従って、【「藤原政照」とは為政者(藤原本家房前)の都合で便宜上作られた名前】で【藤原麻呂
  が実名
と考えた方が論理的な話として繋がるのではないかと思う。

  不比等の息子4人とも、わずか1年半位の間に全員天然痘で亡くなった事は有名な出来事である。

3.法音寺と行基の関係・・・法音寺開祖説

  これは全くの捏造だ。
  まずは行基の行動範囲、実質的に行基が行動していたのは広く見積っても現在の地理で奈良から京都
  ・滋賀・三重の範囲、彼の弟子達が動いたとしても天平12年(740年)以前、この地に行基の関
  与があるはずが無い。
  行基と聖武天皇の関係が始まったのが天平13年(741年)、天平15年(743年)大仏建立の
  勅で本格的に全国への勧進活動が始まる。
  この地、藤原村に行基の係わりが出来るとしたら、この天平15年以降しか考えられない。
  まして、行基が健在の年代に行基菩薩云々と言う伝承は、自ら捏造を白状している様なものである。

4.藤原村の人々

  藤原で500年以上続いていると言う旧家があるだろうか?
  恐らく城内中を探しても500年以上の系図(文書と言う意味ではないが)を持つ旧家は無いと思う。
  城内と言う所は意外に人の出入りが激しい所の様です、古くは平将門の残党や前九年・後三年の役の
  残党も来たかも知れません。
  しかし、城内はおしなべて人々の入れ替わりが多かった地域らしい。従って、古の名刹も意外に忘れ
  去られてしまったのかも知れない。

 

【「藤原(村もしくは部落)」のルーツ まとめ】

 ♦ 私の考える「藤原」のルーツは以下の通り。

   1. 藤原麻呂(京家)が陸奥平定の為の、多賀城→秋田城間の軍用道路開削中に藤原京で感染し
      潜伏していた天然痘が発病。(天平8年末~天平9年春)

   2. 帰途、都は天然痘が蔓延、療養目的で藤原家所領地の越後上河条村に来たが、ここで死亡。
      しかし、ここで天然痘が流行ったと言う形跡が無い事から、事実は途中で亡くなって、遺骨
      となってこの地へ来た可能性もある。(天平9年7月頃)

   3. 藤原摂関家の政治力で【麻呂】を【政照】に替え、勅(みことのり)と言う形でこの地に祀
      る事にして、その法名をとり【法音寺】を国分寺格の寺院として建立。 (天平9年)

   4. 同年、それまで「上河条村」と言っていた村名も藤原の呼び名に変えて【藤原村】とした。 

   ※   その後の経過については、法音寺縁起の項と重なるので割愛します。

 

【余談】

 始めは奥州藤原氏の流れを有力と思ったり、藤原魚名の名前から魚沼のルーツかも・・・なんて考え
 たりして見たが、やはり天然痘の流行、キーマンの没年と中央の政治的動向などを考えると、法音寺
 縁起の記述が、かなり正確なのでは無いかと思えて来て、上記のまとめとなりました。

 色々と、情報収集にご協力頂いた皆様方に、改めて感謝致します。  ありがとうございました。

 


 

私の、他のブログも読んでみたいと言う方はこちら 「♪ お暇なら来てよね!」 から
    (テーマごとに分類した索引です)
 

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コメント(3)

ふーん、どうも色々話を聞くと、藤原ってのはとっても由緒正しいと言うか、ブランド地名なんだな。
若しかしたら俺も、藤原麻呂の血を引いているのか。道理で我ながらうっとりする、この気品のある顔立ちの由来が分かった。

今迄俺は、この日本人離れしたエレガントな顔立ちからして、ロシア革命で亡命して来たロマノフ王朝の4女、アナスタシアが藤原まで落ち延び、俺のひいひいお祖父さん当りにナンパされて、その血を引いているんじゃないかと思っていたが………。

って、冗談も休み休みにしておくとして、写真や資料と併せての考察、ロマンが有って面白かった。

藤原岡村巻の菩提寺、小川の養徳寺も法音寺の分家なんだそうだ。
世が世であれば六日町一帯、特に法音寺は上杉家の菩提寺として大変な賑わいになったんだろうな。

 これも(雄のところでも書いたので)おれにとって興味深い話しです。
 この辺の話しをするときにはやはり「法音寺由緒」は外せないですよね。
 それにしても、昔京都から北陸、東北へと出てくるなんて、と驚きとともに、本とかな?なんて疑問もありますが、「現代人」としての私のおごり、あるい思慮不足かもです。
 ちなみに、亘さんのじいちゃんでしたか?の、「静波遺稿」には以下の記述があります。
 「この村は往古、條村といっていたが、大化の新制のとき「里」を改め「條」となし、50戸を條として50戸あったことから條村と称した。」

青森・十和田湖の近く、新郷村と言う所にゃキリストの墓がある。(地図にも出ている)

藤原の貴公子がアナスタシアの血を引いて居てもビックリしないネ!

まさしく世が世であればだよな!

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このブログ記事について

このページは、久が2012年11月 1日 01:05に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「「華厳の滝」 2012.10.20」です。

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