「故郷の古代史」と「八海山」

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我々の故郷には出浦(イズナ)と言う地名がある。
何故“出浦”と書いて“イズナ”と言うのか? 子供の頃からの疑問であった。
今回は、そんな【出浦(イズナ)の疑問】と【故郷の古代史】を重ね合わせて謎解きを試みてみたい。

 

【プロローグ】

先の投稿【「魚沼」ってどんな沼?】では魚沼盆地は、「有史以来7世紀~8世紀初頭の頃まで、満々と水をたゝえた湖(大沼)だった」 と推理をした。
そんな地形のイメージを前提に、この地に移り住んだ古代人達が見た八海山はどんな眺めだったのだろうか? と想像してみた。
  (写真合成が粗雑で見にくい点はご容赦を!)

  ♦ 魚沼盆地が湖だった時代、古代遺跡がある現在地名で南魚沼市・余川付近からの春の風景hakkaisan yokawa.jpg

  ♦ 同上、余川の少し上部・上の原付近から、3月下旬・凍み渡りの頃の早朝風景。hakkaisan uenohara.jpg

魚沼丘陵の西側・信濃川沿いは、石器時代から縄文時代・弥生時代と交通・文化の要衝遺跡が数多く、遺跡ロードと言える。
一方、魚沼丘陵の東側・魚沼盆地は弥生時代以前の遺跡は規模も小さく数える程しか無く限りなく無人地帯に近かった。ただし、縄文時代は前期・中期・後期合計すると1万年もの期間があり、この間常に魚沼盆地が満水だったとは考え難い。何回か増・減水期を繰り返し、減水期には縄文人の進出も繰り返された事と思うが、増水期には縄文人の痕跡も再び消し去られる、これを繰り返して来たのでは無いかと思う。
従って遺跡が無いから縄文人が住んで居なかったとは言えないと思う。これからも思わぬ所から縄文遺跡が発掘されるかも知れない。

そんな魚沼盆地に人々の移住が始まったのは3世紀初め頃、本格的集団移住は3世紀末頃だろう思われる。
時期を同じくして信濃川流域への集団移住と考えられる遺跡が増えている。むしろ移住者の大半は信濃川流域へ住み着いたのでは無いかと思う。
日本史で「古代」と言われる時代であり、大和朝廷の草創期(或いは黎明期)と時を同じくしているのは何を意味するのだろうか?
信濃川流域と魚沼盆地への集団移住は、やはり大和朝廷の拡張政策と大きく関係していたのではないかと考えるのが一般的なのではないだろうか。

  ♦ 信濃路は 今の墾道 刈株に 足踏ましなむ 履はけ わが背

   ( しなのじは  いまのはりみち かりばねに  あしふましなむ くつはけわがせ )   

昔、中学校(だったかな?)で習った万葉集の中の一句。
「信濃へ出兵する夫への情愛を歌った心温まる歌」、位にしか考えて居なかったが、意外に我々のルーツに密接に関係していたかも知れないなんて、ロマンですよねー!
でも、我々のルーツが信濃川上流からの移住民だとしたら、当時は大和朝廷方=敵方の兵士の妻が歌ったものだけど、・・・・ま、美しい歌には敵味方ないですね!

 

【地理的イメージと古代史の舞台】

 ♦ 広域 A (新潟県側・信濃川流域と魚沼盆地)uonuma kara sinano A.jpg

 ♦ 広域 B (長野県側・信濃川流域と関連地域)uonuma kara sinano B.jpg

南魚沼市・余川には【飯綱山古墳】と言う重要な古代遺跡跡が有り、そこはまた可憐なカタクリの花の一大群生地でもある。

 ♦ 飯綱山古墳群の入口から八海山を撮影、この日は古墳群全体がカタクリの群落だったiizunayama katakuri.jpg

一方、越後三山のひとつ【八海山】には八海神社が2つ有るが、現在の八海神社は何れも江戸時代から明治時代に活発だった山岳信仰を目的に作られた神社。
従って、どちらも八海山の登山口に設けられている。つまり「大崎口」と「城内口」、どちらも里宮と言うが本宮(又は奥社)は無い。山伏にとって山全体が本宮なのだそうだ。

話を戻して、2か所の八海神社であるが江戸時代以前については、かなり以前から何かが有っただろうとは思うが、資料・確証が無い。と、思っていた。
が、「城内口」に現在地から少し離れるが古代の【元祖・八海神社】跡らしき遺跡が有った事がわかった。
その場所が、下記添付写真の【長者原】である。

 ♦ 魚沼盆地の湖上を渡った古代人が上陸したであろう【出浦】と遺跡が有った【長者原】izuna-tyoujyahara 1.JPG

長野市の北北西に飯綱山と言う山がある。(“広域 B” 参照)
3世紀初頭の頃、この山裾を中心として恐らく現代の地名で、信濃町・飯山・信州中野・須坂・小布施・松代そして飯綱町を含む長野市内の大半を占めた、一大文化圏があった。
それは縄文時代から連綿と続く、現代の地名で妙高・高田・直江津や糸魚川地域との交流が活発に行われた事で、出雲や海外交易を中心とした日本海文化圏の影響を色濃く受けていた幾つかの豪族の集団支配地域だったと思われる。
一方、元々は日本海文化圏の一員だった豪族の中から、大和朝廷の影響を受けこれに組する豪族達が現われ始め、信濃川流域でもそのうねりの中に巻き込まれて行った。

 

【古代史 (ストーリー)】 ・・・・・以下はすべて小生の推測です

 1. 大和朝廷東進で、難民の一部 が現在地名・余川周辺へ集団移住

3世紀末頃信濃川上流(現在の長野県飯綱町を中心に信濃町から信濃川流域付近を)拠点として栄えた一族が居た。 (以降便宜上、飯綱一族とする)
時代は大和朝廷勃興期、その影響力が徐々に強まり臣従か拒絶かを問われる事になる。
4世紀中頃、現在の千曲市・更埴JCT 近辺 に勢力を持つ豪族を味方に付けた大和朝廷の締め付けに、飯綱一族の中で臣従を拒絶する人々が信濃川下流へ逃れて来る。 (勿論、飯綱一族以外の部族からの難民も多く居たものと思われる)
その中の一部の人々が新天地として選んだのが、現在の南魚沼市(六日町)・余川周辺である。

(注記) 
大和朝廷側に味方したと思われる豪族とは、広域 B の千曲市で更埴JCTから上信越道を上田へ向かって最初のトンネル入り口右側に、「森将軍塚」と呼ばれるこの地方最大の前方後円墳がある。
“森” と言うのは地名らしく、正式な氏族名は不明だがこの一帯を治めていた一族の墳墓と思われる。
此処から出土した三角縁神獣鏡のかけらから、中国産の鏡である事がわかり、この事や前方後円墳を許された事等から大和朝廷からもかなり重要視(王族待遇?)された豪族である事が推測される。

飯綱一族、彼等を共通の価値観で繋ぎ心の支えとなったのが戸隠山を中心とした山岳信仰だろうと思われる。
近世の山伏達の山岳信仰と違い、山そのものが御神体であり、遠くから、もしくは高台に登りそこから戸隠山を参拝する形式が主体であったのだろう。
年に1・2回 “飯綱山” へ登り、山頂から戸隠山に向かって祭祀を行った可能性も大きい。
  (後世の飯綱権現信仰などにも繋がって来ると思われる)

現代の風景で考えるなら黒姫山の方が祭祀に向いていそうだが、当時は活発な火山活動をしていたものと考えられ、人間を寄せ付けない山だったに違いない。(今でも山頂火口跡では地熱で雪解けが早いと言う)

大和朝廷の圧迫から彼等の一部が新天地を求めて信濃川を下り、多分津南から十日町の間の尾根から魚沼丘陵を越えて、満々と水をたたえた湖水の向こうに荒々しい峰々を天に突き上げる様にそびえる八海山を見た時、信奉していた戸隠山が重なっただろう事は十分に考えられる。

下の写真は現代の魚沼スカイライン・栃窪峠(塩沢・十日町線が交わる所)からのものだが、古代もこの様に見えたものと思う。ただ、此処から見える平地部分は殆んど湖水に覆われて、また魚野川上流はかなり奥まで湿地帯と灌木で、人の入植を拒んで居たとも考えられる。

 ♦ 魚沼スカイライン・栃窪峠からの守門岳から八海山2003.04.11 - uonuma SKL・totikubo touge.JPG

当時の湖水の水位を考えると、人々が居を構える為の大地は余川周辺と塩沢の上流域位だったと思われる。 (水位は海抜200mから250m前後)
しかし塩沢の上流から湯沢付近にはかなり広い台地があったと思われるにも係わらず、余川付近に比べて遺跡数が極めて少数だ。 やはり八海山全体の山容が見える地域へ集中して集落を作った、と思われる形跡が遺跡の発見場所と遺跡数の差からも推測できる。

この様にして現飯綱山古墳群が残る余川や上の原(上の台)付近を中心に集落群を形成して行ったものと考えられる。また余川一帯に移住した飯綱一族の繁栄が、6世紀頃まで続いた事は飯綱山古墳群が物語っている。
同様の年代、同じ様な規模・様式の古墳群が長野県の彼等の故郷付近に数箇所残っている事から、故郷の人々とも密接な交流があったものと思う。

6世紀と言えば、聖徳太子が活躍した時代である。

一方、山岳信仰の必要性もあってか、対岸・八海山の山裾に行く試みがあったと思われる。

 2. 【“出浦”(イズナ) と “元祖・八海神社”】 ・・・・・前出の写真【長者原】参照

八海山・山裾側の湖水の水位は現在の岡村から山口の間(海抜250m前後)と推定される当時、小舟で渡った人々は何処に上陸したのだろうか?
うってつけの場所は、まさに現在の “出浦(イズナ)” と呼ばれるその地だったものと考えられる。
なぜなら、傾斜のゆるやかな水辺には葦や雑木が繁茂しやすく、また蓄積した泥濘は現在の山口方面への人間の上陸を阻んだものと考えられる。
また、出浦も現在の様に奥地まで入るのは困難と思われる事から、上陸地点は出浦も入口付近と思われる。

さて、出浦に上陸した人々は陸路で現在の長者原に小さな居住地を作った。そして祭祀の為の小さな祠が作られた、元祖・八海神社の芽生えである
居住地と言っても、おそらく神聖な場所として祭祀を行うのが目的で、そこには施設を維持管理する為の人々が数人住んだ程度ではないかと思う。

時代が進み水位が下がると山口方面からの上陸が可能になり、やがて祠も便利な現在の地に移され、幾たびかの宗教的改変を経て、江戸時代から現在の八海神社になったと考えられる。

話は戻るが、“出浦”の命名について。

飯綱一族はすでに日本海文化の影響で、文字(漢字)を使う文化を持っていたと思う。しかし当時から出浦(いずな)と呼んでいたかどうかは疑わしい。
一方、舟の出入りする所を浦と呼ぶのは全国で共通の事実。
後世、その昔対岸の飯綱山近辺からの舟が出入りしていた事を (言い伝えなどで) 知る知恵者が“出浦”の漢字を当て字として“いずな”と呼ばせたのが真実ではないかと思われる。

 

【エピローグ】

飯綱山の周辺に住んでいたから飯綱一族とするなど、かなり無理してのストーリーでしたが、大きな流れとしてはそれほど違っていないものと思います。

「歴史とは点と点の史実・物証を想像で紡いだ小説」 と有名な小説家がTVで語っていたのを思い出す。

今迄殆んど語られた事の無い、「この時代・この地方の歴史」 について、興味を持つ人が一人でも増えてくれたら非常に嬉しく思います。

 

前回投稿記事の 【“魚沼”ってどんな沼?】 と併せてお読み頂ければ、この地方の地形の成り立ちとの関連もわかって来るのではないかと思います。
もし、まだ読んで居られない方はこちら 【“魚沼”ってどんな沼?】 をクリックして見て下さい。

 

なお、他のブログも見たい方はこちら 「♪ お暇なら来てよね!」 (テーマごとに分類した索引) からが便利です。

 

はちゃ! また!

 (南魚沼市地方の方言 : それでは!  また次の機会に!  ・・・の意味)

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コメント(1)

Qの面目躍如たる大考察だな。
虚実の判断は致しかねるが、大ロマンであることは確かだ。

俺も「出浦」に触発されて、ロマン溢れる芸術的なコメントを一発。

子供の頃、「夕立とバカは出浦から出る」とか言って囃したことが有る。でも自身藤原出身でありながら「村長とバカは藤原から出る」とも言っていたが、これは誇っていたのか自己卑下か。

隣部落というのは一種近親相姦、じゃなくて近親憎悪の感情が有って、寺家(ジケ ― 法音寺のこと)の子供に向かって「ジケのバカどもえんの(犬の)糞拾って、ほつけさまに上げて、線香1本立てて、ハンニョクンニョ拝んだ、拝んだ」と悪態をついたもんだ。


なお………、
「この作品は現在からみれば一部不適切な表現が有りますが、作品の芸術性を尊重し、そのまま放送、じゃなくて書き込みします」、ってか。

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このページは、久が2012年8月 9日 21:07に書いたブログ記事です。

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