【プロローグ】
私の出身地は現在の新潟県南魚沼市それも八海山の山懐・城内(合併前の村名)だが、自分の生れ育った地に付いて、なんで地名に“魚沼”が付くのか? 魚沼も“北” “中” “南”の3つの地域があるが、どの地域にも地名と結び付く様な“沼”が無い。
それなのに、何で“魚沼”なのか? そんな素朴な疑問から文献や伝承みたいなものを探してみたが、納得出来る様な説明は見当たらない。
そこで、むかし衛星写真を分析する仕事をした経験が役に立つだろうと、調べ始めて気が付いた。
- “はっけぇ様”(八海山の事=城内の方言)は、大昔は火山だったんだ !
- “魚沼”は3つあったんじゃなくて1つの巨大な“ユの字形の湖”だったんじゃないか?
って事に !
そして、下記万葉集の一句が故郷の歴史と交叉しているかも知れない 【「故郷の古代史」と「八海山」】 も併せてご覧ください。
♦ 信濃路は 今の墾道(ハリミチ:切り開かれた道) 刈株(カリバネ=切り株等)に
足踏(アシフ)ましなむ(=つまずいたり怪我しない様に) 履(クツ)はけ わが背(セ=夫)
まずは現代の航空写真で魚沼地方のイメージを持って頂いた方がわかり易いと思うので掲載します。
数億年~数千万年前、ユーラシアプレート・北米プレート・フィリピンプレートそして太平洋プレートが衝突し、日本列島が形成されて行った事は周知の事実。
そして魚沼地域はそのユーラシアプレート・北米プレート・太平洋プレートがちょうどせめぎ合う地域に符合する。
航空写真と中越地震・中越沖地震の報告書に登場して来る魚沼丘陵の隆起年代などを参考にすれば以下の様なストーリーが見えて来る。
【八海山と魚沼丘陵の誕生】
それは日本列島や日本海が、現在の形状になる過程での出来事から始まった地形と考えれば地形の成り立ちが推測し易いでしょう。
以下のストーリーは、あくまでも小生の推論ですが形成年代や数値の変動はやむを得ないでしょうが、形成プロセスはそれ程違っていないものと考えています。
およそ数千万年前、北米プレートの南端部に位置するそこには山頂の規模が現在の阿蘇山に匹敵する規模の外輪山を従えてプレート上を自重で沈む位重い、恐らく標高3000m以上の巨大な火山があったものと思われる。
また、西側には広大な扇状地を広げた旧信濃川が流れる平原が日本海まで続く光景があった。
約500万年~300万年前、太平洋プレートに圧迫された北米プレートが、ユーラシアプレートとの間に挟まれて西側へ、上に乗せた火山は自重で沈み込みながら、西向きに転倒し始める。
約200万年前、ほぼ現在の位置に来た時、火口のおよそ1/3を太古の信濃川河川敷に埋める事になる。
この頃には火山活動の原動力であったホットスポットは、現代の日光白根山、又は那須岳付近に噴出口の位置を変えた。
(プレート移動を年間 50mm~80mm 前後として → 約80km~120km東へ移動した)
航空写真の分析をして行くと、この火山の内輪山・火口壁の現有最高地点が今の八海山であり、六日町の方向から見て
左側は、池の峰 → 猿倉山 → 堂平山 → 鬼の面(オニのツラ)山 →(上原)
右側は、阿寺山 → 高倉山 → 桂山 →(田崎)
と火口壁のなごりが囲んで内輪山を形成し、現在の下原から魚野川の地下深く辺り迄が八海山対面の火口壁だったものと推定される。
(最も新しい噴火口跡、“溶岩ドーム”の形跡は山口付近だったと思われる)
そう考えれば、八海山の山容が峻嶮な岩峰である事、城内の一部を抱え込むかの様な山群にも説明が付く。
八海山の成因が火山である物証としてもう一つを挙げるとすれば、金属鉱床だ。
かなり以前に廃坑となってはいるが、東邦亜鉛の採掘抗があった。 普通、亜鉛の様な金属鉱床はマグマの様な高温と高圧の条件が無ければ生成されない。
つまり八海山の地下には過去にそう言う条件を満たす状況が存在したと言う証拠であろう。
ただし、先に書いた通りホットスポットが東へ移動しているので、現在は噴火の心配は全く無い。
また外輪山は、越後駒ヶ岳・中ノ岳・巻機山・金城山などによって構成されていたと推定して居る。
一方、かって太古の信濃川・河川敷(扇状地)だっ堆積物層は圧縮されて隆起し、現在の魚沼丘陵を(新潟付近まで) 形成する事になる。
☆ 魚沼丘陵が大河の下流だったことは各峠道などで玉石を含む堆積地層が露出している事など
からも 証明できる。
また、これらの点は地震や原子力関係の地質学的各調査でも、証明されている。
そして新しい信濃川が、現代の十日町付近から小千谷へ向かって流れ始めると同時に、魚沼丘陵で塞がれた地域はほゞ現在の魚沼盆地の形を形成。そしてその盆地は巨大な湖に成長して行った。
(便宜上これ以降、この魚沼盆地側の淡水湖を【大沼 A】と呼ぶ事にする)
その後も地殻変動などで喫水の変動はあったものと思うが、人類が登場する頃以降は有史時代に入ってもかなり新しい時代まで、更に巨大になった湖が存在していたと思われる。 理由は後述。
(魚沼盆地が湖だった頃の八海山を想像すると、こんな景色かな!)
【魚沼”のルーツ】
その後、中越地震を起こした断層が動いて魚沼丘陵に亀裂が入り、“大沼 A”と新信濃川をつなぐルート (堀ノ内付近) が出来、一旦ほとんどの水が流出したと思う。
その後も地殻変動や気候の変動で【大沼 A】の規模は縮小・拡大を繰り返したものと思われるが、最も大きな変動は【信濃川西岸の隆起】地震だと考えられる。
小千谷付近から長野県の飯山付近まで、長大な河岸段丘を作った大変動で、この時の力は想像を絶する巨大地震を生んだ事だろう。
(数10万年~数万年前の出来事、今の所隆起年代特定などの資料が不足の為、小生の推測)
これにより信濃川の川口~小千谷間が堰き止められて、信濃川流域に【大沼 B】を形成し、やがて魚沼盆地の【大沼 A】と繋がって “ユ” の字形の湖 【超大沼】 を形成した。
(便宜上この【超大沼】= 大沼 A + 大沼 Bを、以降は簡略化して【大沼】と呼ぶ事にします)
“魚沼”のルーツはこの【大沼】に由来するものでは無いかと思う。
古代人が【大沼】の形状が “ユ” の字をして居る事を認識して居たとは思わないし、魚沼丘陵を挟んだ2つの湖が実は繋がって居る一つの湖だと知る人もほとんど居かったのではないかと思う。
実際はどちらか一方の湖を見ただけでも【大沼】と認識する事と思う、そんな状況を記憶していた先人の言い伝えか、又は実際にそれを見た昔の人々が、大きな沼・【大沼】と言う意味で名付けたものと推測する。
話し言葉としての発音「大」が“オー”も“ウォー”も“ウオ”も混同され易く、後の世「魚」に変化して(もしくは変化させて)【魚沼】に変わって行ったものと考えられる。
また、【大沼】の最大期は長野県・飯山市付近にまで水位を上げていたものと思われ、縄文~古墳時代がこの時期に重なって見えて来る。
【古代人と【大沼】】 (縄文から古墳時代)
新潟県立歴史博物館の資料から“魚沼地域”で古墳時代以前の遺跡・史跡を調べた結果、添付の表になった。
注目すべき点は、信濃川流域(現在では合併して十日町市)には旧石器時代から古墳時代までの遺跡が115ヶ所も有るのに対して、魚沼盆地(湯沢~小出~越後須原)では同じ時代のものはわずか 8ヶ所しか見付かって居ない事だ。
また、所在の明確な十日町と 魚沼盆地 の遺跡の 標高 を調べたら、魚沼盆地では 海抜 200m~250m前後。
十日町の縄文中期位までのものはやはり海抜 200m~250m 前後、その後の遺跡を含めても海抜 200m 以上の高台に住んでいた事になる。
そして十日町の場合、例外はあるがほとんどの遺跡は現在の国道117号線から魚沼丘陵側に分布している。
中里村は更に標高が高い地域なので特に標高は調べて見なかったが同様で、ほとんどが国道117号線より山側に分布。 十日町地域と様子が異なるのは信濃川東岸の川岸がかなり急峻な所が多くなる為か、かなり山側に入り込んで分布している遺跡がある事だ。
津南町、こちらは古いもの程、清津川沿いに分布している事から、石器材採掘の為の住居跡が多いものと見られる。
(今風に言えば、石器ビジネスの為の採掘場、東北の遺跡でも清津川産の石器が多く出ている)
話を戻そう、
河岸段丘の隆起で堰き止められた信濃川・下流域の最上流部に位置する遺跡に、小千谷市の三仏生(さぶしょう)遺跡がある。9月の奉納花火大会で有名な片貝に近い遺跡で、その標高は海抜 約 50m。
そこ迄の信濃川上流河畔の遺跡については、データの有る所(現・十日町市・下条付近から上流)の標高は、すべて海抜 200m~250以上で有った。
そこで、古代人と【大沼】に係わる疑問をまとめると下記の3点が浮上して来る。
Q1 「三仏生遺跡と、その上流の流域遺跡との、標高差 150m~200m は何を意味するのか?」
Q2 「信濃川流域の遺跡も魚沼盆地側の遺跡も、同じ海抜 200m~250m 前後のなのは何故か?」
Q3 「十日町より上流の信濃川流域の遺跡数と、魚沼盆地側の遺跡数の極端な差は何故か?」
これらの事実は何を物語るのだろうか? 類推して行くと、次の様な答えが出て来た。
A1 (Q1に対して)
理由は、三仏生遺跡より上流域の遺跡では生活圏を標高差150m~200m以上の地域に選ぶしか
選択肢が無かった事。
原因は、河岸段丘の隆起で堰き止められ、信濃川と魚野川で作られた湖(ダム湖)の水位。
A2 (Q2に対して)
魚沼盆地側の遺跡の標高も信濃川流域遺跡と同じ理由で標高の高い場所が選ばれた。
「魚沼盆地側も信濃川流域のダム湖も同じ水位、つまり両方の湖が繋がっている」
と言う事であろう。 この事実があったからこそ【大沼】はひとつとの結論が見付かった。
A3 (Q3に対して)
信濃川流域遺跡で遺跡数が特に多いのは縄文時代以前の遺跡数103遺跡、一方同じ縄文時代
魚沼盆地側の遺跡数はわずかに3遺跡。
縄文時代、魚沼盆地側は限りなく住み難い所だったらしい。
魚沼丘陵の山容から、信濃川流域の縄文人が1万年近く山を越えられなかったなんて考え難い。
(縄文時代は、前期・中期・後期を合わせると約1万年もあると言われている)
考えられるのは、山を越えても“彼等が住み付く事を許さない状況、又はメリットが無かった事だ。
なぜか?
推測の域を出ないのだが、魚沼盆地側は人の住める台地が極めて少なかっただろう事と、信濃川
流域には石器時代からの 「物流ルートが出来上がって居た為ではないか」 と考えている。
(糸魚川から東北へヒスイを運んだヒスイロードの一部だったのかも知れない)
縄文時代とは言えそんな物流ルートに人が集まるのではないか、やはりルートから外れた魚沼盆
地側には人々が定住しにくかったのではないか? と考えられる。
縄文後期に入ると新しい遺跡は少なくなるが、古墳時代になると状況が変わり、魚沼盆地側への
入植も始まった。
もう一つの理由は湖(ダム湖)の水位の増減。
縄文時代、約1万年もの間湖水の水位が常に一定だったとは考えられない。 そこで、例えば魚
沼盆地側と信濃川流域が同時に水位が変動したとして、減水期に増える集落数が同じとしても高
台が多い信濃川流域の集落は、比較的従来と同じ地域に近接して高所に居を構えるだろうと思う。
一方、魚沼盆地側は高所の平地が少なく未開の所へ水位が下がって居れば、必然的に低地の居住
地で集落を創る事になる。
再び増水した時、どちらがどれだけ残れるか? それが1万年の間に何回繰り返されたのか?
例え一回だけの減水→増水だったとしても、魚沼盆地側の集落はほとんどが湖水に沈み、痕跡は
泥濘の中に埋もれてしまった可能性が高い。
【エピローグ】
その後の歴史を眺めて行くと、魚沼盆地が歴史上確実な痕跡として登場して来るのは8世紀・平安時代の頃~11世紀・鎌倉時代の頃。
例え湖が無くなっても、大小の沼や湿地帯が散在する湖底付近まで人間が入植するには、更に100年以上が必要だったからであろう。
ちなみに、2009年のNHK大河ドラマ天地人で現在の六日町一帯を“上田の庄(荘)”と言う表現をしていたが、これは7世紀中頃に始まった荘園制度の名残りである。
とは言え、この地に荘園制度が伝わるのは40~50年後の8世紀に入ってからと思われる。
8世紀初めと言えば坂上田村麻呂が東北遠征を行っていた頃だ、その頃の“魚沼盆地”では広大な多くの湿地帯や大小の沼が多数残り、そこにはトキや鶴・コウノトリなどが自由に飛びまわっていた事だろう と思う。
【大沼】の一部で有った魚沼盆地、この湖底に降り積もったミネラルなどが 今日の“魚沼コシヒカリ”の源でも あろうと思われる。
なお、冒頭で触れた通り古代の魚沼と八海山については、【「故郷の古代史」と「八海山」】 の様に考察してみましたので読んで居られない方は、是非一度ご覧ください。
また、他のブログも読んでみたいと言う方はこちら「♪ お暇なら来てよね!」(テーマごとに分類した索引)からが便利です。
はちゃ! (南魚沼地方の方言 ・・・ それでは、またの機会に! の意味)
失礼ですが、こちらの説は地質学的な証拠から否定されるべきと考えます。
参照:https://gbank.gsj.jp/geonavi/geonavi.php
以下「”」で区切ったところは参照のサイトからの引用です。
まず、八海山が火山である、という説明でしたが、八海山を作る岩石は”約2億9900万年前~2億5100万年前に海溝で複雑に変形した地層”が中心でこれはいわゆる堆積岩です。つまり、この時代は八海山は海溝の底に位置していました。
一部玄武岩が露出していますが、これは” 約2億9900万年前~2億5100万年前に付加した石炭紀-ペルム紀の玄武岩(海底火山を構成していた岩石の一部)”とあるように海底火山の痕跡です。
八海山の他の三国山脈に連なる山々も中生代の海底堆積物が隆起したものです。
>この火山の内輪山・火口壁の現有最高地点が今の八海山であり、六日町の方向から見て
> 左側は、池の峰 → 猿倉山 → 堂平山 → 鬼の面(オニのツラ)山 →(上原)
> 右側は、阿寺山 → 高倉山 → 桂山 →(田崎)
とありますが、もしこの記述は本当であれば、数100万年オーダーの新しい火山岩でこれらの山体が作られていなければなりませんが、上記のようにこれらの山々は中生代の堆積岩で、この記述に反します。
確かに衛星写真では二重の同心円上に見えますが、それだけを持って内輪山、外輪山とするのは早合点ではないか、と考えます。
次に、大沼と称される巨大な湖を想定されていますが、もしそうであれば、その湖底の範囲に湖底堆積物があるはずです。
しかし、魚沼盆地に見られるのは扇状地の堆積物ばかりです。扇状地はゆるやかな傾斜地でなければ発達しない地形ですからここを湖底であったというのは無理がある、と考えます。
他にもいろいろ気になった点はありますが、大きな反論はこの二点です。
魚沼というのはかなり広い地域を指す言葉ですが、1つの沼に代表させる必要はない、と考えます。
小さな沼が点在する氾濫原地帯であったと考えるほうが現在の地形との整合性を考えてもムリがないと思っています。
雪解け水と春先、梅雨時期の大雨が重なって定期的に魚野川が氾濫し、湿地地帯を作っていたのでしょう。これは現在でも見られる現象です。
それをどの時代からか調べていませんが、魚沼にすむ先祖たちが治水工事を進めて今の水田地帯へと変えていったのだと考えます。
私は通りすがりの素人ですが、古代史ファンでもあり科学ファンでもあります。
拙い知識ながら、つい議論を交わしたい衝動に駆られコメントさせていただきました。
どうかご気分を害されないよう・・。
嬉しいですね! やっと真面目に反応して下さる同郷の志のコメントが頂けて!
実は「八海山」の生成ストーリーは私の創作・推理部分、ご紹介の「産業技術総合研究所作成の地質ナビ」も見ていますので当然、この様な反応は遠からずあるだろうと予測しておりました。これについては特に反論するつもりはありません。
単純に偶然現在の形になったとしてしまうには火山説の方がぴたりと符合するので、ドラマチックな書き出しにして見たもので地質を語る物では無く、本論は地形からの「魚沼」の考察にあります。
私も専門家では無く、趣味の範囲で故郷の昔を調べているだけなので、中々現地調査等は難しいのですが、最初に疑問を感じたのは文中にもあります「魚沼丘陵」を挟んだ遺跡数の差があまりにも違い過ぎる事が切っ掛けです。
そして、其々の所在地標高の類似性は水面の共通性を物語るものとしか説明出来ず、地形・遺跡のデータ等から類推して巨大な沼の存在にたどり着いたものでした。
決して「ひとつの沼有りき」で出発したものでは有りません。
なお、ご指摘の「湖底堆積物」が無い理由は簡単です。
ご指摘の様に、湖底となるべき所は元々扇状地として発達した「ゆるやかな傾斜地」だったでしょう。
其処に例え50mの堆積物が溜まったとしても、湖水が放流されればこの地域の傾斜なら100年もすれば綺麗に雨や雪解けで流されてしまう事でしょう。
(この地形では堆積物が岩に変形する迄溜まって加圧固形化するとは考え難いでしょうから)
でも、こう言う事に興味を持っている方が居られる事が嬉しいです。
機会が有ったら直接情報交換したいですね!
沿海州から韓半島に至るユーラシア大陸の一部であった列島が地溝帯・亀裂の生成で切り離され今の位置に落ち着き、変形・隆起を繰り返した。 糸魚川静岡構造線はフォッサマグナの西縁線。東縁線については現在二つのラインが提起されています。 ①千葉-柏崎線②千葉-小出-新発田ライン。 フォッサマグナは面でありこの①、②いずれかのラインと西縁線に挟まれた地域がフォッサマグナ・地溝帯です。 この部分は長く陥没して海面下にあり、その後隆起して今があります。
小黒様、コメント有難うございました。
別項目の柏崎原発関連投稿で、投稿途中から過激なコメントが入る様になり、仲間のサイトに迄影響を与える懸念が有った為、1年ばかり一切の投稿を中断していた事も有り 小黒様のコメントに気付きませんで返信がおくれてしまい大変申し訳有りませんでした。
フォッサマグナ地溝帯東側縁線については諸説有りる事も承知して居りますが、①の「千葉-柏崎ライン」は一番説得力を持っている様に思います。
(実は柏崎原発の記事もこの地溝帯東縁の真上と言う前提と、雪国と言う環境が、重なった災害を想定した場合、住民避難の手段では福島の何十倍も困難になると想定出来る為書き始めたもの・・・実際雪国の冬を体験している者として書く予定でしたが中断中)
実は【「魚沼」ってどんな沼?】の記事は【「魚沼」と言う地名の由来】について疑問を持って調べ始めたのが発端。
そんな古い時代の事については書くつもりはありませんでしたので、地形の形を解説する都合で勝手な推理で簡略化したもので、その点はお断りして置いたつもりです。
ただ、縄文期以降の地形については私なりに遺跡のデータや標高等を調べて時代・比較・推考を重ねて結論を出して居ます。
残念ながら、年代のバックグラウンドが科学的物証に乏しく故郷を離れて仕事を持つ人間の調査限界を感じて居ります。
2019年からは改めて投稿を再開するつもりですのでまた新たなコメントでも頂けたら幸いです。(山崎)