「ふるさと今昔物語 Part-1」 より続く
再び、実家の周辺図から始めましょう。
◆ 不完全ですが、「昭和30年代の屋号」上原十字路下(しも)の図
※ 本図は小生の記憶の範囲で作成、後日修正版との差し替えを予定中。
上図中、少なくとも実家を中心とした薬師様・役場・鎮守様・映画管周辺のエリアについては
間違い無いと思う。(城内文化・映画館通りの上下エリア)
【新田掘】
我が家の前の川が【新田掘】で、上流は田崎の先、【三国川(さくりごう)】・深沢(ふかそう)の八ヶ堰から取水して上原のほゞ中央を横切り、【宇田沢(うだぞう)川】の河底を潜り、長森新田の灌漑用水として、現在もその田畑を潤している。
◆ 我が家の前での【ママ探り(魚の手掴み漁)】 ・・・・ ヤマメやイワナも捕れた
注 : 前の家に渡る橋がコンクリート製になっている (以前の写真では木製の橋)
実はこの灌漑用水、徳川・四代将軍家綱の時代、藩(越後高田藩)の「米(年貢米)増産」政策での長森ヶ原新田開発計画が発端。
山懐の浅い宇田沢川の水量だけではそれまでの田畑で限界があり、山懐の深い三国川の豊富な水を引こうと言う事になったのが理由。
しかし、これには藩内では裁き切れない反対運動が起き幕府を巻き込んだ裁定の結果計画通り推進となったと伝えられている。
(最新版、「新編 城内郷土誌」より、
以下の内容も、同郷土誌の解説に私の推論を加えたもの)
単なる村人の反対運動だけでなく、当時まだ寺領や格式が10万石(これは?)相当の【法音寺】が係わって居て、その結果は反対運動側の敗訴、法音寺も反対の立場だった。 (法音寺の場合、工事に伴って寺領地の削減などの不利益生じる為)
現在の法音寺の侘しさを考えると、もしかしてこの事件が凋落の一因ともなっているのかも知れない。
法音寺の件は、別の機会にするとして、新田掘の規模は、とても江戸時代初期のものとは思えない大工事を行って作られている事に、今でも驚かされる。
私が実際に見て感動するポイントを幾つか挙げると、
① 測量技術
三国川から宇田沢川を抜けて長森新田に流す為の傾斜をどの様にして作ったのか?
直線では無く干溝からハコドヨ迄の傾斜丘陵台地を、深さ10m以上まで開削して作っ
ている。
もっとも、もし自然傾斜で流すと地形的に丘陵台地の端、石万川(ごくまんごう)と並
行に流すしか無くなり、長森新田の半分も灌漑に使えなくなる事も想像出来る。
② ハコドヨ(水路の大規模立体交差点)の発想
実は新田掘開削前からの川だったものと思うが、私の知る限りでは湧水等の水源を持た
ない川の様で、雪解け時期や雨の後数日で干上がり、灌漑用水の役割は少なかった様だ
が、雨が続いたり集中豪雨の様な時は異常な増水が見られた事から災害対策の安全弁的
な川であった様だ。
因みに下流でも石万川に合流させずに下原新田で宇田沢川に流していたのも同様の理由
からと思われる。
従って、人家の多い方に向かって流れる新田掘に合流させると災害も予想される為、立
体交差で従来通りの方向へ流す構造を作ったものと思うが、発想が凄い。
ハコドヨの上流は杉や雑木の林に囲まれて藤原まで続いていたが、その川ををミズオシ
と呼んでいたのも「水が押し出して来る」と言う意味だったのかも知れない。
③ 宇田沢川の川底を渡して長森ヶ原の新田開発が出来ると言う発想
これは当時としては奇想天外な発想で有った事と思う。
この発想をした人とそれを認めて実行した高田藩為政者に敬意を表したい。
先に書いた反対運動や技術的な困難等、余程の実行力が無ければ成し得ない事である。
注 : 「新編 城内郷土誌」の中では高田藩主を「松平上総之輔」とだけ記載している為誤記
かどうか、真偽はわからないが「 松平姓」で「上総之輔」と言う高田藩主は存在せず、
【松平上総介(かずさのすけ)忠輝】と言う藩主が居た事は有るが 四代将軍家綱の時
代にはすでに改易されて後任が2代も代わっている。
将軍家綱の時代の藩主は【松平越後守(えちごのかみ)光永】、この頃家老・小栗美
作(みまさか)と美作が招聘した家臣・河村瑞賢(ずいけん)の指揮で新田開発・殖
産興業等を行った事が周知の事実として記録されている。
つまり、【「新田掘 開削事業]と「長森ヶ原の新田開発」】はこれ等藩政の一環事業
のひとつで有った事が推測できる。
小栗美作や河村瑞賢が推進者として係わっているなら、奇想天外な案も有りだろう。
【新田堀】の現在 ・・・・・ (実家周辺)
※ 以下現在の写真は Google Map ストリートビューよりの画像です。
道路の中央は消雪パイプのラインで、新田堀はその右側の舗装の下を流れている。
左側、沼田屋の向こう、県道を越えると新田堀が道路の左に姿を現す。
◆ 県道から先の新田堀 ・・・・ 道路の左側 (この写真は自分の撮影)
左に現われた新田堀、宇田沢川堰堤道路(薬師様や墓地のある所)の手前で土管に
吸い込まれ、対岸の長森新田で再び地上に現われる。
◆ ストリートビューが行ける限界、薬師様は右手前の家に隠れて見えない
再度、実家前より新田堀の今
この写真の道幅のほゞ中央から左側(橙色の線の間)が【新田堀】、赤い鉄の板は
消雪作業時などに開けて使う部分のフタ。 (右端は普通の側溝で、雨は新田堀へ)
昭和30年代はこの道の突き当りに、【城内文化】と言う映画館が有った。
(突き当りと言っても当時の突き当りは、奥に見える三角屋根の家位の場所)
もう一度、県道の上手(八海山方向)と、下手(下原方向)
(下手は県道がカーブの為、鎮守の森迄しか見えない)
◆ 沼田屋前から左の道が上原十字路から山口・八海山方向、右は映画館通り
冒頭の「昭和30年代地図」にも記載した、昔の薬師様の境内に有った「半鐘」が、今は
こうして消防小屋の前に吊るされている。 (やはり懐かしい気がするものだ)
◆ 下原方向 : 正面の杉が数本見える所が鎮守の森 (今は林とも言えないが)
昭和30年代は鎮守の森と呼ぶにふさわしい杉林の中に、ご神木と言ってもいい欅の巨木が
そびえていた。
そんな神社の境内で、毎年行われた盆踊りも、今はただ懐かしい思い出だけになってしまった。
昭和30年代の遊びと「自然の味覚」・・・自然の中で!
※ この時代、子供と言えど大人の手伝いが多く仕事の間に行われる遊びも多い。
それ等は遊びと言わないものもあるかも知れないが、私の独断で代表的な幾つかを!
【春】 3月~5月 (魚沼地方:南魚沼市・湯沢町・十日町市・魚沼市周辺)
◆ 凍み渡り ・・・・ しみわたり (魚沼地方の表現) ・・・ 仕事上でも活用
・ 雪国であれば何処でもする事だが、全国的な共通表現かどうかは不明。
雪国以外の方の為に、現象の概略
冬から春に季節が変わる時、大量に積もった雪は春雨や温かくなりつつある南風
や日中の陽光で、溶けた雪の水滴で表層と大地両側から雪質はザラメ雪に変わる。
この状態で、昼の間に溶けて表層に残った水滴が、夜間の寒気で氷結し最中の皮
の様に雪面が凍る。 これが何回か重なり、次第に表層の氷結層が厚くなり、や
がて人が乗っても沈まなくなる。
これを利用して、道以外の雪上を移動手段に使う事を【凍み渡り】と呼んで居る。
遊び : 通常、地上で行う遊びはほとんど実行可、以下はこの時のみの遊び
・ そり(橇)遊び ・ ウサギ・キジ・ヤマドリ追い(捕獲猟)
・ 杉っ葉(すぎっぱ)滑り・・杉の葉を尻の下に敷き山の斜面を滑り降りる
・ ドッポ(この呼称は城内でも知らない人が多い様だ)
「落とし穴」の事、表層を丸く切り取りフタにして、その下に穴を掘り
下に罠を仕掛けてシカ・イノシシ等大・中型動物を捕獲する猟だ。
(熊には使えない法方らしい)
子供達の遊びでは罠は無く、危険の無い様浅く掘って悪戯に使った。
・ スキー、その他
仕事・手伝い : 遊びとは言えないが、凍み渡りを利用した作業
・ 施肥・肥え撒き
・・・施肥と消雪の目的で、人や牛馬の糞尿・堆肥を田畑に撒く作業
・ 灰撒き・・・・・・・・青菜(青物野菜)の畑や稲の苗床等の場所の消雪目的
・ 炭出し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・炭焼きした木炭の出荷(運搬)
・ 山林伐採と運搬・・・・ソリが使え、大きな杉やヒノキ等が運び出し易い時期
・ 春山・・・・・・・・・・・・・山林管理やマキ(燃料等の為)の柴刈り作業
・ 杉っ葉拾い・・・・焚きつけ(点火)用に杉の葉の枯れ葉を集める子供の仕事
【注意】 凍み渡りは目に見えない危険もあり、地形を知らない所は行かないのが原則
夏から秋には水が枯れてしまう様な小川でも、雪解けのこの時期の水量は半端
では有りません。 また、雪原に隠れた小川の上はアーチ型に抉られて、非常
に薄くなり、人が上に乗ると、まさに落とし穴(ドッポ)の様に抜け落ちて、
冷たい水に押し流されて亡くなると言う事故も少なく有りません。
地元の人でも深い霧に包まれたりすると、雪原の中では方向感覚が狂い、事故
に遭った事例が有る程、むやみに凍み渡りをする事は危険を伴います。
特に温暖地域から来られる方々は地元の人に良く確かめて、くれぐれも 知らな
いエリアに足を踏みいれない様ご注意下さい。
◆ 山菜採り ・・・・ 当時は主に自分の家で食べる為に採っていた
・ アサヅキ堀り・・・・主に雪解け直後の場所に芽吹く黄色いモヤシ状の新芽。
土改(土地改良)後はあまり採れる所が無くなった。
最近秋田・山形の一部では、栽培品を別名で売ってい
るが、日に当てて栽培しているので普通のワケギと変
らない様だ。 それに比べて雪の下からのアサヅキは
生で味噌を付けてもヌタや味噌汁等に使うと美味しい。
・ 木の芽摘み・・・・・ 魚沼地方ではアケビの新芽(蔓の新芽と葉の新芽、両
方とも食べるが、メインは蔓の方)を木の芽と言う。
因みにサンショウの葉も最近では木の芽と言うらしい。
・ 竹の子採り・・・・・・言わずと知れた、根曲り竹の新芽 (5/末~6月)
・ その他・・・・・・・コゴミ、ゼンマイ、ワラビ、ウルイ、ウド、etc.
【夏】 6月~8月
◆ トンボ捕り・・・早朝、小川の縁の草を利用して夜の間に這い上がったトンボのヤゴが羽化
して、まだ飛べないトンボを採集して来て飛び立つ迄を観察する。
(注 : 羽化の途中で羽を掴むと変態が途中で止まり羽が歪み飛べなくなる)
遊びの対象は、やはりトンボの王者、ヤマドンボ(オニヤンマ)。
その、羽化したばかりの時は全身が黄色なのに、時間と共に黒と黄色の鎧の
様な体と大きな透き通った四枚の羽に変わって行く。
特にヤマドンボのメスはオスより一回り大きな体型で、見飽きなかった。
当時は捕っては来たが、無事羽化が終えて自然に飛び立つのを見て満足した
ものである。 (勿論、羽化現場の自然の中で観察する事の方が多い)
◆ トンボ釣り・・・こちらは日中、やはり殆んどがヤマドンボを対象の捕獲遊び。(他のトンボ
でも同様に出来たが、遊びとしての面白味は格段に違った様に思う)
ヤマドンボのメスは小川等の小さな綺麗な水辺をテリトリーにする習性があ
り日中はこのテリトリーを往復している事が多い。
そこで、この(主に)メスを網等で捕獲して、これに糸を付けて囮にする。
この囮で多くの場合はオスが飛んで来て、交尾しようと絡み付いた所を捕ま
える。 この場合、手で簡単に捕獲出来る。
この捕り方を、トンボを釣る(魚釣りになぞらえてか?)と言う。
別のメスのテリトリーで放すと、攻撃する為か、やはり絡み付く場合があり、
これも捕獲し易いが、この場合素早くしなければ逃げられる確率も高かった。
◆ セミ捕り・・・・これは全国同じ方法だと思うので省略。 ただ羽化について少し参考迄に!
私の場合、羽化の観察は大抵近くの鎮守様が一番の観察スポットで、アブラ
ゼミ、ミンミンゼミ、ヒグラシ等の羽化が、晴れた日の夜明けから日の出頃
迄、飽きさせる事無くあちこちの木の幹で続く。 これは捕ると言う目的よ
り観察が主で、意外に感動させられたのはアブラゼミの羽化直後。
成虫としてのアブラゼミは良く知られている様に、ミンミンゼミやヒグラシ
に比べ全身(羽も含み)焦げ茶色系の地味な色をしている。
それが幼虫から脱皮した直後から羽が伸びきって数分の間全身が【黄緑色】
のセミが出現する、やがて全身が変色して見慣れたアブラゼミになる。
その色彩の変化が成虫とのイメージの落差が大きい事に、感動したものだ。
そう言えばトンボも脱皮直後は黄緑色系の体色で、ミンミンゼミやヒグラシ
も、なぜか黄緑系の色で羽の成長が完結すると、それぞれの種の本来の色に
変化して行く。 (ハチやカブトムシも、脱皮直後は黄色系だったと思う)
脱皮する昆虫に共通で、血液か何かのホルモンに秘密があるかも知れないが、
これは大学か何処かの研究所にお任せする事にしたい。
クラゲで貰った人も居る、もしかしたらノーベル賞級の秘密があるかもね?
◆ 魚捕り・・・・・これについては城内地域独特と言うものは無いが、清流の流れる宇田沢川と
三国川、そして魚沼盆地を貫いて流れる魚野川。
それらの河川を主な水源として、縦横に張り巡らせた田畑の小川や導水路が、
その遊びの場である事から、主に以下の様な遊びになる。
☆ ざっこすき(雑魚すき=すくい)
・・・・「ドジョウすくい」と同じだが、網を使用して
小川や水路等での追い込み漁
☆ 魚突き(「ヤス突き」とも言ってた様な?)
・・・・ まさに「ヤス」で突いて捕る漁
☆ まゝ探り(前出)
・・・・ 大きな石や岩の下に出来た窪みに隠れている
魚を素手で捕まえる漁
※ 岩の窪みや石垣・堰堤の隙間、大きな石の下等を【まま】と言っていた
◆
◆
◆
e t c .
今、我々の故郷でさえ冒頭の写真の様な「ママ探り」や「トンボ釣り」、「杉鉄砲」等、自然の中での遊びをする子供達の姿はほとんど見る事が出来なくなって久しい。
勿論、そう言う自然が少なくなっている事も事実だが、私はすぐ身の回りに遊びの環境が有っても遊べない子供が増えている事に危惧を感じている。
子供達の、【創意工夫】【社会性・協調性・思いやり】【ケンカの限度・危険察知力】【忍耐力】等々は、TVゲームや学校教育で醸成される事よりも、日常の遊びの中で学び・実践しながら覚えて身に付くものではないかと思う。
一方、家庭内でも家族構成の分散化と仕事の形態が教育環境と乖離(かいり)して、利益優先の社会システムが躾けの崩壊を促進させている。 (経済的弱者の急増も問題)
小人数で、自然の中で、そこに有るもので創意工夫をし、遊ぶルールも自分達で作りながら意見を交換又は戦わせ、時にはケンカもしながら自分たちの社会を作って行く事で成長して行く事が本当の教育だと思う。
今の様に無闇に大人が干渉しない。 ただし、放任・無関心は最悪の事態を招く可能性大。
社会秩序を外れたり、危険な行為についてのみ助言・支援をする程度がベスト。
ただ、現代の親世代が、すでに【個の時代】と叫ばれ【TVゲーム】【遊びよりも塾】優先の教育環境で大人への道を歩いた人々の為、急に【子供達を自然へ!】なんて言っても笑われてしまうかも知れない。
しかし、最近の異常な犯罪や限度を知らない若者達の暴行事件、折れ易い精神が原因と思われる切れ易い人の増加が、形を変えて我が子への虐待・・・等々の現象を引き起こしているのではないかと思われる。
詳細な分析はしてないが、本質的な問題点の7割以上が子供時代の躾け環境と育て方に原因があるのではないかと思われる。
従って、これからは学校の授業以外の教育に【自然の中での、遊びを通じた情操教育】が、見直され、重要視される時期に来て居ると思う。
発想を変えれば → ビジネスチャンスにも !
首都圏に近い自然も多い我等の故郷は、そんな社会に【子供達の情操教育の場】として廃校などを利用して短期カリキュラムなどを提供すれば、新しいビジネスチャンスが生まれるのでは? と思う。 (南魚沼市全体での取り組みがベスト)
もし、実現すれば子供達の合宿場所の他に、期間(1週間~1ヶ月単位位)中に親達の出入りも予想されるので土産物・道の駅や温泉等の需要も期待出来る。 (あくまでも私見です)
や~またまた一気に読ませてもらった。
新田堀の掘削についての歴史背景を詳しく書いている。
俺も「新編 城内郷土誌」が発行された時に新田堀の説明を興味深く読んだ。
それに触発されて、自転車で深沢の取り入れ口から麓までその川筋を一年前にたどって見た。
一番興味があったのは宇田沢川の下を横断させたのには驚いた。今はサイホン技術でやっているが、その当時はどのようにしていたのか今でも知りたいところだ。
城内を横断する長い用水路も落差を考えるとその当時の測量技術では大変なことと思っていたが試し掘り?を行なって進んだのかな。
当時の新田堀に掛ける川北地区の人達の熱い願いが幕府を動かしたのだろう。
川に入っているサカナ取りは本人ですか。
学校生徒で列を作って映画館までぞろぞろと歩いた時はこの川に落ちると上がれないな~といつも思って通っていた。深くて大きな川だった。
こうえん墓の中の薄暗い道を通り抜けるのも怖かったが入り口に夏場は水が枯れている巾2m位の川があった。
どうも、「昭和30年代の屋号」の地図の「雑堀」藤原川のようだ。
その頃は、どこから流れて来る川だろうなどとは思わないで、ただただ橋を渡ったら一気に走って森を抜けることしか考えていなかった。
都会の家屋はたまに見るのだが、ストリートビューが上原まで来ているとは驚きだった。遠くに居ながら、道路状況が写真で見れるのにはありがたいものです。
「昭和30年代の屋号」の地図をクリックして原画を見ると、画面一杯に拡大して四分の一くらいしか表示されない。
角隅にカーソルを持ってきて縮小するも画面が小さくならない様です。
俺のPCのソフトのせいかと思うがなにかやり方をお願いです。原画を小さくしてUPすると解像度が落ちることも承知です。解像度と見やすさのせめぎ合いですが。
このPCではWeb上で全体を見られないので原画をコピーして落してから見るしかないようですが。
ままさぐりの写真いいですねえ。藤原の家の前の小さい川も裏のザッポリもヤマメやイワナがいたけど。
ちょうど雄から借りた『尾瀬-山小屋三代の記』を読み終わったところでもあり、土改が重なります。
先日の生の声でのメッセージありがとう。
や~と、拡大、スクロールの問題が解決した。
今までは、地図上でクリックすると画面いっぱい拡大してそれも原画の左上4分の1がでて、カーソルで操作しても原画を移動させられなかった。
その後、色々やっている内に操作がわかった。
まず、地図の上にカーソルを置いて、マウスの右クリックで「リンクを開く」をクリックすると、画面いっぱいに地図が拡大して、スクロールバーが右端と下端に出て来る。
このスクロールバーで地図を移動できた。
いろいろと教えてもらって住みませんでした。
EXブロ―ラ―の設定かマウスの機能か分かりませんがなんとか解決できてホッとしている。
尾瀬の時はご苦労様でした。 紅葉の頃(今頃)もう一度と思っていたのですが、寮生20~30人の
入れ替え準備で行けそうもない。
「まま探り」の件、俺自身懐かしいので出したのだが、今はこんな遊びは田舎でも見られ無いだろうな!
(?前に秀一君が宇田沢のあたり鬼の面上流付近で魚捕りしている人の写真を見たがヤスを持っていた
様な気がするので、まま探りと違うと思ったが・・・)
いずれにしても「まま探り」が出来る所と言えば、自然な清流と適度の浅瀬、魚が隠れられる大小の石
などの条件が揃わないと出来ない訳で、土改の後はそう言う場所がコンクリで覆われ無機質な風景にな
ってしまったね!
尾瀬三代記の様に、自然を守る情熱家が居なかった事が、今の城内の姿を作ったのかも・・・
ところで、俺達が子供の頃「まま探り」と言えば、【石の下等の魚を手掴みで捕る事】と思って居たが、
秀一君達もそう呼んで居たのかな?
実は上京してから、大崎出身の同僚と他県の人との魚捕りについての談笑の中で、「まま探り」の話を
したら、Hな話と誤解され笑い話のネタにされた事が有った。 以来今回迄は封印された言葉だった。
問題解決でまずは一安心。 良かった、良かった
Windows XPと7で出来る事が、間のモデルで出来ない訳では無いと思っていたよ。
16回生掲示板でビデオクリップ見せてもらったよ。
同級会には行けなかったが、その雰囲気がこうして見られる事は有難い。 3Q!
ふるさと今昔物語 Part-1、2とも、Qの面目躍如と言ったとこだな。今後に期待。
実は5月の連休に帰省した折、何もすることが無く(車が無いと、日常の生活環境から離れた実家では、本当に何もすることが無いんだ)、藤原、田崎、新堀、新堀新田、上原などの、用水路を写真に撮った。
しかし、それがどう繋がっているのか、後になってみると分からないし、掲載には至らなかった。
今ならGPSと併せて何らかのモノになるのかも知れないが。
今地元に住んでいても、この頃のことが分かる人は少ないだろう。
資料としても貴重だな。