今日7月17日は石原裕次郎が没して26回目の命日である。 その日は私に取っても忘れられない一日で、新しい友との絆が生れた日でもあった。
当時私は会社の名古屋営業所に席を置き、中京地区の、主に新規ユーザー開拓で電機メーカーや自動車メーカー、航空機メーカー等を毎日走り回っていた。
1987年7月17日
その日はおよそ1年通って、初めて新しい装置の契約について内示を頂いた日でも有ったが、キーマンとして交渉していた2歳年上のお客様との別れ際に 「裕次郎逝く!」 の二ユースに接した。
お互いに裕次郎のファンである事もあり、しばらくは思い出話に時を過ごした後、どちらとも無く 「今夜 “裕次郎” を偲ぶ会をやろう!」 と言う事になり、退社後に名古屋・栄の知って居るスナックで待ち合わせる事にした。
※ 当時、名古屋市内の繁華街と言えば中区・栄、東京で言えば銀座と言った所かな?
お客の接待と言えばここで始まるのが一般的で、二次会やお客の好みによっては、
大須 (大須観音の門前繁華街/天むす=エビ天おむすびの発祥地) 付近の店に
移動するのが一般的だった。
当然、今迄通り接待の積りで待ち合わせて居たら、顔を合わせるなり 「今日は割り勘だからね!」 と言い出した。
真意が分からず当惑したが、とりあえず同意して今日は仕事の話は無しで楽しむ事にしたが、裕次郎の曲を1曲づつ歌って彼が贔屓にしているスナックへ移る事になり、大須にあるその店に移動。 結局そこで朝迄に二人でカラオケに有った裕次郎の歌を歌い尽くした。
(当時はDESKカラオケで)
私が16曲、彼が22曲だったと思う(もちろん裕次郎以外の曲も、各々何曲か歌っているが)。
1987年7月18日
結局、その朝各々一旦自宅に帰り、それぞれの会社に平常出勤したが朝10時頃TELで、時間が有ったら来てくれとの連絡が入った。
午後3時頃彼の所へ行くと、喫茶ルームに誘われて意外な事を話し始めた。
要約すると、こういう事だった。
① 従来からの取引先(私の会社の競争メーカー)には不満が有っても改善意欲が薄い。
② 貴方の会社・と言うより貴方は信頼して付き合えると確信した。
③ 今後、何事も駆引き無しで付き合いたい。
④ 今後、私(彼)への面会は、アポ無しで何時来ても、会議中などで無ければ会える様にする。
これは 営業マンに取っては、最高の褒め言葉と、最高の厚遇である。
理由を聞けば、昨夜のカラオケ等での態度を見させてもらって本音で付き合えるかどうかを最終的に見極めさせてもらったとの事。
(過ぎた遠慮や機嫌取りの様な事が一切無く、最後まで気持ちよく付き合えたとの事だった)
その後
彼とはプライベートでもスキーや登山に行く等実質上の親友となり互いに転勤・退職などで離れることが有っても連絡を絶やさずに居たが、昨年10月京都で他界してしまった。 享年67歳、現代では少し早すぎる年齢だった。
「友」へ! そしてファンだった「石原裕次郎」へ! 安らかに眠れ!
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