「小名木川」とは?
時代劇・鬼平犯科帳や下町・人情物など小説やドラマの舞台としてよく登場して来る【小名木川】。
名前は昔から良く知って居たが、最近その小名木川の近くで仕事をする様になって、妙にその成り立ちに
興味が湧いて来た。 しかしこの川、調べてみたら納得行かない疑問を投げかけて来る。
そんな訳で、今回は東京・隅田川(深川)から荒川迄を結ぶ【小名木川】と言う “江戸草創期” に開削され、
江戸時代成立に重要な役割を果たした【一直線の運河】がテーマ。
まず、現代の「小名木川」とその地理的位置関係を簡単に整理して見ましょう。
◆ 小名木川全景イメージ(出典:国土交通省が航空写真5枚を元に作成公開のもの)
左側の大きな川が隅田川、右側の大河は現・荒川、更に右側の川が中川、小名木川の突き当りの
川が 旧・中川となるが、江戸時代のこの辺りは荒川と中川が合流して大河を成していたらしい。
◆ 小名木川を中心に、俯瞰地域を広げて見ると (Google Map より)
あまり聞き慣れない「前島」と言う名前と、「行徳」と言う地名、覚えていて下さいね!
現在の河川の流れ、これから話題にする江戸草創期とはかなり変化してますので現代の様相と
比較して見て下さい。
特に注目すべき河川は「利根川」、「荒川」、「中川」でしょうか?
春爛漫の「小名木川」隅田川口、河口付近
今年初めて見る小名木川の春、4月1日からの赴任地で、スッキリ晴れた日の撮影チャンスも無かった為、
桜の写真はこの日だけでスッキリと快晴の日の桜シーンは撮れませんでしたが小名木川から隅田川に出る
河口付近の現代の風景です。
正面の青い施設が水門で、東京湾の潮汐と隅田川上流での降雨などによる水位の変化に対して
小名木川の水位が上がり過ぎない様に調整する為の水門。
なお、すぐ向こう側には「萬年橋」が架かっている。
反対側・荒川口や、小名木川に繋がる各河川にも大河に繋がる出入り口に同様の水門を設けて
江東・ゼロメートル地帯を水害から守っている。 水門が開いている時は、隅田川まで見える。
高倍率ズームの為、遠近感に乏しいのですが、対岸は浜町・金毘羅宮付近の河川敷公園。
♪ は~るの~ ♪ うら~ら~の~ ♪ す~み~だ~が~わ~・・・なんて聞こえて来そう!
撮影日は変わって5月
萬年橋の向こう側が「新小名木川水門」。 撮影位置の左上が「芭蕉庵史跡展望公園」。
◆ 「芭蕉庵史跡展望公園」より小名木川河口と清州橋(隅田川下流方向)
写真左側が小名木川河口。(万年橋の写真は釣り人の左側の位置で撮影)
◆ この地域のマップ (出典:JTBパブリッシング「詳細地図で歩きたい町・東京2015」より)
そして、現「荒川」迄 一直線で繋がっているのが「小名木川」である。
「小名木川」誕生ストーリー
事実として伝わっている事を纏めると、以下の通りとなっている。
1.小名木川は德川家康の関東入り直後に造られた人工の運河である。(最優先で開削された)
2.その目的は【「行徳」(当時海水から塩を作っていた)の塩を運ぶ為】とされていた。
3.同時期に「道三堀」と荒川から旧・利根川(現・江戸川)を結ぶ「新川(船堀川)」
(既存の川)を整備して、家康は江戸城から行徳間の輸送路を確保した。
4.このルートは当初德川幕府が厳しく管理、一般人への解禁は約30年後らしい。
5.家康が来た頃の江戸城(太田道灌が作った城)は、湿地帯と海が囲む砦程度であった。
6.新領地・関東の早急な掌握と家臣たちの生活基盤確保のインフラが急務だった為の開削。
(恐らく、軍事面でも重要な役割、荒川・利根川経由で関東各地への機動力が格段にUP)
関東入りした家康達が見たであろう江戸城周辺の情景
◆ NHK「歴史秘話ヒストリア」よりのイメージ (東京地方放送:H27/4/22)
「歴史秘話ヒストリア」の放送タイトル : 「 がんばれ東京~泣いて笑って400年~ 」
家康による「江戸の城下町作り」
当時の地形
◆ 1,590年(天正18年)頃(便宜上JR主要駅や現代の外堀などの重ね記載あり)
(出典:法政大学エコ地域デザイン研究所編「外濠・江戸東京の水廻廊」より)
德川家康が関東入りした1,590年(天正18年)当時、江戸湾の一部の「日比谷入り江」
と呼ばれる海岸線が入り込み、およそ現在の外堀通りと内堀通りを挟むエリア大の前島が「
入り江」を守る形で存在していた。(現在の銀座~日本橋を含む図中の白い岬状のエリア)
家康の来た当時の江戸城の規模は、全体でも図中の「江戸城・本丸」程度のエリアに 城(
恐らく城と呼ぶには貧弱な建物)があり、城下町などは無く、周囲には田畑も殆んど無い湿
地帯に囲まれた武蔵野台地・最先端の高台だった。
家康が置かれた地勢学的背景
秀吉の天下統一は成ったとは言え、家康にとっては秀吉との間には確執もあり上杉・伊達等の
隣藩からの脅威に対しても一刻も早く自領の基盤固めをする必要が有った。
その基盤とは、
1.家臣達の生活基盤を確立・安定化する事
・・・・・「衣・食・住・物流」の インフラ 整備、日比谷入り江の埋め立て(家臣達
達の家を建てる宅地確保)及び「小名木川」「道三堀」の開削により彼等
や城中の生活物資確保を図る
2.城下町作り(経済活動の活性化)・・・商人等の厚遇招聘
3.領地・領民の掌握・・・・当然旧領主(北条氏)の影響力や、隣国との摩擦処理等へ
の効果的対応力が評価されれば短期に掌握出来る様になる
(圧倒的軍事力のデモ・・鷹狩もそのひとつでしょう)
4.秀吉に取って最大の要注意人物は、誰の目にも「德川家康」と写っている。
早急に対抗出来る体制(軍事力・政治力)を整えなければ
ならない。
5.北条が滅んだ後、上杉景勝・伊達正宗と言った有力大名の脅威が直接的なものとなる。
NHK「歴史秘話ヒステリア」による家康の「江戸」の町作り
◆ 利根川流域等河川上流域に豊富な米や野菜がある、行徳では塩の生産がある
利根川流域を中心に米や野菜の生産地が、行徳には塩田が有ったが、船で日比谷入り江迄運ぶ
場合、湿地帯や浅瀬が遠浅で広がる海を遠回りして運ばないといけないが、嵐等により安定し
ての物資輸送が難しい。(大船では浅瀬が多く、小舟では高波等に弱く欠航し易い)
そこで陸地に堀を設けて物資の輸送路を作ろうと言う事になり、行徳から荒川迄は既存の新川
に少し手を加えて使い、「荒川~隅田川」迄は小名木川を、「隅田川~現・和田倉門付近」迄
は道三掘を開削した。
◆ つまり、確実に運ぶには行徳から水路を舟で運ぶのが安全⇒水路(運河)を作れ!
と言う事で、「小名木川」と「道三堀」が 最優先で開削された。
(注)道三堀の一部は後年、平川を合流させて「日本橋川」となった。
また、城下町振興策としては、全国から商人や職人などをを募集して優遇し、商・工業の振興を
図ったとの事であるが、「小名木川」のテーマからは外れるので此処では省略します。
と、此処迄はだいたいどの資料を見てもほゞ大同小異。いわゆる定説である。
小名木川の不思議
小名木川のほゞ中間地点、現代の 四ツ目通り が交叉する地点に【小名木川橋】が有り、その橋の袂(たもと
)に「五本松跡」と言う標柱が立っている。(下記ストリートビューのひとコマを参照)
今は原木は無くなって後に植えられた松が有るが、江戸時代、此処には五本の松が有り、江戸の名所として、
著名な名所案内に2回も描かれた絵が今も貴重な美術品として残っている。
◆ 「小名木川五本松」の有った所、現在は標柱と後植えの松数本があるのみ
2枚の絵 :「江戸名所会図」と「名所江戸百景」の【小名木川五本松】
◆ 江戸名所会図の中の【小名木川五本松】
出典
古書(タイトル不明)
より抜粋
2,005年頃神保町
古本市で買った古書
の切り抜き保存版
出典
古書(タイトル不明)
より抜粋
同上、切り抜き保存版
ほゞ同じ場所から同じ風景を描いているのに何かがおかしい!・・・・と、思いませんか?
制作年代は、江戸名所会図が1,834~1,836年頃、名所江戸百景は1,857年と言われ、
約20年の隔たりがあるが、基本的な違いにお気づきでしょうか?
2,005年以来、私がこの切り抜きを持っていた理由はこの謎を何時か解いて見たいと思って居た
からです。
実はこの謎解きを既にされた方の本を見付けました。私も納得させられた内容ですが、取りあえず
「謎 !」のまゝとしましょう。
その内容については、次回投稿【小名木川 ー 2】でご紹介致します。
が、「皆さんも、謎解きにチャレンジ」して見ませんか? ーーー 続く ーーー