南魚・藤原に帰省し、13日夕方と14日朝に墓参りをした。ばあさんの話しによると、墓参りは昔は14日の朝だけにやっていたが、いつの頃からか13日の晩方にもやるようになった。
うちの墓参りは、13日は裏山にある墓に行くのだが、14日はそれに加えて村の入り口にある「六部の碑」、そしてついでにその近くにある小路(くうじ)あたりの墓に行く、というコースである。
今回の墓参りであらためて土改のことや村の移り変わりのことを思った。そんなきっかけになったものの写真を掲載してみた。
← うちの墓。昭和43年、魚野川東部開発事業のため外原の墓地をここに移したということが書いてある。めずらしい記載。墓はもとうちの裏を流れるザッポリの向こうにあった(今は田んぼになっている)ので、その辺を外原というのだなあ。墓を移動したあとの田んぼからはしばらく骨が出てきたと聞いている。
← 村の入り口にある墓の上手に並べられた石碑。手前が六部の碑。全国行脚の記念碑。向こうが太郎兵衛の記念碑。ずっと奥に青面金剛像がある。この列にあるものはすべて万年堂にあったものだという。
← 石碑の上手に建てられた消防小屋。なんとその横にあの半鐘があった!! 今までも見ていたような気がするのだが、まったく意識してなかった。今回あらためて発見。
藤原の人は知っているが、消防小屋も半鐘も昔は別の場所にあった。消防小屋はしろぜえむの向かいの角、半鐘はじろべえの前。もちろん姿も今と違う。
← 半鐘。すっかり錆びて赤くなっているが、今でも使うことあるのか?
← もひとつおまけに半鐘。
外原、と言うのは初めて聞いたが、それでピンと来た。
「そでっぱら」と言う言葉は聞いたことが有るな、と今思い出したところ。
外原とそでっぱらが同じ場所かどうか、断定はできないが、多分イコールなんだろう。我が家も雑堀の外に畑を持っていて、それを指しての「そでっぱら」だったんだとおもう。
いずれにしても土改前の外原、若しかしたらのそでっぱらは、今の秀一や亘、俺にとっての胸キュンエリアだ。
部落の共同墓地の石碑が、万年堂からのものだったとは、今回初めて聞いた話だ。
外原、そでっぱらというのか。
そこは昔、桑の木やなんかでこんもりした森か藪のようで、その木の下にミョッチへ行く道がトンネルのように続いていた。