大塚太良兵衛は1790年(寛政2年)に越後国魚沼郡五十沢舞台村(旧六日町大字舞台)で生まれ、石工として20歳から60歳までの40年間に約3000点の作品を制作した。「大福細工覚帳」によれば、作品は石塔・石仏なとの他に、囲炉裏石・石臼などの生活用具や根石・石橋などの土木関係品なども見ら れる。作品は五十沢・城内地区を中心に分布しており、大和町・塩沢町の一部にまで広がる。1850年(嘉永3年)10月3日没。享年61歳。戎名「慈雲玄道信士」。太良兵衡の墓は舞台の共同墓地にある大塚家の墓のすぐ背後に他の石塔と並んで立っている。 (ikazawa HPより参照)
火伏地蔵(新堀新田十二神社)↓
▲区内の中央の場所から今の十二神社境内に移築されたもので、小屋の中に安置されているために、長年の風 雨に直接当たらないため、肌が綺麗で造られた当時のままの状態で、ボリュウム感のあるお地蔵さんである。
この火防(ひぶせ)の地蔵様の大きさは丈130cm幅60cm。建立年代は台座に「文政4年辛巳(かのとみ)村中」¬かっこに▲ と刻まれている。(1821年)「大福細工覚帳」には「2分1貫200文也」と記されている。太良兵衛32歳の作。
言われは文政3年(1820)10月23日 新堀新田に大火があり、6戸が全焼失 した、そのために防火と無病・息災のために建立された。
昭和48年12月7日、区内延命院前にあったものを、雪の中、ソリに乗せて現在地に移す。毎年、8月24日に「地蔵びまち」の祭礼を行なっている。輪になって盆踊りも行なう。
二十三夜塔(新堀下諏訪神社 )↓
▲大きさは丈120cm幅30cm、建立年代は本体右側に「文化14年9月吉日丁丑(ひのとうし)」(1817)左側に「村講中」 ¬に▲が刻まれている。場所は新堀の下諏訪神社境内。隣の石碑のコブが気になった。
二十三夜供養塔 (田崎 日 吉神社境内”山王様”)↓
▲大きくて重量感のある「二十三夜塔」である。大きさは丈210cm幅70cm。建立年代は本体に「文化14年7月吉日講中」¬かっこに▲が刻まれている。(1817)
二十三夜塔(法音寺 亀福寺)↓
▲この「二十三夜塔」は大きさが丈165cm幅70cm厚さ40cm。建立年代は本体右横に「文化4年卯7月」龍海、前の灯り台裏に¬かっこ▲が刻まれている。(1807) 石工のやわらかい書体でぬくもりが感じられる大きな自然石の二十三夜塔である。
供養塔(法音寺)↓
▲「四国・西国・坂東・秩父供養塔」で大きさは丈240cm幅90cm厚さ60cm。建立年代は本体右裏に「文化12年玄?4月8日」前の灯り台裏に¬かっこ▲が刻まれている。(1815) 石工の凛とした彫り方が感じられる大きな硬い自然石である。
地蔵様(藤原墓地地内)↓
▲地蔵様の大きさは丈150cm幅50cm厚さ30cm。建立年代は本体台座裏に「文政3年辰2月」¬かっこ▲が刻まれている。(1820) 石工の手のぬくもりが感じられる地蔵様です。屋根がないため自然風化が少し進んでいる。
二十三夜塔(下原集落開発センター前)↓
▲「二十三夜塔」下原集落開発センター 前。大きさは丈230cm幅120cm厚さ70cm。建立年代は本体右脇に「文政2年8月吉日下原村」¬かっこ▲が刻まれている。(1819)太良兵衛30歳の作。手のぬくもりが感じられる大きな自然石で、重量感のある背丈の高い二十三夜塔である。下原交差点の栗田商店前に立てられていたものが移築された。
石仏(藤原地内墓地)↓
▲藤原地内墓地の石仏(菩薩)。頭上が前に反り返っている。右手をあぐらの上に突いているポ―ス。白い花崗岩で他の物と違う。左下に¬かっこに▲が刻まれている。
菩薩像の石仏は各集落の墓地に確実に点在している。気品のある石仏で目に着くことが多い。自然に手を合わせ石工、太良兵衛を偲んで見るのも楽しいものです。
知らなかったなあ。
……と云うより、こんなこと今迄全然意識したことも無かった。
ふーん、藤原、岡村巻の墓場の地蔵様(岡村巻全体の萬霊塔)の制作者が今でも特定できるんだねぇ。それも同じ人物の作品をアッチコッチで、それと分かる形で見れるなんてね。
話は変って………、
今迄回りの大雪と比べて、意外に穏やかな積雪で済んだらしかったが、今回の寒波による雪は凄かったらしい。義弟からも情報が伝わって来た。
本当にこれが最後の雪であって欲しい。
智道にはこれから1ヵ月程に渡る、魚沼の、心浮き立つ春の風景を見せて欲しい。
初めまして、ですよね。秀一です。
ちょっとびっくりしました。
私もタロベエさんのことは知りませんでしたが、今「新編城内郷土誌」やっていて知るところとなりました。ちょうどタロベエとその作品の写真を掲載する項があって、智通さんの写真と同じ作品の写真が出てきます。
こっちの解説の方が面白いですね。