この前、「新編 城内郷土誌」が手元に届きました。各集落の歴史や名所などを中心に興味深く書かれていた。その中に「新田堀(土井の堀)の由来」が書かれていた。
新田堀(しんでんぼり)と聞けば、私の住んでいる新堀新田かと思ったがそうではなかった。長森新田への堀であった。なんと今は田崎の山王様の深沢寄りの取水口から採っているが、約370年前にはこの辺に堀を掘った。三国川に堰を作って、田崎、法音寺、上原、長森、長森新田までの約三Kmの長い堀であった。
興味が湧き、今の「新田堀」を自転車で追って見た。田崎の山王様上手の取水口(分流)から始まって、
すぐ山王様の下のトンネル隧道に入り、そこから、開田の田んぼの地下を通り、千溝地区に出ていた。藤原川を通過し、上原川を通り、小学校前の伊藤屋さんの裏から地下に入り上原消防庫の脇を通って、薬師様境内に出て、サイホン方式で宇田沢川の下を通過して、暮坪に出ている。長森新田の田畑を潤おして麓へ出ている。
山王様の裏のトンネル隧道は昭和年代に機戒で掘ったと聞いた。昔の新田堀の掘削に関わる、関係集落との利害関係による争いなど貴重な記録が書かれていた。今も五城土改の幹線用水路として、その役目を脈々と受け継いでいる堀である。一方、新堀新田近くを流れる石万川(こくまんごう)は土改以降、幹線排水路として残っている。
この約三Kmの新田堀を追ってみて、昔の人達の水にかける思いがひしひしと感じる。取水口の水量に比べれば最後の麓集落の水量は微々たるものです。田植え時期は小さな水争いも多くあったことでしょう。渇水が少ない三国川水系から延々と引いた昔の人達の苦労が少しは解ったように感じた。
昔もこのサイフォン方式を使ったかは定かではない。上原の人に聞いてみたいと思っている。
なるほどー。いや~興味深い記事です。ありがとうございます。おれも辿ってみたことあるんですけど、そうなっていたとは知りませんでした。大きな疑問は、どこから「わき出てくる」のか、そして宇多沢川をどう横切っているのか? 上原の神社の先で宇多沢に流れ込んでいた川は新田堀とは別の川でしょうか。
はじめまして、以前にコメント頂きありがとうございました。
「新編 城内郷土誌」の編集、長い間ご苦労様でした。お陰さまで、興味がわく立派な郷土誌が手に届けられました。今少しづつ読んでいます。
ところで、新田堀は自分も知らなかったのですが、この郷土誌などで詳しく書かれていたので興味が湧いてきました。
堀を辿って見ると、扇状地形の城内を横に横断している長い長い堀でした。(田崎~長森新田)昔の人達の意気込みが感じられる堀でした。
秀一さんの「宇田沢川に流れ込んでいる川」は新田堀ではないようです。
小学校グランド脇を流れる野際方面から来る大きな排水路で、上原橋の下を通り上原地区下手を弧を描くように流れて行き、薬師様の下手で宇田沢川に流れ込んでいるようです。
上原橋の先が藤原橋です。藤原橋の下を通る、排水路(藤原川)は下手の幹線排水路の石万川(こくまんごう)に落ちている。
石万川(こくまんごう)の最後は下原新田の花水橋を通って魚野川へつながっている。
この石万川は藤原、法音寺、田崎、新堀、上原、上原新田、泉、下原、下原新田などの排水路を集めて大きな幹線排水路となっている。
今は幹線排水路としての役目であるが、かっては、新田堀と同じく、田崎から始まって、扇状地形の城内の裾野を横断して下原新田までの田んぼを潤していたのではないでしょうか。
サイフォン方式で川の下をくぐらせることで有名なのが、玉川上水と残堀川の交差だが………、
http://hakkaisan-photo.com/y-ok/2013/04/tamagawajosui-3.html#zanborigawa_kosa
宇田沢の下を同じ方式で通していたとはな、初めて知ったし、一度その積りで見てみたい。