「南魚沼市」と一致するもの

その始まりは何気なく撮影して回っていた故郷の棚田の片隅にひっそりと、しかし気高く咲き誇る
数群の野草の群れであった。
 
場所は 新潟県南魚沼市と十日町市を結ぶ国道235号線の沿線、発箇峠(トンネル)から十日町側へ
約1km位下った人家が見え始める直前の、左右に棚田が広がる付近
。  国道235号線両側の田圃の
畦道に生えた ツユクサの群れの各所に、掲載写真の様な風変りな小さな花のツユクサが群れを作っ
て咲いているのを発見
した事から始まった。 (名称:不明)
(普通のツユクサの群れの中に囲まれ、小さな花のツユクサが 0.5~1 ㎡ 位の島の様な小さな群れ
 を作って数ケ所に咲いていた ・・・ その時は国道235号沿いの両脇で、5ヶ所を確認していた )
 
   ◆ 新種? ツユクサの変種?  (2005年8月13日撮影)
           ・・・・・ 写真左後方の大きな花が普通のツユクサの花
2005.08.13 ツユクサ 001 (変種)R253十八箇峠→十日町寄り畔道にて(1280×955).jpg
 
最近では国道沿線の開発が進み棚田の趣も変ったり、人家も増えて来て当時の趣はなくなりつゝある
様ですが、当時は国道の両側に分散して普通のツユクサと混生していた。
 勿論、普通のツユクサは周りり一帯が群生地と言える位に密生していた。
混生と言っても、写真の様に小さな花のツユクサ群の中に、普通のツユクサがポツン・ポツンと咲い
ている状況で、その花の群れの隣には、普通のツユクサの花がやはり群れて咲いて居た。
(普通のツユクサの群れの中にこの小さな個体が混生している状況は無かった・・・数ケ所確認済)
小さい花のツユクサの特徴
   1.花の色が濃い青色である
   2.花びらの先端が丸く萎んだ感じになっている
   3.花の大きさは、普通のツユクサの 1/3~4 位 の大きさ
   4.草丈、葉の形状、色等は普通のツユクサと同じ
   (花以外では、普通のツユクサとまったく見分けが付かない)
などから、農薬等による「突然変異」か?とも疑って見たが、それにしては広範囲の田圃の畔や路傍
に植生が見られ、普通のツユクサも混植して居た。
2005年に見付けた時は深く考える事も無く写真を撮っただけであったが、以来11年間、毎年では 無
いが、この時期になると同じ場所 (付近) や 全国の行く先々で ツユクサを見付けると、探して見て
いるが、未だにあの花同じ花には出会えていない。
従って、農薬などに依る突然変だったのか、あの年だけで消滅したものだったのか、未だにミステリー
のまゝ
です。
 
添付写真では40~50本ほどの花の集団の中に数本だけ、普通のツユクサの花が混じっていたものです。
そんな花の集団が国道235号線の両側の田圃の畔際に計 5ヶ所は有ったと記憶していますが、2年後に
行った時には 1ヶ所 も(1本も)花が見当たりませんでした。(季節は同じ8月上旬)
普通のツユクサは、旺盛に咲いて居たし、大きく土地改良工事をした様子は見られ無かったと思う。
以降、同じ季節に何回か行っているが、やはり R235 沿線で見付ける事は出来ませんでした。
 
もし、花の名前をご存知だったり、何処かで同じものを見つけたら、是非 教えて下さいね!
宜しくお願い致します。
 
 
 
 

クリンソウ(九輪草) 再び

クリンソウ(2016.05.31)D.jpg

   「日光自然博物館」 ブログより写真借用、5月31日の開花状況です

 

今年もクリンソウの季節が始まっています

 

「クリンソウの群生地」の、イチ押しスポットを挙げるなら

   やはり日光中禅寺湖畔の【千手ヶ浜】が一番に浮かんで来る

 

此処のロケーションは、何回来ても 飽きる事が無い

ただ、最近は有名になり過ぎたせいか観光客が増えすぎて、休日や天気の良い日はゆっくり撮影も出来ない事が玉に傷。
それでも年に1回は行って見たくなる。

その魅力はクリンソウの花だけではなく、群生地の川や林などとのコラボレーションが、他では見られない 神聖な風景清涼感 を醸しだしてくれる。

私はそんな自然が好きでリピーターになった。

 

皆さんも一度如何ですか?  5/31(上の写真)の状況を見ると3~4分咲き位でしょう。
今月20日頃までは楽しめそうですね!  (最盛期は6月5日~15日頃か?)

広いコースには早咲き・遅咲きの場所があり、小雨程度なら結構楽しめる場所に苦労する事は無いでしょう。
ただし、雨の日は途中に泥濘(ぬかるみ)などがありますので行かれる方はキャラバンシューズなどの準備をお薦めします。

行き方や詳細については「日光自然博物館」ブログや、小生の過去ログ 【花ドライブ・九輪草群生地】2013実践編③ 等にアクセスして頂ければ調べが楽だと思います。

マイカー利用の場合は、首都圏からは平日約3~4時間位、我等の故郷・新潟県 南魚沼市からは金精峠ルートで約3時間位で【赤沼車庫】バス停に着くでしょう。 【赤沼】からは専用のシャトルバスを利用する事になります。

電車・バス利用の場合、都心からでも東部日光線で浅草から特急で日光へ行くルートなら充分日帰り出来るでしょう。東部観光では日光~赤沼間を直通バス運行するという話も聞いた事があるが未確認情報なので各位で調べてください。 【赤沼】からは、やはりシャトルバスになります。

 

地理的イメージ

   ◆ MAP 1  過去ログ【花ドライブ・九輪草群生地】2013実践編③ より 
中禅寺湖畔・千手ヶ浜(クリンソウ群生地).jpg

   ◆ MAP 2  「日光自然博物館」ブログより
kurinmap1.jpg

【アズマシロカネソウ】の季節

 

  【アズマシロカネソウ】と言う山野草をご存知ですか?

    漢字で書けば【東白銀草】、その花は可憐で小さくて

       清楚な中に華やかさがあり、見れば見る程美しい

 

   ≪お詫びと訂正≫ ・・・・・ 開花時期の件
   下記文中、南魚沼地方では【田植前後の頃】と書きましたが、今年の場合は4月初旬には
   咲いていたとの事でした。 小生の経験則だけで記載して居ました事をお詫び致します。

   開花条件は植生地域・地形・標高・気温その他が影響する為毎年同じには行かない様です。
   今年は極端に積雪量が少なかった事が原因かも知れませんが、この地方の開花時期につい
   ては下記の通り訂正させて頂きます。
    【開花時期】 誤 : 田植前後の頃  ⇒ 正 : 3月下旬~5月上旬頃の間の約10日間 

   なお、下記本文は便宜上原文のまゝ訂正しませんので悪しからず願います。

 

アズマシロカネソウ(東白銀草)は、主に秋田~福井(京都・丹後半島でも確認報告あり)の日本海側の山間地に分布。 中でも新潟県はその愛好者が多いせいか自然の個体数が多く確認されている地域です。

私の故郷、新潟県の南魚沼地方では田植え前後の季節に可憐な花を開く山野草で、山裾の清水が湧きだす様な谷筋の岩に着いたコケに着生したり水流や風で飛ばされた種で下流の砂礫が多い岸辺に着生しているものが多く見られる。
この山野草は清流の証と言った人もある位、綺麗な水の流れている岩場や小流・その脇の湿った木陰を好む。

山菜採りで【ミヤマイラクサ】や【ミズ】などを求めて沢筋を歩くと、時々見かける花だ
開花期が終わると魚の尾の様な形の小さな種になるが葉と同色になり目立たなくなる

近畿地方では絶滅種、京都府では絶滅危惧寸前種に指定されているが、我等の故郷でも見られる場所は極めて山の裾野や山中の沢筋に限られる様になって来た希少種。

 何とか植生環境を守りたいものです。

不思議な事に、京都府~山口県にかけて日本海側には【サンインシロカネソウ】と言う同属の山野草があるとの事ですが、写真しか見た事が無いので違いが良く解らない。 日本海側の京都府から福井県南部を境に南は【山陰白銀草】、北は【東白銀草】が分布し、殆んど混生している所は無いらしい。
その内、何かの機会に実物を見てみたいと思っています。
しかし、本州の同じ日本海側で、ほゞ半分づつを同属の植物が済み分けているなんて不思議ですね?

 

それでは、アズマシロカネソウの写真を!

   ◆ 故郷・南魚沼市の、とある水源地にて、 【妖精達の集い】と命名してますアズマシロカネソウ (雷電様にて 2007.04.16).jpg

   この写真の水滴は、アズマシロカネソウ自身が体内から夜の間に余分な水分を吐き出して出来た
   もので夜明けと共に再度アズマシロカネソウの中に吸い上げられたり蒸発して数時間で無くなる

   写真の花はまだこれから咲くもので、今日(撮影日)は一輪、明日二~三輪・・・と咲いたと思う
   

対象とする花は小さく下向きにうつむいて咲く為花を被写体とするにはマクロレンズや高級カメラが欲しくなるが根気と工夫があれば思い掛けない写真が撮れる。
掲載の写真も800万画素のコンパクトデジカメ(以下、「コンデジ」と表記)で、中々焦点が合わなかったり背景のボカシが少なく立体感が出なかったりしましたが、思考錯誤しながら20枚近く撮影したモノの1枚をトリミング補正したものです。
勿論、高級カメラとマクロレンズで有れば、1~2枚で充分満足な撮影が出来る筈ですが、持ち合わせて居ない時も私はこうして対応して居ます。

 ※ デジカメ時代の有難さは、パチパチ何枚でも撮れる、失敗写真は何回でも消去出来撮影し直せる事。
   メモリ容量も大容量化した昨今、失敗を恐れず色々な撮影を試みて、後から選別すればいい

   ただ、逆光時の対処にはデータの差が大きく画像編集ソフトを使っても補正に限界があり正確な画像
   の復元が難しい場合が多い様です。

掲載の写真は約10年前のものですが、中々、この様なチャンスに恵まれず、【妖精の集い 2】は未だ撮れて居ません。
 (関東地域に住み、仕事を持って居ると、やはりベストチャンスには中々恵まれない様です)

 

なお、「アズマシロカネソウ」のキーワードでネット画像を検索すると、花々の写真が沢山見られますので、一般の写真はそちらにお任せし、此処では省略致します。

 

【アズマシロカネソウ】のファンは結構多い様ですが、くれぐれも自然界の個体採収はご遠慮願います。
自宅で栽培したければ、栽培ものを購入して下さい (自然個体採取よりも育て易い筈です)

また、被写体が小さい為写真撮影の為に自然を踏み荒らす事の無い様、皆で大切に守りましょう。

 

  少子化現象は我等の故郷も抗し難く、近隣3校統合に伴い母校「城内中学校」を、増・改築の上、
  2018年度より新たに、統合校・【八海中学校】として発足する事になった事はご存知の方も
  多いと思う。

  今年8月末起工式が行われ、9月からはすでに整地工事などが始まっているので従来の姿を見る
  機会も少なくなりつつある昨今、我等【城中】卒業生の心の原風景とも言える学校の姿を一部で
  すが紹介しましょう。

 

桜の季節・【グラウンドからの校舎】

今年の春、何気なく撮影した城内中学校の写真ですが、今となっては来年からは姿を変えてしまう為、
【2度と見られ無くなった風景】です。

 ※ 9月から着工の新校舎が、下記写真の左奥に見える体育館(青い屋根)の手前に建つ為と、
    学校の正門が左の宇田沢川・堤防道路側に移る事で、この景観もかなり変わる事と思う。

   ◆ 2015年4月28日 (写真は複数枚の合成ですので不連続部分は悪しからず)
2015.04.28F _23 城内中学校付近より.jpg
2015.04.28F _13 B 城内中学校.jpg
2015.04.28F 28・29F _16B 城内中学校付近より.jpg

 

新な統合校は「五十沢中学校」「大巻中学校」「城内中学校」の3校で、【八海中学校】となる。

   ◆ 【八海中学校】 起工式 (南魚沼市 HPよりワンカット)
八海中学校起工式(2015.08.31).JPG

 

とは言うものゝ、我等の年代では現在の「城内中学校・校舎」も新し過ぎて馴染が無い人も多いでしょう。
と、言ってもこう言う事態は想定外だった為手持ちの写真は下記1枚しか見付からない。

   ◆ 昭和30年代(小生が中学校時代)宇田沢川対岸「暮坪山」の上から義兄が写した風景
S30年代上原 (1280×388).jpg

   ◆ 上の写真を八海山倶楽部仲間の亘氏が絵にしてくれたもの  (こちらが非常にわかり易いと思う)
S30年代の学校全景(小・中学校).jpg

    左に合同製糸の煙突が、右側に城内中学校と小学校(一部)が見える。 後に宇田沢川の
    氾濫で、手前に見えるグラウンドの大半が流失、冒頭の写真はその後に再建された学校の
    グラウンド。

   ◆ 昭和30年代写真の撮影場所  :  現代の「暮坪山」 ・・・ 頂上に杉が数本見える所
          (右奥に続く尾根の山が「鬼の面山」、宇田沢川に落ち込む崖が「鬼の面」)
2015.04.28F 暮坪から鬼の面.jpg

    3月末、南国育ちの義兄が【凍み渡り】をしたいと言うので一緒に登った時写してもらった
    写真が思いがけない記念写真となった。

    此処から見える暮坪山の斜面は、春先にカタクリが真っ先に出て、麓(集落名)の六万騎
    山に匹敵する位(?)の群落が見られた所だった。 

    最近では山が人々の生活様式の変化で (芝刈り等の手入れが無くなり) 放置された為 、
    カタクリも減り、山頂の杉迄辿り付くにはかなりの藪漕ぎを覚悟しなければならない様だ。
      (何年か前、右側杉林から登ろうと試みたが昔の杣道は雑木の藪で消えて居た)

 

☆ 出来れば何処かに年代ごとの学校・城内関連写真を集めたコーナーでもあればいいかもね!

 

 

柏崎刈羽原発も再稼働へ? 【1】

 

鹿児島の「川内原発」は再稼働、いよいよ商業運転に入った。


予想された事とは言え「安保関連法」国会で足踏みして居た「原発再稼働」の流れが近く再浮上する事は間違いない。
恐らく今の政治体制が大きく変わらない限り、原発推進派に追い風が吹くのは間違いないと思う。

私は原発と言う手法そのものには、全否定派では無い。(エネルギー政策のひとつとしては有りだと思う)

ただ、

  ① 1基当たりを巨大化してしまった為、リスクも巨大化した現行原発での再稼働
  ②  使用済燃料(核廃棄物)処理問題をなおざりにしたまゝの再稼働


には、明確に反対する立場である。
 

そう言う観点から見た現状の「柏崎刈羽原発」は規模の上で、日本でも1・2を争う原発で、首都圏電力の供給原を目指して作られた施設、この巨大化した施設では、東日本大震災クラスの地震・津波の再来に耐えられると言う保証は疑わしい。

   ◆ 柏崎刈羽原子力発電所 (google Map より) 
柏崎原発.JPG

   ◆ 柏崎刈羽原発から30km 圏エリア 概略(目安)
柏崎原発MAP 1A.jpg

  (講談社発行ブルーブックシリーズ「日本の原子力施設全データ」(2012-2-20版)より)


福島の原発でも、計算上は安全だったはず・・・想定外の規模の災害と言うが、過去の歴史では貞観地震(869年:平安時代)と言う震源地も地震の規模・津波の規模も東日本大震災に非常に似ている地震が記録や被害地の調査結果等で実際に起きていた事が知られていた。にも係わらず、原発設置に当って調査・分析した形跡が無いとの指摘もある。
   (もしそうだとすれば、「想定外の災害・・・」の言い訳は論外であろう)

地下水脈が縦横に走る土地に現在の様な巨大な施設を作るのでは、いくら耐震規格を満足させたからと言っても所詮人間の考えた想定内のもの、制御不能・想定外の事態になっても他の方法で速やかに安全対処出来る大きさ・規模に絞る必要がある。
“福島の事故”はその現実を、様々な現象で見せつけている。

事故のトリガーは【地震】と【津波】であるが、それ以降の問題は人為的に予防できる現象。
【福島に見るこれからの原発設置で考えるべき主な問題点】は、例えば

  ・ メルトダウン対策  ・・1基辺りの燃料が多すぎて炉底を突き破る現象が出た。
                 本来なら有ってはならない現象、対策が軟弱だった。
                (想定外と言うにはあまりにもリスクが大き過ぎる)

  ・ 冷却(汚染)水漏れ・・・施設が巨大化する程パイプの総延長が延び、長さに比例
                して、冷却水漏れのリスクは増大する。

  ・ 地下水脈への汚染水漏れ・・・これについては過去の教訓・想定がなかったのか?
             ・・・そもそも、原発設置検討時に地下水脈の把握をして置く
                べき事と、万一の為の対策を施して置くべき事が教訓。

  ・ 施設が巨大   ・・・大きくなる程、耐震構造・事故対応が難しくなる

  ・ 汚染物質拡散情報のリアルタイムな公開
             ・・・季節風と近隣都市への拡散情報が後手後手で不審を買った

  ・ 広範に汚染レベルの高い汚染物質を撒き散らした結果
             ・・・故郷を離れざるを得ない人々、汚染風評被害で喘ぐ農林魚業、
                未だ先の見えない被災者達は、津波の被害の何倍も重荷を背
                負わせられているのが現状と言える。

 

もしも【柏崎刈羽原発】で  真冬に【福島原発】相当の事故が起きた場合


 【積雪が福島の被災地の数倍の「上越・中越」を中心に季節風に乗った汚染物質が撒き散らされる】
 事が想定される。(魚沼市・南魚沼市も、間違いなく被災地域になるでしょう)

     厚い積雪に降り積もった汚染物質は、春先に濃縮されて地域一帯に流れ出す。
     これは福島の被害とは異なり、より甚大な被害が推測出来る。


悪い事に越後山脈で上昇した雪雲が、上・中越に折り返して雪となって降る事から、この地域へは汚染物質が二重に降り積もる事になり、単純に30km 以上離れて居れば安全・・・なんて論理は成り立たない事を知って置く必要がある。
また、雪道の避難行動も、福島のケースと違い秩序ある避難が出来れば別だが現実には困難を極める事が予想される。
 

そんなワーストケースを考えると、今のまゝの【柏崎刈羽原発】再稼働  は、数十万人以上の人生を苦境に落し入れ、莫大な負債を負うリスク が有る事を考えなければならない。
 

私の考える原発は、【人間が容易に制御できる範囲の小型化が望ましい】と考えており、1,000戸~10,000戸単位程度の規模の電源供給を基本として原発を分散して作るのであれば耐震構造も津波や地震対策が取り易いはずである。
更に、最悪の場合でも様々なリスクをより小さい範囲に収める事が出来るでしょう。

複雑にプレートのぶつかり合う日本の大地には  揺れても 安全・【コンパクトな原発】こそが必要と、思っている。

現実に、原子力潜水艦や人工衛星で小型原子炉を稼働して制御も殆んど問題無く運用されている実績がある。
従って、技術的には実現可能な話である。勿論、建設コストなど巨大な物を1基作るのと、小さな物を多数作るのでは、合計は大きな物1基の方が安いかも知れないが、事故・災害に対するリスクと安全性では極めて有利になるはずで、数多く設置する必要があると言う事は、建設コストも低くなる可能性も大きい。
 

② の核廃棄物処理については、やはり政治的に透明性のある処分方法をまとめないと問題が残る

 

しかし、今のまゝだと必ず、現状設備の早期再稼働の次なるターゲットとして急浮上するだろう。

その際、原発再稼働の是非を問う論議が、今国会の「安保関連法案」の様に、満足な安全検討も無く数の論理でゴリ押しされない様に、今から備えて置く必要があると思う。

 

政治的な事については他の人にお任せするとして、次回からは「地盤」「地形」の観点から現状の【柏崎刈羽原発の安全性】を再確認して見よう!

河津は少し遠いけど

本格的な桜の季節には、まだ3週間位あるけれど、ひと足早い【桜の話】

河津桜の系譜、神奈川県・松田町、松田山の桜が 先日(3月3日現在)5分咲きだそうだ。

河津は遠いが松田山なら近い、東名「大井松田IC」を下りてすぐ、松田山西平畑公園がその場所。 
今、【桜まつり】の真っ最中。 (写真は観光協会パンフのワンカット)

   ◆ 【まつだ桜まつり】観光パンフレット抜粋
桜まつり(松田山ハーブガーデン).JPG

   【松田桜まつりの詳細はここ【松田町公式サイト】からアクセスしてご覧下さい。
    最新の開花近況確認や上記掲載パンフレット(PDF
)のダウンロードも出来ます。
 

ここは、天気が良ければ富士山も見えるし、菜の花もこれに合わせて咲かせる為、ロケーションに恵まれた
山上公園である。

東京からなら電車が便利だが、渋滞を別にすれば車で2時間前後、私の故郷・南魚沼市からなら、関越道⇒
圏央道⇒東名と高速道路を乗り継げば、3~3時間半位で着ける距離でもある。
 (六日町ICから西平畑公園迄、片道約260kmの距離)

長距離運転の不得意な人でも、2人以上の運転手が居れば楽勝の距離でしょう。
天気予報と相談して、およそ3週間位早いですが、桜見物はいかが?
近くの小田原・箱根や富士山周辺と組み合わせても面白そうですよ。

でも、途中渋滞ポイントが何ヵ所も有る事を考えると、電車と言う選択肢も 此処なら便利でしょう。
小田急新宿から新松田駅迄直通一本で、またはJR御殿場線・松田駅へ。 そこからはシャトルバスがある。

 

出来れば私も行きたいと思っていたが、どうやら今年は行けそうに無い。 ・・・ 残念だなあ!

ふるさと今昔物語 Part -2

           「ふるさと今昔物語 Part-1」  より続く

 

再び、実家の周辺図から始めましょう。

   ◆ 不完全ですが、「昭和30年代の屋号」上原十字路下(しも)の図
       本図は小生の記憶の範囲で作成、後日修正版との差し替えを予定中。
S30年代上原十字路(下).jpg

    上図中、少なくとも実家を中心とした薬師様・役場・鎮守様・映画管周辺のエリアについては
    間違い無いと思う。(城内文化・映画館通りの上下エリア)

 

【新田掘】

我が家の前の川が【新田掘】で、上流は田崎の先、【三国川(さくりごう)】・深沢(ふかそう)の八ヶ堰から取水して上原のほゞ中央を横切り、【宇田沢(うだぞう)川】の河底を潜り、長森新田の灌漑用水として、現在もその田畑を潤している。

   ◆ 我が家の前での【ママ探り(魚の手掴み漁)】 ・・・・ ヤマメやイワナも捕れた
故郷の昔 - 020 (抜粋).jpg

   注 : 前の家に渡る橋がコンクリート製になっている (以前の写真では木製の橋)

実はこの灌漑用水、徳川・四代将軍家綱の時代、藩(越後高田藩)の「米(年貢米)増産」政策での長森ヶ原新田開発計画が発端
山懐の浅い宇田沢川の水量だけではそれまでの田畑で限界があり、山懐の深い三国川の豊富な水を引こうと言う事になったのが理由。
しかし、これには藩内では裁き切れない反対運動が起き幕府を巻き込んだ裁定の結果計画通り推進となったと伝えられている。
   (最新版、「新編 城内郷土誌」より、
             以下の内容も、同郷土誌の解説に私の推論を加えたもの

単なる村人の反対運動だけでなく、当時まだ寺領や格式が10万石(これは?)相当の【法音寺】が係わって居て、その結果は反対運動側の敗訴、法音寺も反対の立場だった。 (法音寺の場合、工事に伴って寺領地の削減などの不利益生じる為)
現在の法音寺の侘しさを考えると、もしかしてこの事件が凋落の一因ともなっているのかも知れない。

法音寺の件は、別の機会にするとして、新田掘の規模は、とても江戸時代初期のものとは思えない大工事を行って作られている事に、今でも驚かされる。

私が実際に見て感動するポイントを幾つか挙げると、
   ① 測量技術
       三国川から宇田沢川を抜けて長森新田に流す為の傾斜をどの様にして作ったのか?
       直線では無く干溝からハコドヨ迄の傾斜丘陵台地を、深さ10m以上まで開削して作っ
       ている。
       もっとも、もし自然傾斜で流すと地形的に丘陵台地の端、石万川(ごくまんごう)と並
       行に流すしか無くなり、長森新田の半分も灌漑に使えなくなる事も想像出来る。
   ② ハコドヨ(水路の大規模立体交差点)の発想
       実は新田掘開削前からの川だったものと思うが、私の知る限りでは湧水等の水源を持た
       ない川の様で、雪解け時期や雨の後数日で干上がり、灌漑用水の役割は少なかった様だ
       が、雨が続いたり集中豪雨の様な時は異常な増水が見られた事から災害対策の安全弁的
       な川であった様だ。
       因みに下流でも石万川に合流させずに下原新田で宇田沢川に流していたのも同様の理由
       からと思われる。
       従って、人家の多い方に向かって流れる新田掘に合流させると災害も予想される為、立
       体交差で従来通りの方向へ流す構造を作ったものと思うが、発想が凄い。
       ハコドヨの上流は杉や雑木の林に囲まれて藤原まで続いていたが、その川ををミズオシ
       と呼んでいたのも「水が押し出して来る」と言う意味だったのかも知れない。
   ③ 宇田沢川の川底を渡して長森ヶ原の新田開発が出来ると言う発想
       これは当時としては奇想天外な発想で有った事と思う。
       この発想をした人とそれを認めて実行した高田藩為政者に敬意を表したい。
       先に書いた反対運動や技術的な困難等、余程の実行力が無ければ成し得ない事である。

   注 :  「新編 城内郷土誌」の中では高田藩主を「松平上総之輔」とだけ記載している為誤記
       かどうか、真偽はわからないが「 松平姓」で「上総之輔」と言う高田藩主は存在せず、
       【松平上総介(かずさのすけ)忠輝】と言う藩主が居た事は有るが 四代将軍家綱の時
       代にはすでに改易されて後任が2代も代わっている。
       将軍家綱の時代の藩主は【松平越後守(えちごのかみ)光永】、この頃家老・小栗美
       作(みまさか)と美作が招聘した家臣・河村瑞賢(ずいけん)の指揮で新田開発・殖
       産興業等を行った事が周知の事実として記録されている。
       つまり、【「新田掘 開削事業]と「長森ヶ原の新田開発」】はこれ等藩政の一環事業
       のひとつで有った事が推測できる。
       小栗美作や河村瑞賢が推進者として係わっているなら、奇想天外な案も有りだろう。

 

【新田堀】の現在 ・・・・・ (実家周辺) 

    以下現在の写真は Google Map ストリートビューよりの画像です。

   ◆ 実家前 : 新田堀は道路の下を流れている
sv 実家.jpg

     道路の中央は消雪パイプのラインで、新田堀はその右側の舗装の下を流れている。
     左側、沼田屋の向こう、県道を越えると新田堀が道路の左に姿を現す。

   ◆ 県道から先の新田堀 ・・・・ 道路の左側     (この写真は自分の撮影)
2007.05.21 _ A (1280×711).jpg

     左に現われた新田堀、宇田沢川堰堤道路(薬師様や墓地のある所)の手前で土管に
     吸い込まれ、対岸の長森新田で再び地上に現われる。

   ◆ ストリートビューが行ける限界、薬師様は右手前の家に隠れて見えない
sv 上原・薬師様.jpg


再度、実家前より新田堀の今

   ◆ 映画館通り、左右の風景 (新田堀・下流方向)sv 新田堀下流方向.jpg

   ◆ 映画管通り、左右の風景 (新田堀・上流方向)
sv 新田堀上流方向.jpg

     この写真の道幅のほゞ中央から左側(橙色の線の間)が【新田堀】、赤い鉄の板は
     消雪作業時などに開けて使う部分のフタ。 (右端は普通の側溝で、雨は新田堀へ)

     昭和30年代はこの道の突き当りに、【城内文化】と言う映画館が有った。
     (突き当りと言っても当時の突き当りは、奥に見える三角屋根の家位の場所)

もう一度、県道の上手(八海山方向)と、下手(下原方向)
   (下手は県道がカーブの為、鎮守の森迄しか見えない)

   ◆ 沼田屋前から左の道が上原十字路から山口・八海山方向、右は映画館通り
sv 沼田屋角から八海山方向.jpg

     冒頭の「昭和30年代地図」にも記載した、昔の薬師様の境内に有った「半鐘」が、今は
     こうして消防小屋の前に吊るされている。 (やはり懐かしい気がするものだ)

   ◆ 下原方向 : 正面の杉が数本見える所が鎮守の森 (今は林とも言えないが)
sv 旧役場前から鎮守様方向.JPG

     昭和30年代は鎮守の森と呼ぶにふさわしい杉林の中に、ご神木と言ってもいい欅の巨木が
     そびえていた。
     そんな神社の境内で、毎年行われた盆踊りも、今はただ懐かしい思い出だけになってしまった。 

 

 

昭和30年代の遊びと「自然の味覚」・・・自然の中で!

     ※ この時代、子供と言えど大人の手伝いが多く仕事の間に行われる遊びも多い。
       それ等は遊びと言わないものもあるかも知れないが、私の独断で代表的な幾つかを!

【春】 3月~5月 (魚沼地方:南魚沼市・湯沢町・十日町市・魚沼市周辺)

  ◆ 凍み渡り ・・・・ しみわたり (魚沼地方の表現) ・・・ 仕事上でも活用
       ・ 雪国であれば何処でもする事だが、全国的な共通表現かどうかは不明。
        雪国以外の方の為に、現象の概略
          冬から春に季節が変わる時、大量に積もった雪は春雨や温かくなりつつある南風
          や日中の陽光で、溶けた雪の水滴で表層と大地両側から雪質はザラメ雪に変わる。
          この状態で、昼の間に溶けて表層に残った水滴が、夜間の寒気で氷結し最中の皮
          の様に雪面が凍る。 これが何回か重なり、次第に表層の氷結層が厚くなり、や
          がて人が乗っても沈まなくなる。
          これを利用して、道以外の雪上を移動手段に使う事を【凍み渡り】と呼んで居る。
        遊び : 通常、地上で行う遊びはほとんど実行可、以下はこの時のみの遊び
         ・ そり(橇)遊び      ・ ウサギ・キジ・ヤマドリ追い(捕獲猟)
         ・ 杉っ葉(すぎっぱ)滑り・・杉の葉を尻の下に敷き山の斜面を滑り降りる
         ・ ドッポ(この呼称は城内でも知らない人が多い様だ)
             「落とし穴」の事、表層を丸く切り取りフタにして、その下に穴を掘り
             下に罠を仕掛けてシカ・イノシシ等大・中型動物を捕獲する猟だ。
               (熊には使えない法方らしい)
             子供達の遊びでは罠は無く、危険の無い様浅く掘って悪戯に使った。
         ・ スキー、その他
        仕事・手伝い : 遊びとは言えないが、凍み渡りを利用した作業
         ・ 施肥・肥え撒き
               ・・・施肥と消雪の目的で、人や牛馬の糞尿・堆肥を田畑に撒く作業
         ・ 灰撒き・・・・・・・・青菜(青物野菜)の畑や稲の苗床等の場所の消雪目的
         ・ 炭出し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・炭焼きした木炭の出荷(運搬)
         ・ 山林伐採と運搬・・・・ソリが使え、大きな杉やヒノキ等が運び出し易い時期
         ・ 春山・・・・・・・・・・・・・山林管理やマキ(燃料等の為)の柴刈り作業
         ・ 杉っ葉拾い・・・・焚きつけ(点火)用に杉の葉の枯れ葉を集める子供の仕事

     【注意】 凍み渡りは目に見えない危険もあり、地形を知らない所は行かないのが原則
           夏から秋には水が枯れてしまう様な小川でも、雪解けのこの時期の水量は半端
           では有りません。 また、雪原に隠れた小川の上はアーチ型に抉られて、非常
           に薄くなり、人が上に乗ると、まさに落とし穴(ドッポ)の様に抜け落ちて、
           冷たい水に押し流されて亡くなると言う事故も少なく有りません。
           地元の人でも深い霧に包まれたりすると、雪原の中では方向感覚が狂い、事故
           に遭った事例が有る程、むやみに凍み渡りをする事は危険を伴います。
           特に温暖地域から来られる方々は地元の人に良く確かめて、くれぐれも 知らな
           いエリアに足を踏みいれない様ご注意下さい。

  ◆ 山菜採り ・・・・ 当時は主に自分の家で食べる為に採っていた
         ・ アサヅキ堀り・・・・主に雪解け直後の場所に芽吹く黄色いモヤシ状の新芽。
                     土改(土地改良)後はあまり採れる所が無くなった。
                     最近秋田・山形の一部では、栽培品を別名で売ってい
                     るが、日に当てて栽培しているので普通のワケギと変
                     らない様だ。 それに比べて雪の下からのアサヅキは
                     生で味噌を付けてもヌタや味噌汁等に使うと美味しい。
         ・ 木の芽摘み・・・・・ 魚沼地方ではアケビの新芽(蔓の新芽と葉の新芽、両
                     方とも食べるが、メインは蔓の方)を木の芽と言う。
                     因みにサンショウの葉も最近では木の芽と言うらしい。
         ・ 竹の子採り・・・・・・言わずと知れた、根曲り竹の新芽 (5/末~6月)

         ・ その他・・・・・・・コゴミ、ゼンマイ、ワラビ、ウルイ、ウド、etc.

【夏】 6月~8月

  ◆ トンボ捕り・・・早朝、小川の縁の草を利用して夜の間に這い上がったトンボのヤゴが羽化
            して、まだ飛べないトンボを採集して来て飛び立つ迄を観察する
            (注 : 羽化の途中で羽を掴むと変態が途中で止まり羽が歪み飛べなくなる)

            遊びの対象は、やはりトンボの王者、ヤマドンボ(オニヤンマ)。
            その、羽化したばかりの時は全身が黄色なのに、時間と共に黒と黄色の鎧の
            様な体と大きな透き通った四枚の羽に変わって行く。
            特にヤマドンボのメスはオスより一回り大きな体型で、見飽きなかった。
            当時は捕っては来たが、無事羽化が終えて自然に飛び立つのを見て満足した
            ものである。  (勿論、羽化現場の自然の中で観察する事の方が多い

  ◆ トンボ釣り・・・こちらは日中、やはり殆んどがヤマドンボを対象の捕獲遊び。(他のトンボ
            でも同様に出来たが、遊びとしての面白味は格段に違った様に思う)
            ヤマドンボのメスは小川等の小さな綺麗な水辺をテリトリーにする習性があ
            り日中はこのテリトリーを往復している事が多い。
            そこで、この(主に)メスを網等で捕獲して、これに糸を付けて囮にする

            この囮で多くの場合はオスが飛んで来て、交尾しようと絡み付いた所を捕ま
            える。 この場合、手で簡単に捕獲出来る。
            この捕り方を、トンボを釣る(魚釣りになぞらえてか?)と言う
            別のメスのテリトリーで放すと、攻撃する為か、やはり絡み付く場合があり、
            これも捕獲し易いが、この場合素早くしなければ逃げられる確率も高かった。

  ◆ セミ捕り・・・・これは全国同じ方法だと思うので省略。 ただ羽化について少し参考迄に!
            私の場合、羽化の観察は大抵近くの鎮守様が一番の観察スポットで、アブラ
            ゼミ、ミンミンゼミ、ヒグラシ等の羽化が、晴れた日の夜明けから日の出頃
            迄、飽きさせる事無くあちこちの木の幹で続く。 これは捕ると言う目的よ
            り観察が主で、意外に感動させられたのはアブラゼミの羽化直後
            成虫としてのアブラゼミは良く知られている様に、ミンミンゼミやヒグラシ
            に比べ全身(羽も含み)焦げ茶色系の地味な色をしている。
            それが幼虫から脱皮した直後から羽が伸びきって数分の間全身が【黄緑色】
            のセミが出現する、やがて全身が変色して見慣れたアブラゼミになる。
            その色彩の変化が成虫とのイメージの落差が大きい事に、感動したものだ。

            そう言えばトンボも脱皮直後は黄緑色系の体色で、ミンミンゼミやヒグラシ
            も、なぜか黄緑系の色で羽の成長が完結すると、それぞれの種の本来の色に
            変化して行く。 (ハチやカブトムシも、脱皮直後は黄色系だったと思う)
            脱皮する昆虫に共通で、血液か何かのホルモンに秘密があるかも知れないが、
            これは大学か何処かの研究所にお任せする事にしたい。
            クラゲで貰った人も居る、もしかしたらノーベル賞級の秘密があるかもね

  ◆ 魚捕り・・・・・これについては城内地域独特と言うものは無いが、清流の流れる宇田沢川と
            三国川、そして魚沼盆地を貫いて流れる魚野川。
            それらの河川を主な水源として、縦横に張り巡らせた田畑の小川や導水路が、
            その遊びの場である事から、主に以下の様な遊びになる。

            ☆ ざっこすき(雑魚すき=すくい) 
                     ・・・・「ドジョウすくい」と同じだが、網を使用して
                          小川や水路等での追い込み漁

            ☆ 魚突き(「ヤス突き」とも言ってた様な?) 
                     ・・・・ まさに「ヤス」で突いて捕る漁

            ☆ まゝ探り(前出) 
                     ・・・・ 大きな石や岩の下に出来た窪みに隠れている
                          魚を素手で捕まえる漁
             ※ 岩の窪みや石垣・堰堤の隙間、大きな石の下等を【まま】と言っていた

                    ◆ 

                    ◆

                    ◆

                    e t c .

 

今、我々の故郷でさえ冒頭の写真の様な「ママ探り」や「トンボ釣り」、「杉鉄砲」等、自然の中での遊びをする子供達の姿はほとんど見る事が出来なくなって久しい。
勿論、そう言う自然が少なくなっている事も事実だが、私はすぐ身の回りに遊びの環境が有っても遊べない子供が増えている事に危惧を感じている。

子供達の、【創意工夫】【社会性・協調性・思いやり】【ケンカの限度・危険察知力】【忍耐力】等々は、TVゲームや学校教育で醸成される事よりも、日常の遊びの中で学び・実践しながら覚えて身に付くものではないかと思う。 

一方、家庭内でも家族構成の分散化と仕事の形態が教育環境と乖離(かいり)して、利益優先の社会システムが躾けの崩壊を促進させている。 (経済的弱者の急増も問題)

小人数で、自然の中で、そこに有るもので創意工夫をし、遊ぶルールも自分達で作りながら意見を交換又は戦わせ時にはケンカもしながら自分たちの社会を作って行く事で成長して行く事が本当の教育だと思う。
今の様に無闇に大人が干渉しない。 ただし、放任・無関心は最悪の事態を招く可能性大。
社会秩序を外れたり、危険な行為についてのみ助言・支援をする程度がベスト。

ただ、現代の親世代が、すでに【個の時代】と叫ばれ【TVゲーム】【遊びよりも塾】優先の教育環境で大人への道を歩いた人々の為、急に【子供達を自然へ!】なんて言っても笑われてしまうかも知れない。

しかし、最近の異常な犯罪や限度を知らない若者達の暴行事件、折れ易い精神が原因と思われる切れ易い人の増加が、形を変えて我が子への虐待・・・等々の現象を引き起こしているのではないかと思われる。

詳細な分析はしてないが、本質的な問題点の7割以上が子供時代の躾け環境と育て方に原因があるのではないかと思われる。
従って、これからは学校の授業以外の教育に自然の中での、遊びを通じた情操教育】が、見直され、重要視される時期に来て居ると思う。

発想を変えれば → ビジネスチャンスにも !

首都圏に近い自然も多い我等の故郷は、そんな社会に【子供達の情操教育の場】として廃校などを利用して短期カリキュラムなどを提供すれば、新しいビジネスチャンスが生まれるのでは? と思う。 (南魚沼市全体での取り組みがベスト)
もし、実現すれば子供達の合宿場所の他に、期間(1週間~1ヶ月単位位)中に親達の出入りも予想されるので土産物・道の駅や温泉等の需要も期待出来る。 (あくまでも私見です)

 

ふるさと今昔物語 Part -1

この「八海山倶楽部」の仲間、智通君の投稿【懐かしい昭和30年代の上原家屋図】に触発されて、少年時代の古い写真を探して見た。

昭和30年代と言えば、まさに我々が少年時代を過ごしたその時期である。
ただ、実際に写真や資料を探すとなると、学校の卒業記念アルバムや文集など僅かなものしか無い事を痛感させられる。

私の場合、その卒業アルバムや文集なども、転勤先の住居で「阪神淡路大震災」に遭い、住んで居たマンションの上階で下水管が破損、居室内に漏れて来た下水の為に思い出の写真や文集など書類の殆んどを失ってしまった。
そんな状況から僅かに残された写真の中に、義兄(姉のダンナさん)が帰省の都度撮り溜めた写真が数枚残って居たので、今回はその写真と、智通の作ってくれた【昭和30年代上原家屋図】、Google Map(ストリートビュー含む) 等から得られた画像を元に構成してみました。

 

故郷の現在と郷土史の城内全図

   ◆ 南魚沼市の中の故郷周辺 (Google Map より)
六日町・城内 MAP A.jpg

最初に、私達の故郷の昭和30年代を語るには、その頃の行政区割を知っているとわかり易いでしょう。
そう、何回かの市町村合併を繰り返して現在の【南魚沼市】となった訳だが、我々の故郷はその頃【城内村(じょうないむら)】と呼ばれる地域で、現在は学校名等の施設名の一部にその名残りを残すのみで、住所や地名からは【城内】の名前は消えてしまった。

上記のMAP(写真)の左下から上に向かって流れる【魚野川】と、写真下部の中程から左上に向かい魚野川に合流する【三国川(さくりごう)】、それに【桂山】【高倉山】【阿寺山】【八海山】【猿倉山】【六万騎山】から【魚野川】を繋ぐ線で囲まれた地域が、【城内村】とされていた。

   ◆ 城内村全図:昭和35年発行「城内郷土誌」より (I Nagumo 君ご好意による)
                     (下記地図の中で〇印・上原(かみはら)が私の実家周辺)
城内村全図(S35年発行・城内郷土誌より)  (1280×749).jpg

   ◆ 現代の観光周辺Map (南魚沼市観光協会発行パンフより抜粋)
六日町周辺マップ.JPG

   注) このMapは便宜上約90°程、右に回転して作られて居ます。(左側が南、右が北)


さて、ちょっと寄り道になりますが、故郷は今【秋真っ只中】。 
山では紅葉が始まり、里では秋の味覚が色々と登場して来て居る頃、今では中々見る事はなくなったが 私達の少年時代、下記掲載の写真の様な【ハッテ(ハサ掛け)】が、家々の回りや畦道沿いに所狭しと並んで居た事を思い出す。

   ◆ 【ハッテ】掛けの風景
      (数年前のNHK番組のワンシーン/画面写真だけなので番組名・場所不明)
ハッテ 1B  (814×534).jpg

私達が子供の頃の【ハッテ】は横には竹竿などを使ったと記憶しているが、この映像はナイロンの綱の様でより密集して干されている様に思う。
こんな所も近代化した訳だが今はそれも殆んどがカントリーエレベーターで強制乾燥・選別・貯蔵用処理する方式に変わっている。

それにしても、この「稲束を投げ・受け取り干す所作」が、懐かしいのでつい写真に残した。
風景としては残して行きたい光景だが、この後の脱穀や選別等の手間を考えると、TPP対策は別としても労働環境改善の為には不可欠な事だろうと思う。

そうそう、その当時【稲刈り(手刈)】と、【ハッテ掛け】【ハッテ外し(降し)】の作業に関連した【稲束運び】の手伝いがモッパラ子供達の仕事になる訳だが、【稲刈り】や【稲束運び】を手伝った初日の夜は、体中チクチクと痛痒くて眠れない事が有ったなあ!
(次の日位から体が慣れて殆んど気にならなくなるのだが・・・人に依って反応も違った様だ)

昭和30年代の農業は 米の増産・増産が叫ばれ、これを目的の秋田・八郎潟干拓が始まったのも昭和32年でした。 (昭和42年から入植開始→昭和52年竣工)

 

昭和30年代の秋景色(生活編)

そんな時代、【生活面で城内の一般的な村の秋】を思い起こして見ると、

9月「稲刈り」に始まり→10月:「米の出荷」「果実・野菜類の収穫」→11月:「文化祭/野菜などの品評会」「漬菜(野沢菜漬け作り)」→11/末~12月中旬:「雪囲い、家に依っては雪池(ゆきだな)作り」で雪の季節に備える事になる。

一方、【自然界の秋】は、
平均的に9月末:標高の高い「八海山の頂上」の紅葉に始まり、里の秋の紅葉は11月上旬に盛りを迎えた。
(年に依って1週間位前後のズレ有り・・・何故か、昨今は更に季節のズレが大きい様である)

   今では八海山の紅葉も、ロープウエイで気軽に見に行ける様になった。

そして【山の幸】。 この時期になると、キノコ、ヤマブドウ、ミヤマツ、エブ(エビヅル/サンカクヅル)、山栗、クルミ、トチの実、アケブ(アケビ)、カヤの実、サルナシ、etc.
そう言えば、良く熟れた【マタタビ】も甘いキウイの様で、サルナシ同様美味しかったな!

その秋も、11月中~下旬には八海山に初雪(冠雪)が来て、「山に3回雪が降ったら次は里に雪が来る」と言われ、里人は根雪が近い事を想定して【ダイコダテ】(冬の間の野菜:大根・白菜・人参などの雪中保管庫)作りなど、雪に閉じ込められる冬の準備を進めてて行く。

   ◆ 城内とは角度は違うが、五日町スキー場からの【根雪直前の雪前線】の例
         雪で白くなる等高線が下がって来る (ゆきぐにネット・ライブ映像より)
hv2012-11-28-12-20 八海山.jpg

この頃だったと思う、宇田沢川や三国川、魚野川に、石の下に産み付けられた【カジカ(魚)の卵】を捕りに行ったっ事が今では懐かしい。

当時は道路の消雪設備も無く、道路の除雪も国道17号線がやっと始まった位で城内村等は対象外、根雪が降ると陸の孤島に近く、自動車も止り、春までは ソリ(橇)を使うか人が担ぐしか物流通の手段が無くなるのである。
現代の若者達には想像も付かない事と思う。
こんな生活についても絵にして残せたらいいのだが、残念ながら私にはその様な絵心が無い。

絵心と言えば、初雪の頃にはこんな(下記・写真)素晴らしい場所が今でも随所に有る、残したい風景のひとつだ。

   ◆ 下薬師堂付近【宇田沢川】堰堤より (2008年12月上旬、前夜の里・初雪)
里の初雪(直後).jpg

    写真下の住宅地、30年代はどんな風景だったのだろうか?

 

昭和30年代の冬景色

今では登る人も居ないだろう「鬼の面山」の尾根繋がりで、私達遊び仲間の間で「暮坪山」と呼んでいた山(小中学校と宇田沢川を挟んだ対岸の山/この山の向こう側では学校のスキー実習も行って居た)の中腹からの写真である。

   ◆ 昭和36年3月末頃、暮坪山中腹よりの上原方向
         (長崎出身・義兄撮影、凍み渡り体験時に撮影したもの)
S36年暮坪山からから上原方向  (1280×388).jpg

下を流れる【宇田沢川】の左対岸に「合同製糸」工場と煙突が、川下(右)には「城内中学校と小学校の校舎」が見える。
背後の山は「金城山」(左)と「坂戸山」(右)。

それにしても、
 「坂戸山(標高634m)」と同じ高さの「東京スカイツリー」が出来るなど、想像も出来なかったなあ!

   ◆ 宇田沢川下流方向 (新堀新田~下原新田・長森方向と魚沼丘陵)
故郷の昔 - 013 (抜粋).jpg

   ◆ 東を見ると【八海山】、手前の集落は【下出浦(しもいずな)】(右奥:上出浦)
故郷の昔 - 010 (抜粋).jpg

 

   ◆ 上記写真の撮影場所:現在の【城内小学校】付近から(早春春)

2007.05.21 _ C (1599×615).jpg

 

写真集・少年時代

個人情報保護の見地からは顔を隠した方がいいかも知れないのだが、何十年も前の顔やすでに鬼籍に入られて居られる方も多い為、写真はそのまゝ掲載する事にします。

なお、写真撮影の年・月・日等は「震災」時にアルバムから剥がしたまゝだった為情報が曖昧になり、年代順で無い場合がありますのでご容赦願います。

   ◆ 昭和30年代の【八海山】と【合同製糸】 ・・・ 左の山が【鬼の面】と呼ばれる崖
故郷の昔 - 001 (抜粋).jpg

    ※ 1  【合同製糸】 ・・・・ 富岡製糸のミニ版、城内周辺での養蚕繭から生糸にする工場。
              近くに行くと繭を茹でる時の独特なニオイが結構強烈に漂って来たものだ。
              当時はあまり良いニオイと感じたことは無かったが、今では懐かしい。

    ※ 2  【鬼の面】 ・・・・・ 昔話・言い伝え等も有るが、宇田沢川に削られた、急峻な崖。
              写真の【合同製糸】と【宇田沢川】を挟んだ対岸の岩壁。
              地層は古いので雑木は繁茂しているが、高さ約80m/約60°位の急斜面。

   ◆ 現在の鬼の面 ・・・ 【宇田沢川】堰堤より (5月上旬)
八海山 -  009 上原 640x480.jpg

    昭和30年代、此処は流が左側の山に直接ぶつかり岩肌を抉(えぐ)って深さ1.5m位、
       幅5~10m、長さ15~20m位の淵を作って居て、我々少年達には格好の「流れるプ
       ール」であった。

     私が泳ぎを覚えたのも、この【鬼の面】の「流れるプール」でした。

    【合同製糸】はこの写真の右堤防、ちょうど写真が切れた辺りから手前右側に有った。
      撮影位置が、ちょうど【合同製糸の煙突が有った辺りのだと記憶している。

 

我が家の周辺

   ◆ 周辺地図 【昭和30年代=屋号の時代・・・上原十字路から下(しも)の範囲】
       (個人情報保護の見地から、直結し易い氏名=屋号の家は空欄にしました)
      なお、本地図は修正要因が多々あると思われる為、情報をお願いしますS30年代上原十字路(下).jpg

智通君が作成した【懐かしの昭和30年代・上原十字路付近地図】をベースに、上原十字路から下の部分を思い起こして作成して見ました。

およそ半世紀前の状況を思い出しながら作成してますので違う所も有ろうかと思いますが、お気付きの点が有りましたら是非教えて頂ければ幸いです。 (必要に応じて修正・補正をして行きます)

なお、細かい文字も、PCで拡大すれば楽に読めると思います。
 (携帯の場合、見難いかも知れませんが、ご容赦を!)

   ◆ 我が家の前の風景
       (前の川が新田堀、前の家のヤギは草を求めて下を覗いている状況)
故郷の昔 - 007 (抜粋).jpg

   ◆ 我が家(左)と隣家(右)の間から前の家の作業小屋兼ヤギ小屋
       (石垣の上が、通称「映画館通り」、とは言っても砂利道、遠くは八海山の裾野)
故郷の昔 - 006 (抜粋).jpg

   ◆ 前の家に行く橋を渡った所での「お袋」と「上原薬師」  (早春の頃)
       (この頃は橋が板橋である事にご注目、背景の建物は上原の「薬師堂」)
       上原の薬師様、言い伝えを信じれば、法音寺成立の歴史と深く係わっているらしい。
       御本尊の薬師像は江戸時代の洪水で右腕を失ったが、近年その右腕が帰って来た
       と言う、数奇な経過を持ち、もしかしたら重要文化財級かも知れない。(盗難が心配)
故郷の昔 - 003 (抜粋).jpg
 
    「薬師様の腕帰る」の新聞記事 ・・・ 新潟日報だったかと思う  (I Nagumo君より)
上原薬師.jpg

   ◆ 2年位後の夏、母と近所の人々
       (背景の建物は「城内役場」と「薬師堂」、その前の大きな石は「二十三夜塔」)
故郷の昔 - 004 (抜粋).jpg

   ◆ 小5の頃の3月頃、隣家の前にて
       (道路が雪で高くなっている事から、村内一斉に行う除雪行事、「雪割り」の前だと思う)
故郷の昔 - 008 (抜粋).jpg

   ◆ 小6の時だが、卒業式の日では無かったと思うけど? (TI 君・SS 君と)
故郷の昔 - 015 (抜粋).jpg

   ◆ 我が家 (年代不明  : 小学校4~6年頃)
        隣に美容室が建つ前で沼田屋が写っている事や、道路から玄関の下り口が
        新しいスロープになっている所から、井戸→水道に変わった頃と思われる。
         前の家の板橋(4枚上の写真)がコンクリート製に変わったのもこの頃。
故郷の昔 - 005 (抜粋).jpg

   ◆ 【一家団欒】 この頃「囲炉裏」が消え「箱膳」が「チャボ台」に、でも「団欒」の時は有った
故郷の昔 - 014 (抜粋).jpg

 

           「ふるさと今昔物語 Part-2」  へ続く

 

【“九輪草”(クリンソウ)】、この花の原産国が日本である事は意外に知られていない様です。

    クリンソウ : サクラソウの仲間。単体の花は世界で400種以上と言われているサクラ
            ソウの仲間に共通で、花の外形からは殆んど同じで見分けが付き難い。
            しかし花の集合体である草としての体形は、サクラソウの仲間でも最も見
            見分け易い種類と言える。

            ハクサンコザクラやミチノクコザクラ等も同じ仲間であるが、専門家でも
            見分けが難しく、葉の形状・大きさ、植生地域、等で分類されているのが
            実態の様である。

            【クリンソウの】場合、花の付き方に特徴があり、一本の茎を中心に寺社
            の九輪塔の先端部の様に花が輪形に咲き、その輪形が段々と重なって咲く
            姿が、九輪塔に似て居る事から名付けられたと言われて居ます。
            花は下の輪形から段々と咲き登り、やはり下の段から順番に散って行く。
            個々の花の開花期間も1週間位ある為鑑賞期間も長く 千手ヶ浜の場合、約
            3~5週間位は楽しめる様です。 (年によって異なる)

昔は北海道から九州まで、日本の何処にでも自生していて「サクラソウ」の仲間では大型の花として
良く知られた花だそうである。

いつの間にか洋種の「プリムラ (Primula) / サクラソウラソウの仲間」が販売され、一般に広がった
為、「クリンソウ」も元来は外来種だと勘違いして居る人が多いのだろうか。


ともあれ、今年の花期は過ぎてしまったが、そんな日本原種の【クリンソウ群生の原風景】の一部を
ご覧頂きましょう。

 

   ◆ 日光中禅寺湖畔、千手ヶ浜・「乙次郎橋」付近
     ・・・ 左上に見える橋が「乙次郎橋」、橋が通る道の向こうが中禅寺湖2014.06.22  - 076B クリンソウ群生(千手ヶ浜).jpg

 

   ◆ 千手ヶ浜 ・・・ こんな素晴らしい自然がこんな身近に
      (赤沼バス停・情報センターで購入=50円のガイドMAPより抜粋)
中禅寺湖畔・千手ヶ浜(クリンソウ群生地).jpg

    此処を訪ねるには、国道120号線の「菖蒲ヶ浜」か、「竜頭の滝」駐車場から、湖岸沿いに
    歩くのが一番いいと思う。

    軽いハイキングと花を楽しみ、晴れれば男体山等対岸のビューポイントも多数有り、時間と共
    に移りゆく風景は、行きも帰りも飽きさせない。 (片道約100分位)

    「歩くのが苦手」と言う方は、赤沼バス停(自然情報センター前)から シャトルバスを利用す
    る事になる。
    この場合、 ①時間帯に依って駐車場確保が難しい ②バス待ち行列が、行きも帰りも有る 
    ので時間にゆとりを持ったスケジュールが必要です。
       (クリンソウ最盛期はどちらも1~2時間待ちは、当たり前らしい)
    ただ、クリンソウの咲く頃は、小田代ヶ原や戦場ヶ原はワタスゲやレンゲツツジも見頃となる
    季節、帰り道は「小田代ヶ原」や「戦場ヶ原」を散策しながら帰るのもお薦めコースです。

    詳細情報は、「千手ヶ浜」「クリンソウ」をキーワードにWEB検索すれば、色々な、サイト
    が検索出来ます。

    私の前回の投稿、 【花ドライブ】(山野草 ・ 初夏 編) からも、日光市観光協会等へ リンク
    出来ますのでご利用下さい。

 

    今年はすでにクリンソウの花は盛りを過ぎてしまいましたが、  「来年は!」  とお考えの方
    は、以下の【クリンソウ見学ドライブ 実践録】が参考になると思います。
 

【クリンソウ見学ドライブ 実践録】


   ◆ 2014 - 6 / 22 (日曜日) 天気:雨天 ・・・ 同行者:兄夫婦

       朝6時20分、赤沼駐車場着 → バスは雨天で季節運行との事で、7:50発
       → 8:20 千手ヶ浜着 → 千手ヶ浜・クリンソウ散策
       → 10:40 千手ヶ浜発 → 11:10 赤沼バス停 → 他へ (以下省略)

   ◆ 千手ヶ浜バス停着時の風景
2014.06.22  - 001 クリンソウ群生(千手ヶ浜).jpg

   ◆ 千手ヶ浜への途中にて
2014.06.22  - 008B クリンソウ群生(千手ヶ浜).jpg

   ◆ 「外山沢橋」 ・・・ 後は中禅寺湖、下は泳ぐ魚が見える清流
                 日光白根山を源流として、中禅寺湖に注ぐ川2014.06.22  - 013 クリンソウ群生(千手ヶ浜).jpg

   ◆ 千手ヶ浜に広がる、【クリンソウの群落】様々
2014.06.22  - 023B クリンソウ群生(千手ヶ浜).jpg

2014.06.22  - 030B クリンソウ群生(千手ヶ浜).jpg

2014.06.22  - 053B クリンソウ群生(千手ヶ浜).jpg

   ◆ 川にはこんな魚も (24~25cm?位のサクラマスと思われた)
2014.06.22  - 048 クリンソウ群生(千手ヶ浜).JPG

   ◆ 近くを歩いていた小学生らしい子供が、 「ゴジラだ!」 って言ってたっけ
        (言われて見れば、納得! 何となく哀愁を漂わせた後姿に見えなくもない)2014.06.22  - 063 クリンソウ群生(千手ヶ浜).jpg

2014.06.22  - 045B クリンソウ群生(千手ヶ浜).jpg

2014.06.22  - 074B クリンソウ群生(千手ヶ浜).jpg

 

 実はこの日、雨の為殆んど雨傘が手放せない状況で有ったが、思ったより発色が良く見た目とほゞ
 変わらない写真になった。

 カメラはコンパクトタイプですべてカメラ任せ、おまけに花は最盛期を過ぎて “残り花” に近い為、
 クローズアップ写真は撮らなかったが、思ったより群落らしさが伝わる写真になったのではないか
 と思う。

 来る前にはこんなに花が見られるとは考えて居らず、「もう花期は過ぎてしまって、咲き残りの花
 が見られたら上出来」、「天気予報も降水確率60%」、今回は コンパクトデジカメ(コンデジ)
 で充分だろう ・・・ って思って来たのが、誤算でした。

 「もっとズームやマクロで撮れるカメラと三脚を持って来れば良かった!」 と、反省。

 その上で、来年はもっと早く、最盛期に来たいものと、痛感している。 

 出来ればもっと晴れた日に!!

         ・・・・・  私も リピーター になりそうです!

 

 参考 : 故郷・南魚沼市からも、意外に近いですよ!  

   ◆ Google マップのナビ検索で、兄夫婦が来るルートを検索した例
      (城内・上原~沼田~金精峠~赤沼茶屋・シャトルバス発着場)

      実際には、この時間に渋滞や休憩時間等をプラスして下さい。
南魚沼市・上原→赤沼茶屋.JPG

 

今回の【花ドライブ】(実践編 ②)は、前回 (実践編 ①で) 心残りだった光城山~長峰山の桜です。

GW前半の 4月29日。 天気予報では夕方から雨(現地も群馬も)との事で出発時は曇りでした。 

早朝6時、職場近く・群馬県の宿舎を出発、伊勢崎ICから高速へ→長野道・姨捨SA(約15分休憩)
→安曇野ICで高速を降り(午前9時10分頃)一般道へ→(一気に光城山へ)→山頂駐車場着:9時
20分頃。
天気予報通り、遠くの山は殆んど霞んで見えない状況だが、雲の間から北アルプスの山並みが垣間見え
る状況で、思ったより天気に恵まれた様だ。
桜も散り始めの状況だが、ハラハラと散る桜もまた風流で、残っている花も十二分であった。

 

目的地周辺MAP

   ◆ 安曇野市観光協会発行のガイドMAPより
安曇野MAP  A.jpg
 
  ◆ 上記MAPの今回ルート対象部分抜粋
安曇野 MAP B (光城山・長峰山・大王わさび田).jpg

   ※ MAP中の【安曇野IC】で降りたらすぐに信号を右折、田沢駅前を左折し、次の信号を右折。
     道なりに行って2つ目の左折路を左折して山道を登る。(入口が分かり難いので注意)
       山道をジグザグに登り、上り切った所を左に入ると光城山山頂駐車場が有る。(5~6台分)

 

【光城山】・・・桜と雲海・北アルプスの展望台

   ◆ 山頂の桜
2014.04.29 A- 019 光城山 (9.25 to 10.10).JPG

   ◆ 少し前後するが、【長峰山・展望台】から見た光城山・山頂の桜(ズームUP)
2014.04.29 B- 005 長峰山 (10.08 to 10.31).JPG

   ※ 右側の尾根伝いに【桜並木の登山道が下から続いている】
         ・・・大きな杉に囲まれて、山頂に「古峯神社」が祀られている。

   ※ この光城山・山頂からのみ、晴天で空気の澄んでいる時には【槍ヶ岳】の山頂が見える。
     その【槍ヶ岳】に流れを発して【上高地】(ここから見ると蝶ヶ岳やその左の大滝山の
     向こう側)を周って流れ出る【梓川】になり梓川SA付近で奈良井川と合流し、眼下を
     流れる【犀川】となる。   (「安曇野MAP」参照)
     前の投稿にも書いた通り、この【犀川】が、上杉謙信と武田信玄の戦いで有名な古戦場、
     「川中島」で【千曲川】と合流して【信濃川】となる。

 

   ◆ 光城山・山頂からの【槍ヶ岳】方向 (残念ながら、今回は雲の中!)
     ・・・晴れならばカラスが飛んでいる少し左上、常念岳と横通岳の鞍部に見えるのだが!
2014.04.29 A- 008 光城山 (9.25 to 10.10).jpg

   ◆ 少し移動して、【槍ヶ岳】(上からの桜の枝先端)方向をズームUP
2014.04.29 A- 022A 光城山 (9.25 to 10.10).jpg

   ※ やはり無理でした。【長峰山】からも同様に北アルプスの稜線が眺められるるが【槍ヶ岳】
      は【横通岳】に隠れて見えなくなる。

   ◆ 天気が良ければこんじな風に見えたでしょう  (2012年撮影の例)
光城山 1 (1).jpg
      手前に見える北アルプスの山名は【安曇野MAP】をご覧下さい。 わかり易いでしょう。

   ◆ 山頂でのスペシャルショット
2014.04.29 A- 027 光城山 (9.25 to 10.10).jpg

2014.04.29 A- 024 光城山 (9.25 to 10.10).jpg

2014.04.29 A- 025 光城山 (9.25 to 10.10).jpg

   ◆ 眼下には犀川を渡る長野自動車道と、ドライブイン【安曇野スイス村】2014.04.29 A- 016 光城山 (9.25 to 10.10).jpg

 

 

【長峰山】

  光城山から、車で約10分(今回は空いて居て、7~8分?)で【長峰山・山頂駐車場】。
   (駐車場は10台位のスペース有り)
  昨年は来られなかった為気が付かなかったのだが、山頂には立派な展望台が再建されて居た。

   ◆ 長峰山・展望台
2014.04.29 B- 004 長峰山 (10.08 to 10.31).JPG

   ※ 一昨年、旧展望台(展望櫓)の有った位置に建て直したのだそうで、頑丈で一回り大きく
      立派な建物に変わっていた。
      (一昨年4月末、友人と来た時にはまだ着工されて居なかったもの)

   ◆ 展望台からの眺め・・・残念ながら、アルプス展望は雲の為ほとんど見えない
2014.04.29 B- 015 長峰山 (10.08 to 10.31).JPG

     因みに、晴れて居ればこんな風に見えるはずでした (まだ桜には早い季節)
長峰山 3.jpg

   ◆ 長峰山の山頂では、桜がちょうど満開!2014.04.29 B- 016 長峰山 (10.08 to 10.31).jpg

2014.04.29 B- 044 長峰山 (10.08 to 10.31).jpg

   ◆ 眼下は「安曇野湧水群」のひとつ、【大王わさび田農場】 ・・・ 丸印2014.04.29 B- 018 長峰山 (10.08 to 10.31).JPG

   ◆ 【大王わさび田農場】ズームUP2014.04.29 B- 031 長峰山 (10.08 to 10.31).JPG

   ◆ 長野方向 : 右に見える高速道路はこの山の下を抜けて、安曇野IC方向へ2014.04.29 B- 033 長峰山 (10.08 to 10.31).jpg

   ◆ 長野自動車道・長野方向2014.04.29 B- 037 長峰山 (10.08 to 10.31).JPG

   ◆ 【光城山】方向2014.04.29 B- 011 長峰山 (10.08 to 10.31).JPG

  午前10時35分頃、長峰山・山頂を後にした。

  そして帰り道、山頂からも良く見えて、この前にも立ち寄った
  【大王わさび田農場】へ寄って見る事にした。

 

 

【大王わさび田農場】

  ほゞ午前11時、大王わさび田農場に到着。

  ここ【安曇野湧水群】を利用した【大王わさび田農場】は、何故か故郷・南魚沼市の【泉】
  と呼ばれる地域の昔の風景とよく似た、綺麗な湧水に恵まれた環境で、その川の流れや水中
  の水草等は、幼い頃魚を釣ったりカモの卵を探して遊んだあの頃を思い出させてくれる風景
  である。
  最も、故郷の【泉】では鱒の養魚場は有ったが、わさび田は無かったと記憶している。

   ◆ なぜか懐かしい湧水の川
2014.04.29 C- 009 大王 (11.03 to 12.05).JPG

   ◆ 作られたものと分かって居ても「癒される風景」
2014.04.29 C- 015 大王 (11.03 to 12.05).JPG

   ※ 川上に見えるボートで水路の散策も出来る様です。(勿論有料でしょうが)

   わさび田の写真は前回4/13のドライブで友人投稿の記事とダブる為、今回は1枚だけにします。

   ◆ 4/13 は真っ盛りだったわさびの花が終り、植え替え作業の様子だった
2014.04.29 C- 018 大王 (11.03 to 12.05).JPG

   ◆ わさび田の全体イメージ
2014.04.29 C- 001 大王 (11.03 to 12.05).jpg

 

  軽く昼食を済ませ、午後0時10分頃「大王わさび田農場」を出発。
  真っ直ぐに来たルートを辿り、(群馬の社員寮へ)帰宅。 (帰着:午後3時20分頃)

  

  【安曇野わさび田湧水群】と呼ばれるこの周辺は、数多くの道祖神も多く、天気が良ければ自転車
  でも借りてゆっくり道祖神巡りをしながら水辺や水田に映るアルプスの山並み等をゆっくりと眺め
  たい地域です。

  冒頭の【安曇野ガイドマップ】にも大王わさび田農場の右上に、【早春賦の碑】と言う文字が見え
  ますが、そこからの常念岳~有明山等も絵になります。
  「え! 早春賦の碑って、あの唱歌の?・・」って思い出された方も居られたかも知れませんね!

  そう、あの学校唱歌で知られた【早春賦】の碑です。 この地をイメージして作られたものとの事
  だそうです。   (参考までにYou tube の中の安曇野を背景とした【早春賦】にリンク)

  時にはこんな楽しみ方もいいのでは無いでしょうか?

 

  【参考データ】 (往復)
  走行距離:約440km、ガソリン代:約3,200円(156円/ℓ)、 高速代:約4,400円

 

  天候も、曇りでは有ったが雨にも逢わず、心身共に充実のドライブでした。
 

  しかし、分散型連休とは言えGWのさなか、渋滞を予測して早出をした甲斐も有ったのだろうが、
  光城山や長峰山が殆んど渋滞無く充分堪能出来た事はラッキーとしか言えないと、思う。
  大王わさび田農場でも、店の人に聞いたら、普段の休日と変わらず、との事。

  最も、ここ大王わさび田農場は午後の方が来客数が多いのだそうで、午後3時前後がピークになる
  のだそうだ。 (思うに、帰路、安曇野ICに入る前に立ち寄る人が多いのであろうか?)

   ☆ ドライブは、回る順路に依って、混み具合も大幅に変わるので、柔軟に工夫しましょう!

 

【花ドライブ】(桜編)

【春分】

二十四節季で 「春分」 と言うと、今年の場合3月21日の1日限りだったと思っている人が多い事と思う。
農業も近代化して、二十四節季の暦に頼る作業が少なくなった為なのか?

実は 「春分」 とは、今年の場合 3/21 ~ 4/4 迄の15日間を言います。
二十四節季の 計算方法については知りませんが、うるう年補正等で毎年同じ日になる訳では無く、ただ、
1年365日を多くは農耕関連の周期に当てはめて24分割した1単位を節季としたものと聞きます。
   (1 節季は平均約15日となる)

従って、今年の「春分の日(3/21)」 は1日限りだが 、【“春分”と言う『節季』が始まった日】と言う
のが正式な表現と言える。
昔、二十四節季の内でも更に重要な節目の節季の初日に祭事が行なわれ、これ等の風習が今も各地に残る
四季の行事に多く見られる。

そして、「清明(4/5~)」 、「穀雨(4/20~)」 、「立夏(5/5~)」  と、節季は続く。

節季についても、カレンダーにはそれぞれの節季の最初の日しか表示して無いので誤解が生まれるのだろう
が、TV等の天気予報等でも 「今日は春分の日です」 等と節季の初日(入日)しか放送しないので、余計
誤解されてしまうのだろうか。

 

春と言えば【花の季節】

未だ雪深い故郷・南魚沼市(写真は今夕の風景)や、雪国の人々には申し訳ない様な話題になるが、やはり
この季節になると、花の話題が多くなる。

   ♦ 24日17時現在の五日町スキー場からの故郷の風景
         (雪国ネット様ライブカメラより)
2014-03-24-17-00.jpg


私の勤務先であるここは、群馬も利根川を挟んで隣は埼玉・熊谷市と言う場所。
利根川の河川敷は私の好きな「からし菜」が最盛期となった。

まずは「からし菜」の光景から。

   ♦ 現在の 「からし菜」 利根川・刀水橋たもと堰堤にて
2014.03.18 A 002 (利根川・刀水橋、太田市側たもとにて).jpg

2014.03.18 A 004 (利根川・刀水橋、太田市側たもとにて).JPG

この 「からし菜」 、開花直前の【つぼみを持った董】を摘んで漬けて食べると大変美味しい食材となる。 
ちょっと車を止めて10分も摘めば、1週間分は採れる。 味噌汁やお浸しにしても美味しい。
 (ただし、煮てしまうと和辛子の香りと辛味が無くなり普通の菜花と同じ)
実は2月末頃から葉の部分も漬けて食べていたが、やはり、この時期の董の食感に勝るものは無い。
近年の私にとって、これが「花の季節」の始まりである。

が、此処では【食べる】事については別の機会として、【目で楽しむ(愛でる)花】に、話題を絞る事に
しましょう。

梅、桃、桜、カタクリ、ニリンソウ、キクザキイチゲ、ツツジ、シラネアオイ、シャガ etc. 挙げて行
ったら限りが無いが、これから行楽を考えようと言う人達の、少しでもヒントになれば幸いなので私のお
気に入りの花見ドライブスポットを、幾つかをご紹介してみましょう。
(ただし、普通の観光パンフレットの様な写真掲載は極力避ける事にします)

 

A : ワンデー【桜ドライブ】

 首都圏からの桜としては、やはり 「高遠城址公園」 、「三春・滝桜」 、「会津鶴ヶ城」 等は日帰り
 コースにも 出来る、【A】クラスのお薦め場所と言えます。
 また、故郷・南魚沼市からも日帰りコースで、恐らく首都圏からよりも時間的には短距離と言えるエ
 リアでは無いかと思う。
 (どちらの起点でも「高遠」は、計画に現地渋滞分を他よりも多目にに考慮する必要が有るかも?)

 

  【高遠城址公園】 ・・・ 城郭は無いが、古来・桜の名城。 やはり一見の価値あり
               此処を計画するなら一番最初に見学するスケジュールがお薦め。
               (午後の計画では折角来てもゆっくり見て回れないかも知れない)

   ■ マイカードライブなら早朝着で駐車場確保が、ゆっくり見学&撮影のテクニック
     公園内は入場時間があるが、周りからも綺麗なスポットはあり、公園入場も早い程
     主要スポットで人影の少ない写真が撮り易くなる。

   ♦ 公演内風景、右下の写真は池に映った周囲の風景写真
高遠城 001A.jpg

 


  【三春・滝桜】 ・・・ 三春駒で有名な地にある一本の桜、「三春・滝桜」
                この桜は一本であるが、やはり一見の価値あり。

   ♦ 桜の時期、ここも日中は桜の周りに人影の無い写真は難しい所
     (この写真は朝一番に行って、朝日を浴びた所を狙って写したもの)
三春滝桜 -1.jpg
 

 

  【会津1鶴ヶ城】 ・・・ やはり、城と桜は絵になる組み合わせ

   ♦ 残念ながら、仕事の関係で何回か桜の季節を写していたが、版権のある
         写真はこれしか残っていなかった。 (葉桜の鶴ヶ城・・・某年4月24日)
会津・鶴ヶ城.jpg
    
 

 高遠・三春・会津鶴ヶ城、これ等のどちらも首都圏から片道4~5時間程度の距離。
 我が故郷からもほゞ同じ位のドライブ時間の距離だと思う。 (高速利用)

  ■ 南魚沼市からなら三春と会津は1日コースで周れるコースになるでしょう。
    或いは、会津と大内宿・塔のへつり等を組み合わせるコースも桜の季節は
    特にお薦めです。

  ☆ 満開時期 : 何れの場所もほゞ毎年、4月10日~23日の間に満開期を迎える。

 

 少し変わった場所: 群馬・藤岡市の【桜山公園】

   ♦ 残念ながら春の写真は無いので、「冬桜」の写真でご紹介
鬼石・冬桜 (1280×340).jpg


 ここは 「鬼石(おにし)の冬桜」 、と言った方が知っている方が多いかも知れません。
 しかし春の桜は更に圧巻だと言います。
 ソメイヨシノ 3000本、冬桜7000本が一斉に咲く所は他に知らない。冬桜も蕾の6割は
 春に咲くのだそうです。(正直、私はまだ春に行った事が無いのですが・・・)

  ☆ 満開時期 : 例年、4月7日~15日頃の間に満開期となる。

 

B : 1泊以上の【桜ドライブ】

 1泊以上の計画で、東北方面なら 「角館」 と 「弘前城」 。 長野方面なら 「光城山」
 や、「大町山岳博物館」 が 【A】 クラスのお薦めスポットでしょう。

 「名所」と言われる “桜の名所” は 【花は勿論、自然景観や文物・風習が一体化】して作
 り出すハーモニーに人々の心が共感するからだと思う。
 例えば「弘前城」の場合、弘前城址と言うロケーションと桜のハーモニーに、「津軽富士
 とも呼ばれる岩木山」 と言う象徴的な山岳景観も人々の心を捉える為であろう。

 この例に違わず、私の心の琴線を揺すった、代表的な【桜】をご紹介したいと思います。

 勿論、宿泊で行くからには当然近くの観光地も時間があるなら立ち寄ると、充実したドラ
 イブになるでしょうが、あれもこれもと欲張ると時間に追われるだけで、結果的に楽しい
 ドライブは望めません。
 例えば角館へ行ったとしたら、【檜木内川の河川敷で、桜を見ながらお弁当を広げる】位
 の、余裕を持ったスケジューリングをしましょう。

 

 【角館】 ・・・ 「武家屋敷のしだれ桜」 だけではもったいない!
          「檜木内川」の堤防の桜並木や「古城山」からの眺めもお薦め!

          【角館】と言えば「武家屋敷」と思っている方が意外に多い様ですが、桜の季節
              『「檜木内川」の桜並木と「古城山」からの景観を見ずに
                        角館の桜を見たとは言えない』 と、言いたい

           武家屋敷のしだれ桜は勿論風情があるが、檜木内川と古城山からの桜の景観は、
           写真で見るより実際に見る方が、その感動も大きいものと思う。
           (桜の季節限定のお薦めスポット、他の季節はやはり武家屋敷がメインでしょう)

           その昔、『思えば遠くへ来たもんだ』って映画で、武田鉄也とヒロイン(熊谷
           真美)が山の上から町並みを見下ろすシーンが有ったが、多分あれが古城山だ
           ったと思う。 (特にそう言う立札等は見当らなかったが)

   ♦ 武家屋敷 ・・・ しだれ桜と武家屋敷の黑塀の家並みが絵になる角館・武家屋敷 001.jpg

   ♦ 「檜木内川」の堤防・桜並木 (写真左:上流方向、右:下流方向)
角館・檜木内川  001.jpg

   ♦ 「古城山」 山頂よりの「武家屋敷」と「檜木内川」=角館主要部全景
角館・古城山  002.jpg

   ♦ 大曲からR46号線で来て檜内川を渡った所(武家屋敷入口)
             からの「古城山」と、古城山・山頂への小道(山頂からの下り方向)
角館・古城山 001.jpg

    この標識の先R46号左、古城山入口から山頂迄徒歩で約10分位です。

 

  【弘前城公園】 ・・・ 桜の楽しみを、ここだけでも満喫させてくれる、東北一のお薦めスポット

              花の楽しみ方も色々有るが、ここは花を直接眺めて良し、
              散ってなお掘割を覆う花びらの海も風情があり、桜と松や
              杉等とのコラボレーションも良し。
              そしてここから桜と一緒に見る岩木山のロケーションが、
              また他には無い楽しみになる。

   ♦ 弘前城・追手門 ・・・ 鳩も目を丸くして・・・エ! 元々丸いって!・・・ご最も!
弘前 A -001 .jpg

   ♦ 桜吹雪 ・・・ 動画ならわかり易いのですが、実際は目の前が見えない位だった
弘前 A-05.jpg

   ♦ 天守閣前の広場と天守閣
弘前 A-04.jpg

   ♦ 天守閣最上階からの「岩木山」
弘前 A-06.jpg

   ♦ 少し脱線ですが、【津軽岩木スカイライン】を!
津軽岩木山スカイライン.jpg

    ※ 上記掲載の写真は(株)岩木スカイライン様のHPより拝借しました。

弘前城の桜は見に行くが、岩木山は眺めるだけ、と言う方が多いと思いますが、ここ迄車で行って晴天に恵まれたら是非お薦めしたいのが、この「津軽岩木スカイライン」と「リフト」を利用して九合目迄登って見たいものです。
 (スカイライン側は弘前の反対側になる為、弘前方面からは見えません)

勿論、ハイキング程度の用意が有れば山頂往復もお薦めしますが、軽装のまゝ安易な入山は止めましょう
(車の登れる八合目でも1,247m、関東・中部圏の2,000m級の山の気象と思って下さい、気象・気温の急変には常に用心を!)

でも天候に恵まれれば、八合目からでも素晴らしい眺望(世界遺産の白神山系や日本海等)を満喫出来るし、6月頃にはミチノクコザクラ等の山野草も最盛期となるのでチャレンジして見ては如何ですか?

津軽岩木スカイラインの営業開始は4月26日からの予定との事ですが、運営会社【(株)岩木スカイライン】の詳細情報を確認の上、時間の余裕を十分に見たスケジュールをお薦めします。

写真でも分かる通り、全長9.8kmの区間に69個所のカーブがあり、標高差約900mを上り下りする訳ですが、特に下りではスピードを抑え、エンジンブレーキを有効に使わないと、ブレーキオイル過熱の為、気泡が発生して、ブレーキが利かなくなり易いので、十二分に注意して下さい。
もう一つ、山歩き直後の下山運転はやめましょう。
30分~1時間位、甘いコーヒー等で糖分を補充しながら、休憩してから慎重に運転して下りて下さい。
疲労は単調なカーブの連続で、思わぬセンターオーバーやオーバーランに繋がり、自らと対向車を危険に晒す
事になり、最悪の事態にもなり兼ねません。

 

少々脇道に逸れましたましたので、桜ドライブに戻しましょう。 次は方向を長野県に移します。
              

  【光城山】 ・・・ 安曇野にポックリ盛り上がった丘の様な小さなアルプス展望台
            麓から咲き登る桜の道と頂上は桜の園。頂上迄車で登れて、長峰山迄舗装
            された尾根道が続く。 (長峰山側・明科駅近くからも、登り下り出来る)
            (故郷、南魚沼市の「魚沼スカイライン・短縮版」の様なアルプス展望の道)
            天候に恵まれれば桜の間から、唯一ヶ所「槍ヶ岳の先端部」が見える場所。

   ♦ 安曇野平野からの「光城山」 ・・・ 山裾から尾根伝いに白く桜が咲き登っている
           ※ 右端に時計塔の様な建物が写っているが、その少し先が安曇野IC
光城山.jpg

   ♦ 光城山、山頂からのアルプス展望と、槍ヶ岳ズームアップ
          ※ この付近からはアルプス裏銀座コースの山並みが遮る為
             「槍ヶ岳」はここからしか見えない
光城山 1.jpg

   ♦ 光城山山頂の案内図
光城山 2.jpg

  注 : 長野自動車道の最寄インターチェンジが「豊科IC」となっているが、一昨年秋「安曇野IC」
      と、名称変更されている。
      最寄のJR駅は「田沢駅」。 田沢駅から歩いて光城山に登る人も多くなった。
      新宿からなら日帰りハイクも可能らしい。 (私はやった事は無いが)

 


  【大町山岳博物館】 ・・・ 博物館の前の公園に多数の桜が咲き、ここもアルプスの展望台
                大糸線・大町駅より東に2km位丘陵地を登った所にある。
                残念ながら、桜が散って殆んど残って居ない状態の写真しか無いが
                アルプスの展望は想像出来るでしょう。

   ♦ 「大町山岳博物館」 前の広場からの展望、この撮影場所後方に、桜の古木が多数有る
大町 A -01.jpg
大町 A -02.jpg


   ♦ 「爺ヶ岳~鹿島槍ヶ岳~五竜岳~唐松岳」 ズームアップ
大町 A -03.jpg

「光城山」からここ「大町山岳博物館」迄は、車でおよそ40分位でしょう。
  (ただし、観光シーズンや休日等の渋滞は、別途考慮して下さい)

従って、「両方へ同じスケジュールで行く日程の場合」

 ■ 首都圏からなら夜行日帰りも可能ですが、普段長距離運転に慣れて居ない
   方には1泊以上の余裕あるスケジュールをお薦めします。
     (単純に往復しただけでも、約600km弱の距離になります)

 ■ 故郷・南魚沼地方からでしたら、R117→長野道→安曇野IC経由ルートで往復
   すれば、片道3~4時間程度の計算ですので、余裕で日帰り出来るでしょう。


 ☆ 満開時期 : 4月15~25日頃の間に満開だったのだが、昨年は5月連休頃迄
         ズレ込んだ様だ。

       ※ 角館・弘前・光城はほゞ同時期に咲くと考えた方がいいでしょう。

 

昨日は人日(じんじつ=七草)

         明けまして
            おめでとうございます
               本年も宜しくお願い致します

本年最初の投稿は【 人日 (じんじつ) 】

 故郷の1月7日は今年2回目の晴天、それも今年初めて朝から夕方迄の1日中晴天だった。
  (写真は、「ゆきぐにネット」様のサイト・五日町スキー場のライブカメラより)
2014-01-07-15-00.jpg
 
1月7日は1年「五節句」の内の最初の節句、「人日」に当たる。
         と、言うよりも【七草】と言う方が馴染があると思う。
実は「人日」の行事の一部が「七草」で、「七草粥」を食べる事で今年1年間の健康を祈る。
と、言う事だそうだ。(後述のHP「暦のページ」サイトより)
ところで、そもそも「人日」とはどんな節句なのか? 意外にその意味を知る人は「七草」に比べ
かなり少ない。
詳細は後述HP「暦のページ」をご覧頂きたいのだが、要約すると
【古代中国では正月一日から「鶏、狗、猪、羊、牛、馬」の順に獣畜の占いを立て、七日目に人の
 占いを始めたという事で、人日(1年間の人々の運勢を天候で占う日)とした】
   ・・・・ 晴れならば「吉・幸運の卦」、雨ならば・・・
つまり天候に関連する事・年始に1年間の運勢を占う事から、最初の節句になったらしい。
「暦のページ」より一部抜粋すると
「暦のページ」より 五節句.jpg
と言う内容で、より詳しくは後述URLからアクセスして見て下さい。

さて、今年の「人日占い」はどうか!
故郷・南魚沼市や関東地方を始め、ほゞ日本全国「晴天」の1月7日、占い通りなら今年は最高の

【幸せ運】なのだが・・・
普段、占いとか神仏などは信じない私なのだが、正月早々の幸運占いなら、素直に喜ぶとしましょ
うか!

ところで、前述のHP「暦のページ」について。
このHPは暦に関連した様々の事が、かなり詳しく出ており、数年前から事ある毎にアクセスさせ
てもらって居る実用サイトです。
皆さんもきっと、一度ご覧になったら「ブックマーク」に登録したくなると思いますよ!
  HP「暦のページ」の URL :
 http://koyomi8.com/ 

また、何時も八海山のライブ映像を発信してくれている「ゆきぐにネット」のURLも改めて紹介
して置きましょう。

  「ゆきぐにネット」の URL : http://hakkaisan.livepix.jp/ 

このサイトは、麓(ふもと=地名:カタクリ群生地でその時期には各地から観光客が集まる【六万
騎山】の、まさに「麓」)に自宅兼会社を構える方のHPで、かれこれ10年以上アクセスさせて
もらって居ます。
1998年からの八海山のライブ映像(写真)がデータベースとして楽しめますので色々役に立ち
ますよ。  サイト管理者の方にはとても感謝しております。
なお、「ゆきぐにネット」へはこの【八海山倶楽部】のリンクページからもアクセス出来ます。
 

八海山のある風景

7/26、今年初めてミンミンゼミの鳴き声を聞いた。 場所は勤務先の群馬県伊勢崎市、駅は太田市の方が近い境界地域です。
関東地方は梅雨明けが早かった割に、ミンミンゼミの出現は平年並みの様な気がする。 ニイニイゼミはかなり以前に聞いて居たのだけれど?

 

それでは本題に入りましょう。

私の 「故郷」 は新潟県南魚沼市。 その中でも 越後三山 のひとつ 「八海山」 の山懐、【城内】と呼ばれる地域(下図の〇印の所)です。

   (YAHOO! Map より)
Y-地図・魚沼全図 (丸印・城内).jpg

恐らく私に限らず同郷のほとんどの人達の幼い頃は、ウサギを追う事は無かったであろうが、カジカ(魚はカジッカとも言った、美声のカエルも同名だった)やヤマメ・イワナ・アユ、トンボにセミ・カブトムシなどを追いかけて育ち、仰ぎ見ればいつもそこには 【八海山】 がそびえていた。
当然、小・中学校共に校舎から雄大な【八海山】を仰ぎ見る事の出来る位置にある。

だから私達の小・中学校時代は 【八海山】 と共に育った、と言っても過言では有りません。 八海山の麓には【学校林】もあり、年に1回、丁度今頃の季節だったと思うが、その杉林(当時はまだ10年未満の若い低木林)の下草刈りも学校行事のひとつでした。
従って、私達に取って 「八海山」 は世界遺産になった「富士山」以上の存在だと言えます。
そんな心に刻まれた ふるさとの山 【八海山】 も、見る方向・場所・時間・季節などに依って、まったく違った表情を見せてくれる。

今回は 【八海山】 にこだわって、そんな風景を幾つか違う方向から眺めて見たいと思います。
 (これまでの投稿で使用した写真も何枚か出ますが、悪しからず、ご容赦を願います)

 

1.まずは我等が見慣れた「城内」エリアからの【八海山】


   ♦ 春の風景・・・・・田植え直前の田圃と残雪の八海山  (雨上りの夕刻:実家の兄撮影)
20040514   八海山-022.JPG

 

   ♦ 春・田起こしの頃・・・・・上の写真の季節より約3~5週間前(撮影場所も違います)
八海山 -002A 春・田起しの季節 .jpg

 

   ♦ 晩秋・・・・・八海山、初冠雪の朝
八海山 -  02B 晩秋・初雪の朝.jpg

 

   ♦ 八海山スキー場、ロープウエイ駅・駐車場からの八海山「八つ峰」
          (杉の木に絡んで咲いているのは藤の花) ・・・・・ 5月
八海山 -  005 ロープウエイ駅駐車場.JPG

 

   ♦ 八海山の山容イメージ 1  ・・・・・城内口2合目登山口の案内図八海山 -  007 2合目屏風道登山口.JPG

 

   ♦ 山容イメージ 2 八海山 -  008上原からのズーム.jpg

最近では、「八つ峰」の岩峰のみを【八海山】と勘違いされている地図(下記地図を含む)やガイドブック・ネット書き込み等が見受けられるが、我々は昔からこの山の【山容全体】を【八海山】と呼んで居た。
つまり、主要ピークで言えば左から「薬師岳」・「地蔵岳・不動岳・七曜岳・白河岳・釈迦岳・摩利支岳・剣ヶ峰・大日岳」・「入道岳」を左右に広げた裾野で支えた山容全体を【八海山】と呼び、八海山信仰のご神体となっています。 (因みに、八海山の最高地点=標高は 1,778m が公称値でその頂きは 「入道岳」 です)

なお、右に見える 「 阿寺山 」 は、八海山の裾野ですが、一般的には八海山のピークとしては数えません。
従属山群の一つとなっています。

 

   ♦ 鬼の面山(オニノツラ:左手前の山)からの八海山・・・川は八海山を源流とする「宇田沢川」八海山 -  009 上原.JPG

私達が子供の頃は左側・鬼の面の岩場に川の流れが突き当り、大きなプール(淵)を作って居て、夏休みになると毎日ここに来て、泳いだりヤマメやイワナ・カジカ(魚)を捕って遊び、夕方は鬼の面山でヒグラシが大合唱をする迄時間を忘れて遊び、夕暮れのカジカ(カエル)が鳴き始めると家路に付く。 そんな日々が思い出される。
この下流(後方)300m位の所に現在の城内中学校(昔は小学校も併設)がある。

 

2.城内エリアから離れて!

   ♦ 今回の対象エリア ・・・・・ 青い〇印が主な撮影スポット
八海山から清津峡 -B .jpg

 

  2-1 国道17号線~余川

   ♦ 「庄ノ又川」より・・・・・左:4月上旬(かなり湿度が高い)、 右:5月下旬
八海山 -  011+012 六日町 R17.jpg

   ♦ 上記右と同じ時に撮影 : ズームアップ (上越線の電車も写したかったのだが・・)八海山 -  010 六日町 R17.JPG

 

   ♦ 左:六日町インターより  右:飯綱山古墳群入口より八海山 -  014 六日町 IC と飯綱山古墳.jpg

 

   ♦ 余川、発箇峠への途中より八海山 -  015 六日町 余川.JPG

 

  2-2 魚沼スカイライン ( R253・発箇峠 ~ R353・十二峠 ) 

   ♦ 発箇峠・見晴台 (右側に展望図=下図がある)八海山 -  016 魚沼SKL・発箇峠見晴台.jpg

八海山 -  017 魚沼SKL・発箇峠見晴台.jpg

  ※ 実は、見晴台からの方向ではあるが、もっと上空からの写真ですので悪しからず。

 

   ♦ 発箇峠→枡形山山頂の少し手前より八海山 -  018 魚沼SKL・発箇峠 .jpg

 

   ♦ 魚沼スカイラインにて ・・・・・ タムシバ (別名:ニオイコブシ ・・・ 5月)
八海山 -  020 魚沼SKL.JPG

  ※ 開花して半日から1日経つと花びらに傷やシミが出来てしまう為、遠くからは綺麗に
      見えても中々満足できるアップ写真を撮らせてくれない花です。 別名の通り、素晴
      らしい香りがする。 (コブシは殆んど香りが無い)

 

   ♦ 栃窪峠より ・・・・・ 魚沼スカイライン2つ目の十字路、大沢温泉への降り口
                  (十日町側へ降りると越後水沢駅方面に出る)八海山 - 022B 魚沼SKL・栃窪峠より.JPG

  ※ 写真は4月上旬、この季節は大抵魚沼スカイラインは通行止め。 この時は、十日町
       側から入って、来た道を帰った。 (スタットレスタイヤ装着は必須条件)

 

   ♦  魚沼スカイラインにて ・・・・・ 「三つ葉アケビ」 の花 (5月)
八海山 -  021 魚沼SKL.JPG

  ※ 芸術的な、雄花・雌花が共存しているのが面白い。

 

   ♦ R353 十二峠(十二峠トンネル出口:石打側)より
               (八海山~中ノ岳~金城山) ・・・・・ 5月八海山 -  023 十二峠(トンネル).JPG

 

  2-3 石打~塩沢

   ♦ 石打花岡スキー場より
      左:守門岳~金城山の裾野  右:八海山~金城山の裾野
      (金城山の裾野の延長で一番高い所が「坂戸山」、雪渓が残っている所)
八海山 -  024+025 石打花岡スキー場.jpg

 

   ♦ 大沢温泉の上手より、・・・・・更に登ると「栃窪峠」に至る八海山 -  026 大沢.JPG

 

   ♦ 塩沢より ・・・・・ 5月
             (左手前の山の、左端のピークが「坂戸山」)八海山 -  027 塩沢沢.JPG

 

 2-4 五日町~浦佐方向からの八海山

   ※ この方向からの八海山の写真はネット上からの写真しか有りませんが、参考までに
        掲載します。

 

   ♦ 五日町スキー場より・・・「雪国ネット様・五日町スキー場ライブカメラ」より
         左:初冬の夕方、月の出   右:参議院選擧前日7/21の様子
八海山 -  028+029 (Web) 五日町スキー場.jpg

 

   ♦ 浦佐スキー場からの八海山(右)と越後駒ヶ岳(左)、中ノ岳は八海山の真後ろで見えない
       左側手前に見える駅は、上越新幹線「浦佐駅」。

     (本写真の掲載元データ喪失の為、著作権侵害でしたら削除致します、お申し出下さい)八海山 -  030 (Web) 浦佐スキー場.jpg

 

  3. 越後三山

     実は越後三山が遠くから見ると八海山に似た形に見える方向がある事を知ったのはおよそ6
     年程前の事であった。

     八方尾根で出会ったアルピニストから、越後三山が見えると言われ、カメラの倍率(MAX10
     倍)を利用して覗くと確かに三ッつのピークが寄せ集まってひとつの山の様に見えた。
     しかし、確かに三ッつの山が重なってひとつに見える事は分かるが、どれが八海山か迄は
     分からなかった。
     その人の説明では左から、 「越後駒ヶ岳」・「八海山」・「中ノ岳」  との事で、 それを聞
     いてヒラメイた、 「そうだ、十日町から見た越後三山が、その順序で並んでいた様な?」
     「今日の天気ならこれから行っても写せるのでは?」 と言う事で他の予定をキャンセルして
     十日町へ直行。

     それが、写真として実現したのが下記の写真なのだが、見ての通り「魚沼丘陵」が邪魔をし
     て芳しく無い。  とは言え魚沼丘陵が無かったとしたら手前の山が別の邪魔をするかも知
     れないのだが、それでも「越後三山」がバランス良く見える場所が有ると考えている。
     そんなビュースポットを今も探しているが、中々行くチャンスが無くなって来て現在に至っ
     てしまいました。

     もし、どなたか探し当てたら是非教えて下さい。

   ♦ 今迄に見つけたベストバランスの撮影スポットはこゝ、十日町市・鐙坂(信濃川河畔)
八海山 -  031 十日町・鐙.jpg

 

   ♦ もしかしたら、こゝのエリアにベストポジションが有るかも?Y-地図・欠ノ上から四十日.JPG

今調べて見たいエリアは上記地図の三つの丸のエリア、魚沼丘陵・笠置山周辺ではないかと思って居ます。 が、保証の限りでは有りませんので、念の為。

市境(魚沼丘陵の稜線)から東側(南魚沼市側)は急傾斜地でモロい地質です。 入られる時は、くれぐれもご注意下さい。

 

考えて見たら秋に故郷へ帰る事が極めて少なかった。 その為、秋の写真が極めて少ない事に、今回探して見て改めて気が付いた。
今回の写真に秋の風景が無い事もそんな理由からだった。 ネットからの借用も考えたが、私の主義に反するので今回は最小限に留める事にした。

その内、機会が有れば、故郷の秋・冬についても写すチャンスを作りたいと思っています。

それと、故郷のみんな! 秋・冬の景色についてはみんなの方がチャンスが多いと思うので 「ちょっと気に入った写真」 だと思うものは、是非≪見せっこ(投稿)≫し会いましょう!

【美人】と【山菜】に惹かれて

5月19日、中々同時に休めない親友と故郷で催される【山菜会】に招かれ、日帰りで参加する事にした。

前日の天気予報では故郷(新潟県・南魚沼市)では「曇り後雨」、【山菜会】の始まるお昼頃からは雨になるかも知れない。 と、言う事なので、少し早出をして、【美人】に逢いに行こうと言う計画をたてた。
友も私も故郷を語る時、幼い時から馴染んだ春の風景には言い現わし切れない郷愁の共通点があり、雪解け・春霞・ブナの芽吹き・山菜は春の代名詞と言える。

今回は、そんな春の【山菜】に出会える事になったのだから、ついでに【美人】にも逢いに行って来ようとなった訳。 もうお気付きの方も居られるでしょうが、そう、【美人】は美人でも、芽吹いて間もない【美人林(ブナ林)】の事。

故郷の隣、十日町市(松之山)にあると言う【美人林】、親友は何回か行った事があると言うが私は一度も行った事が無かった。 でも、行って見た結果、やはり行って見て良かった。 こゝへはリピーターになりそうだ。 子供達が一緒ならバードウォッチングには最適だ。

出来れば、レコーダー持参で1~2時間定点録音をして小鳥たちの声と風の音を収録したかった。 キツツキのドラミングも日常を忘れさせてくれる。 恐らく夏の夕暮れにはヒグラシの大合唱が聴けるだろうし、秋の黄葉や晩秋の落ち葉の森も散策にはいいだろうな!

そして時間が余ったのでついでに【星峠の棚田】や信濃川河畔・「越後三山」のビュースポット【十日町・北鐙坂(きたあぶみざか)】、故郷・城内の【上原と新堀新田境界・石万川付近】から「八海山」を撮影して回り、ちょうど昼からの【山菜会】に間に合った。  と、言う行程でした。

今回は、そんな【美人林】と【山菜】に惹かれてのワンデー・ドライブを中心に書いて見たいと思います。

 

 

【美人林】

 

今回の主役はその名の通り【美人林】と呼ばれるブナ林で、白神山地や岩木山・北海道などではもっと大木が林立するブナ林を見た事があるが、これだけ身近で気軽に行けるブナ林で、これだけの規模と優美さを兼ね備えた所は、多分数少ないだろう。
「どこが?」 と、問われても表現出来ないが、太平洋側とは何かが違う、雪国の愛着の有るブナ林である。

 

   ♦ 【美人林】 入口
2013.05.19 U - 001 美人林.jpg

   ♦ 【美人林】 散策
2013.05.19 U - 007 美人林.jpg

2013.05.19 U- 017 美人林.jpg

2013.05.19 U - 022 美人林.jpg

木漏れ日の中、時折聞こえるキツツキのドラミングと小鳥たちの綺麗な鳴き声を楽しみながらの散策は、木立ちの放つ新緑の香りと相まって心洗われるひと時だ。

 

梢でさえずって居た小鳥かどうか解らない(鳥には詳しくなくて解らない)のだが、偶然目の前の小枝に飛んで来て、すぐに飛び去った小鳥が一羽カメラに捕えられた。

   ♦ 鳥の種類等不明 ・・・ 尾羽が長く、雀位か少し大きい?
     (ムクドリよりもかなり小さくスリム、逆光気味な事もあるが体色は黒か灰色に見えた)
2013.05.19 A - 小鳥 【美人林】.jpg

ブナの実は鳥たちだけでなくリスや小動物~熊などをも育む。 大切に残したいエリアだと思う。

≪ 余談 ≫

美人林の入口(駐車場の所)で山菜が売られていたが、思ったよりリーズナブル。 この日はウドとワラビが大量に出ていたが、木の芽(アケビの新芽)やウルイ・コゴミ・タラノ芽・コシアブラ・蕗、等々。 この後6月頃は竹の子(根曲り竹)が出る様になるとの事だった。
 ※ ゼンマイも採れるが、乾燥したものでないと売れない為観光用には出さないそうだ。

 

 

【星峠・棚田】

 

元来この地域を始め、日本各地では古代から水稲の産地が多く、棚田はどこにでも作られた。 最近まで棚田をわざわざ見に行くなど考えた事も無かったが、この【美人林】訪問の関係で集めた十日町観光協会発行のパンフレットに載っていた【星峠の棚田】写真に魅せられて、つい足が向いてしまった。

 

   ♦ 棚田の風景
2013.05.19 U - 001 星峠・棚田.jpg

 

【美人林】 を堪能した後の時刻で、かつ天気が下り坂で湿度が上がって来ていた為、覚悟はしていたが遠くが霞んでしまい、PCで少しコントラストを強調してやっと、この写真でした。(これ以上調整すると、違和感が出るでしょう)
やはり、かなり整地された棚田でしたが、春夏秋冬・日の出前後・雲のたなびき方などのタイミングに恵まれたら、いい写真になる地形でした。
ちなみに、私の感動した十日町観光協会発行のパンフレットに掲載されていた写真と同じ写真を下記掲載しますが、著作権侵害となってはいけないので、他用出来ない縮小リサイズ版です、イメージ用とお考え下さい。

星峠・棚田.JPG

なお、この写真を始め、関連棚田写真は Google などの検索サイトから「星峠」・「棚田」をキーワードに見つける事が出来ますので、写真としてはそちらのサイトでお楽しみ下さい。
 

 

 

【信濃川と越後三山】 ・・・・・ 信濃川河畔(十日町・北鐙坂付近)にて

 

   ♦ 写真左 : 河岸段丘上からの信濃川下流方向  写真右 : 同じ位置からの越後三山
2013.05.19 C【鐙坂・十日町】.jpg

上、左側の写真 「信濃川」の右岸に十日町市街地が広がり、手前に見える橋がR253号線。
写真撮影の場所は足元から30~40mの崖(河岸段丘)になり、信濃川西岸を形成している。

上、右側の写真は同地点から東正面を眺めた風景。空気が澄み切って居れば【越後三山】が良く見えるのだが、大気中の水分が増加中のこの日は残念ながら魚沼丘陵の後ろに、薄っすらとしか見えなかった。 越後三山はこの方角からが一番、三山揃ってバランス良く、美しく見える。
 ( 越後三山とは左から、「越後駒ヶ岳」・「八海山」・「中ノ岳」 )

 

   ♦ アンニンゴ(ウワミズザクラ)の花
2013.05.19 C【鐙坂・十日町】.JPG

勿論、ご存知の方が多いとは思いますが、こゝ河岸段丘上で見付けたアンニンゴ(ウワミズザクラ)が満開で、新緑や藤の花との微妙なミスマッチも絵になるかと思い、1枚。
説明不要かと思いますが、白い猫じゃらしの様な花が「アンニンゴ」の花。 この花の蕾みが白くなる前の柔らかい時期に摘んで塩漬けにしたものが、山菜のアンニンゴとして道の駅などで売られている。
(一部の地方では若い=柔かな果実も同様に塩漬けにしてアンニンゴと呼ぶらしい)

 

 

 

【八海山】 ・・・・・・ 久し振りの上原からの眺め

 

   ♦ 富士塚の南、石万川とザッポリ川の合流地点付近から
2013.05.19 C 【八海山・上原より】.jpg

天気のせいで色彩は出難かったのだが、山頂をズームアップして行ったら 「千本檜小屋」 や 「地蔵岳」 への登り道、脇にある「大きな(丸い)岩」まで良く見えた。 昔、この岩の上で、イサオが万歳してた写真が有ったっけなー。

 

 

 

【山菜会】 ・・・ 恐縮、ただただ山菜料理を「ごっつぉ」んなり
        腹いっぱい食って飲んで・・・幸せだな~ 僕かあ! (古~い!)

 

   ♦ 会場になった、地域開発センター(鬼の面=おんのつら前)からの宇田沢川
2013.05.19 C 鬼の面 【八海山・開発センター前】.jpg

こう言うコンクリートの見えない、魚たちや生態系に優しい堤防も残したいものだが、地元に暮らして居ない人間のエゴなんだろうか?

 

   ♦ 【山菜会】 献立お品書き
2013.05.19 C 【山采会メニュー】.JPG

 

   ♦ 開始前、配膳 ・・・ 参加者多数でテーブルに並ぶ形、写真はほゞ一人前のレイアウト
山菜料理の一部.jpg
 

写真の「おひたしの盛り合わせ」は右側が私の割り当て分、左は隣の人の分。 また、上のテーブルの3品は3人にひと鉢平均に盛り付けられた漬物類で、ミヤマイラクサ・蕗・ウルイ、アサヅキとアンニンゴの漬物。

この他、天ぷら(タラノ芽・フキノトウ・ウド・コシアブラ・ツルニンジン・モミジガサ)やワラビ汁、ヨモギご飯、手打ち蕎麦などが出され、他にビールや日本酒などが十二分に振舞われた。 山菜の種類は約20種類との事だが、宴が進むにつれて’(色々な料理に混入する例があり)数え切れなくて、数える事を止めた。

ヒデコ

   おひたしの盛り合わせの中に、【シオデ】 と言う山菜が有ったが、東北(特に秋田を中心)では
   【ヒデコ】 と呼ばれている。 民謡・ヒデコ節 にも歌い込まれる程ポピュラーな山菜らしい。
   我々が子供の頃は、シオデもヒデコも聞いたことも食べた記憶も無いのだが・・・・・?
   子供の頃の記憶はともかくとして、山のアスパラと言われる位で、やっぱり美味かったな~!

謎の山菜 【クタチ】

   私にとって幼い頃は良く食べた記憶があるのだが中学卒業以来、誰に聞いても明確に覚えて
   居る人に会えず、【クタチ】と言う山菜が長い間 謎の山菜であった。
   今回は改めてその【クタチ】を味わう事が出来た。 (そう、まさに記憶の味・香りだった)

古老の話と地元の通人の話を総合すると、一般に「ソバナ」と言われている「ツリガネニンジン」によく似た花を咲かせる植物とわかった。 言われて見れば、ソバナもネーミングからして食べられる植物に完するナ=菜とソバ=蕎麦で、山菜辞典などにも載っている。
ただ、なぜ【クタチ】なのか、なぜ魚沼地方の特に古老でも一部の人しか【クタチ】と言わないのか? 疑問は残るが、【クタチ】の正体がわかっただけでも大きな第一歩だ。
それにしても、ソバナなら山野草として、花も葉も良く知っていたのに50年以上山菜としての認識をして無かったなんて、気が抜けてしまうね!

城内人の絆

今回 【山菜会】 に出席させてもらって嬉しかった事は、故郷の人達がこういう絆を大切にしている事と、こう言う集まりがもう数十年続いている事を初めて知った。 これが何よりも嬉しく頼もしい気がする。
そしてもうひとつ、我が町の自然 【ギフ蝶の生息地保護】 について、熱く語り会う人達が居た事である。
感動したな~! (これも古いフレーズでした! ・・・・・・ が、気持ちは同じです)

 

 

 

【関連地図】

 

   ♦ 広域図 ・・・・・ 赤丸の中にAマークの場所が【美人林】
松之山・美人林 広域.jpg

 

 

   ♦ 十日町観光協会発行のパンフレットに載っているMAP抜粋
【美人林・星峠】 案内図.jpg

     美人林 ・・・・・・・・ B5
     星峠の棚田 ・・・・・・ A4

 

 

   ♦ 美人林・補助MAP(詳細)
松之山・美人林.JPG

  注) 森の学校キョロロの位置がもっと手前だった様に思う。 松之山松口、美人林の入口付近だった。

 

 

   ♦ 星峠の棚田・補助MAP(詳細) ・・・ ✔ マークの所
十日町・星峠.JPG

 注1.) 松代方面(右)からR403を来ると、右折場所がわかり難くトンネルまで来てしまう場合あり。
     その場合はトンネルを潜って出たらすぐ左折すると、トンネルの上を通って星峠の棚田へ行ける。

 注2.) 撮影場所を求めて未舗装の細い道に安易に車を乗り入れない事。 軽自動車のワダチを普通車
     以上の車両で辿って行こうとすると、抜けられなくなったり転落事故の元となります。

 


 

 

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「藤代歳時記・キジ‐2」 ・・・・・ 小貝川河川敷のキジ 「A君」 のその後、続編です。

 

4月24日 ・・・ (キジの高鳴き)

 

「キジも鳴かずば撃たれまい!」 って言われる位、キジの 【高鳴き】 は有名だが、実際の鳴き声を知る人は意外に少ないと思う。

昨日 (4/23) は、幸い3回も 「キジの高鳴き」 を動画で撮影出来たので、皆さんにもご紹介しましょう。
モデルはこのブログの主人公A君。 場所は例に依って、小貝川の河川敷・ゴルフ練習場。
天候も良く、打ち放し練習の打球がビュンビュン飛んで来る中、A君ファミリー ウォッチ中の 【高鳴き】 3シーンです。

   ♦ A君ファミリー
A君ファミリー 1024×482 (2013.04.23 13.35AM).JPG

 

   ♦ A君の【高鳴き】シーン ・・・ 動画の中から切出した画像の為、画素が粗い事はご容赦!
A君の高鳴き1024×576 (2013.04.23 13.35AM).JPG

 

 ◆ 実際の【高鳴き】シーンと鳴き声はこちら 「A君の高鳴き」 をクリックして下さい。
     (You Tube の投稿動画です)

 

ところで、キジの鳴き声って 「ケーン!」 って鳴くって言われてるけど、何度聞いても私には 「ケーン」 とは聞こえない。
「もしかしたら、キジにも茨城訛りがあるのかな?」 なんて疑問も浮かんだが、子供の頃 故郷(現・南魚沼市)で追いかけたキジも同じ鳴き方であった事を思い出した。

「ケーン」 と表現される様になった切っ掛けは何故か? 興味がありますね!

 

 


 4月22日 ・・・ (キジもハーレムを?)

 

早朝、キジの鳴き声で目が覚めてベランダに出ると 「A君」 が 「雌キジペア」 を呼び寄せているらしい光景だった。

日の出前にもかゝわらず釣りのボートが遡って来ると、何を思ったか「A君」が川の縁に近づいて眺めて居る様子。
   ♦ 写真A ( 5:10AM 少し薄暗かった為、PCで画像補正してあります)
小貝川 キジA- 002 (藤代歳時記).JPG

        「朝まだき釣り人一人小貝川 

                 小舟見つめしキジ何思う」

 

驚く事に、今朝は「雌キジペア」の他にもう一羽の雌が仲良く居たが、日の出迄間が有ったので撮影は一時中断して、7:30AM頃から観察再開。

   ♦ 写真B ( 7:30AM 頃 ) 雄キジ「A君」のハーレム家族?・・・A君ってモテるんだね!
小貝川 キジA- 013 (藤代歳時記).JPG

4月11日に見かけた様な雌に求愛する積極的アタック行動は、この1週間、まったく見られ無くなった。
(体を膨らませる行動はよくやるが、雌キジが逃げる事も無く、恐らく家族への親愛行動だろう)

雌キジの採餌行動が以前に増して倍増している気がする。 そんな行動パターンから推測すると、雌キジペアとA君は間違い無く家族関係が成立したものと思う。
また、もう一羽の雌もファミリーに加わったと思われるのだが、時々見えなくなる事が有り、今の所、断定出来ないがこれ以降一応A君ファミリーとして置く事にする。 (実際は個体が入れ替わっているのかも知れないが、細かい事は棚上げして置きましょう)

そこで、雌達の食欲増進と A君の行動が示す事と言えば、恐らく営巣・産卵の準備なのだろうと考えられる。
(巣は恐らく雌が各々別々に持つものと思うが・・・抱卵と給餌でA君はどう係わるのかな~・・?)

 

あと何日、こんな姿が見られるのかな!
   ♦ 写真C ( 8:40AM 頃 ) 他のキジの高鳴きに対して、テリトリー宣言の高鳴き一声直後
小貝川 キジA- 050 (藤代歳時記).JPG

この時点では、雌キジ2羽(恐らく「ペア嬢」)しか見当たらなかった。

しばらく後、

   ♦ 写真D ( 9:50AM ) キジ 3羽の中の 「A君」 (この時の雌キジも2羽、恐らくペア嬢)
小貝川 キジA- 055 (藤代歳時記).JPG

   ♦ 写真E ( 9:50AM ) 「ペア嬢」だと思うけど・・・?
小貝川 キジA- 058 (藤代歳時記).JPG

 

 


 

 4月19日 ・・・ (モテ期?)

 

昨日は久しぶりに午後3時位から時間の余裕が出来て早めに帰宅したら、マンション下の河川敷からキジの鳴き声が聞こえて来た。

例のごとく、先日書いた  【 恋の季節(藤代歳時記・キジ‐2)】  で紹介した 「A君」 と、恐らく 「婚活ペア」 として紹介したペアと思われる雌キジ2羽が仲良く3羽で餌を啄ばむ姿が有った。

しばらくは、「あ~またデート中かな?」と言う事で たゞ眺めるだけだったのだが、突然1羽の雌キジが飛んで来た。 ( A君はモテ期なのか?)
慌ててカメラを取り出して撮影したのが次の4枚。

      ※ 会話・コメントは場面のイメージからの創作ですので悪しからず。

 

   ♦ A君 「ん! お前誰だ?」    (私K子、わたしも一緒にいいかしら?)
2013.04.18  A- 013 キジ (藤代歳時記) 1024×682.jpg

   ♦ しばらくこんな距離間で、お互い餌を啄ばんでいた
2013.04.18  A- 014 キジ (藤代歳時記) 1024×682.jpg

約20分位 K嬢 と3羽の間はほゞ等距離であちこち動き回っていたが、不思議な事に雌キジ同志で争う素振りも無く、また、雄キジ A君 も前回の様に雌キジに対してアタックする行動も見られず、仲の良い3羽の群れに雌キジ1羽が加わりたがっている光景にしか見えなかった。

それから約15分後、

   ♦ 4羽仲良く餌を啄ばむ姿が見られた
2013.04.18  A- 021 キジ (藤代歳時記) 1024×682.jpg

 A君は、終始雌キジ3羽を見守る様にそっと3羽の後を付いて回っていた。

その後約1時間程目を離していたらまた A君 とペア嬢 の3羽に戻っていた。 K嬢は A君 が雄としてアタックしてくれないのが不満だったのかも知れない。

 

   ♦ ゴルフ練習場の人がゴルフ球の回収をしている近くで警戒しながら餌を啄ばむ3羽
2013.04.18  A- 024 キジ (藤代歳時記) 1024×682.jpg

ゴルフ球回収の人とはこれ以上近づかない様に調整しているらしいのだが、逃げる様子も無い事から、人を見分けているのかも知れない。

 

それにしても不思議なのは、前回はあんなに雌キジに対してガツガツとアタックを繰り返していたA君が、8日後の今日は、計約3時間見て居たが1回もアタックしなかった事である。
また、例え 2羽のペア嬢 と関係が出来たとしても、3羽目が来たら遠慮はしないのが普通(一夫多妻)だと思うのだが、今日見た光景はキジらしく無いモラルの高さを感じさせられた気がする。 (ホントかな~?)

 


 

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「柏崎原発」は安全か?

今年は何かと政治絡みの重大な二ユースが多かったが、その中でも東日本大震災に端を発した原発の安全性問題が、原発政策の根幹を揺るがしている。

しかし、原発の安全性に関しては今検討されている震災対策などは、東日本大震災と言う尊い犠牲を払わずにも十分に予測し得た内容である事が悔やまれる。

今迄言われて来た「安全神話」は、やはり企業と政治により人為的に作られたものと言わざるを得ないない。

と、ここまではTVなどで評論家や主に原発反対派の政治家の理論で、丸々支持するつもりはないが、様々な情報隠ぺいや説明会での情報操作疑惑の実態が浮き彫りになって来ると既存の原発の安全性については、やはり企業と従来の監査システムの中での安全宣言は “不安” と言わざるを得ない。

♦ 誤解を招くといけないので原発について、私の「基本姿勢」を明記して置きます。

   1. 長期的には【商業用原発ゼロ】が理想的だと考えている。

       理由 ① 地上設置型原子炉は、やはり地震国日本にはリスク大。
             技術的ブレークスルーで小型・安全な物が出来れば別。
          ② 核燃料リサイクルも、現状ではリスクが大きい。
             使用済みを含む燃料の保管・運搬・リサイクル工場と、其々の
             管理・警備など何れも不十分な体制である。(テロ対策含む)

   2. 現状の日本の政治体制の中で、即原発ゼロが出来るなんて幻想は持っていない。
       (独裁者の国か、一党独裁の小国で無い限り、即原発ゼロは非現実的妄想)

      原発ゼロへの道筋も無く、むやみに原発を止めたまゝ3年も続いたら日本沈没だ。
      (企業も国も、農・林・水産業もすべてが連鎖してギリシャ以上の経済破綻に!)
      従って、代替電力の整備期間中は最低限度(期間限定)の原発稼働が必要だ。

   3. 今の最優先事項は、リスクの少ない原発を何基稼働出来るかを早期に確認し国内
      の電力需要を経済的にも不安の無い状態に戻す事。

      同時に、「代替エネルギー整備計画(廃炉計画を連動)」を作成・実行する事だ
      と考えている。

 

【日本の原発MAP】と【柏崎刈羽原子力発電所】

  ※ この項のマップ及びデータは(株)講談社様発行のブルーバックスシリーズB-1759
     「日本の原子力施設全データ」(2012-2-20版)から引用して居ります。

♦ 全国マップ 及び データの対比凡例

原発MAP 1.jpg

 

♦ 「マップ」&「原発敷地内レイアウト」

柏崎原発MAP 1.jpg

 

♦ データ

柏崎原発DATA 1(1280).jpg

柏崎原発A-1.JPG

 

※ 「柏崎刈羽原子力発電所」・・・・便宜上、これ以降は 「柏崎原発」 と簡略表記します

 

【「柏崎原発」の安全性】について

原子炉や建物の安全性についての具体的な事は専門家の判断を待つしか無いが、現時点で気になる事は、【活断層】についてである。

上記データ項目 ⑰ では、直近の活断層は約17kmの距離に、長さ36kmの規模のものがある、と記されている。
が、このデータは原発建設候補地選定用の調査報告書の数値であり、調査自体も今から見れば公平性を欠く人選で行われた疑いも拭えない。
  (再調査した各地で露見した事が、この地では無かったとは考え難い)

♦ 今回の活断層調査対象から、なぜ「柏崎原発」が外れているのか不思議!

地形を見れば明かだが、活断層が直近17kmとある事に疑問が生まれる。
例えば、【17km離れた所に「原発」と並行に36km規模の活断層がある】と言う意味なら、例え動いたとしても「原発」のダメージは少ないだろうが、【17km離れた場所に「原発」と直角に36kmの断層がある】と言う事になれば話は変わる。

阪神淡路大震災の時、当時大阪・豊中市に住んで居て震災に遭ったが、それまで断層なんて無かったと言われていた神戸から伊丹空港の先まで約40km位新しく地割れが起きて、激震が走った。
元々は淡路島あたりの古い断層が動いたものがトリガーとなったと言われている。

つまり、例え断層が無い所でも、断層の切れ目の方向にある場所は多分に危険性がある と言う事。

これを考えると、柏崎原発から17kmと言う断層が魚沼丘陵を切り裂いて走っている(魚野川沿い)断層で無い事を祈りたいが?

これは直線で約17km、しかも「原発」とほゞ直角。 中越地震の震源域でもある。 再調査が有っても不思議でないはずなのだが?

♦ 念の為、周辺マップ(Google)を掲載して置きますのでご参照下さい。

柏崎・南魚沼市-M01.jpg
リサイズの過程で文字が読み難くゝなりましたが、Google Map で見て頂けばハッキリします。

 

♦ もう一つの懸念

「柏崎原発」の周辺一帯は太古、信濃川河口流域の泥炭地である事は公知の事実。
普段の乾燥期の地震では大丈夫だと思うが、雨期の最中~直後の様に大地が雨を多量に含んでいる時期に巨大な震災に見舞われたとしたら、あちこちが【液状化】現象で災害や事故の対策が大きく阻まれる事が予想される。
  (3.11の悪夢を繰り返す事になり兼ねない)

こんな点でも、後に想定外などと言わない対策を願いたいものである。

 

 


 

 

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故郷「藤原」のルーツを求めて

意外でしょうが! 八方尾根からのパノラマ写真からご覧頂きましょう。

 

【八方尾根から 「八海山」 が見える】

みなさん! 長野県白馬連峰・唐松岳山麓八方尾根から、新潟県南魚沼市の「越後三山」が見えるって、
いや、「八海山」が見えるって知ってましたか?

見えるんです、1年に何日かは肉眼でも見えるんですよ! 特に残雪のある季節の、よく晴れた日は
とっても見付け易いんですよ!

  ♦ 八方尾根第一ケルン付近より   (撮影 : 2007.05.21)
      --標準撮影--
2007.05.21 八方尾根・第1ケルン周辺からの越後三山 1.jpg

     --約12倍ズーム-- 【越後三山 : 越後駒ヶ岳・八海山・中の岳】の総称2007.05.21 八方尾根・第1ケルン周辺からの越後三山 2.jpg

え、 「越後三山じゃなくて八海山ではないか?」って? そう、「越後三山」全体で「八海山」の様に、
      形が似てるんですよねー。

でも、次の写真をご覧下さい。 同じ日の午後、同じ方向、十日町からの写真です。

  ♦ 十日町市北鐙坂(あぶみざか)付近からの「越後三山」
2007.05.21  十日町からの越後三山.jpg

こんな風に越後三山の中でも前に見える事から、八海山の事を「前山」もしくは「前岳」と、
呼んだ事もあるとの事。

「百名山」2峰を従者として引き連れた「八海山」の堂々たる姿は中世ならずとも信仰の対象にしたくなる、
 もしも、深田久弥がこの角度で越後三山を見て居たら、百名山も入れ替わって居た事だろう。

と、前振りが長かったが、手前に見える魚沼丘陵の向こう側、八海山の麓に広がる旧・「城内村」、
この “のどかな村” が今回のテーマの舞台です。

 

【現在の旧・城内村・全景】

  ♦ 魚沼スカイラインよりの俯瞰写真
    (魚沼スカイライン:魚沼丘陵の尾根道、魚沼盆地や山岳展望のドライブウエイ)2007.05.21  N-002 魚沼SKL (B)A.jpg

※ 旧城内村とは、写真の中の、三国川(サクリゴウ)と魚野川に囲まれた八海山の麓の地域。
   現在では南魚沼市の一画となっています。
   八海山スキー場のロープウエイは通年運転で、10月中旬~11月上旬は紅葉が綺麗ですよ!
    (勿論、登山にも便利)

 

【キーワードは 「藤原(ふじわら)」】

ここ南魚沼市には昔からの大きな城下町でも無いこんな小さな地域の中に、何故か古来からの由緒を持つ
寺社が寄せ集まっている。
その中でも六日町を中心とした私達の生まれ故郷の寺社の縁起を信じると、どうやら「大化の改新」の中
富鎌足=藤原鎌足のルーツ
に繋がるハナシらしい。

ま、神社・仏閣の縁起などは、大部分が捏造されたりその時々の権力者や政治のはざ間で改ざんされて、
真実は曲げられている前提で考えなければならない。 が、逆の見方をすれば、真実も含まれている可能
性もある訳だ。

今回はプライベートに色々調べた程度であるが、私達の生まれ故郷にある「藤原」と言う部落名のルーツ
について探って見たい。

その前に、ここで言う【部落】は【部落差別】とは、一切無関係です。誤解のない様にお願い致します!
従って、【〇〇部落】とは住居表示と同様に、居住エリアの区別に使っている以外の意味は有りません。

話を元に戻します。

まず、現在の私達の故郷がどんな所かイメージを描いて頂きましましょう。

  ♦ 南魚沼市観光協会発行のパンフレットより
周辺マップ.JPG

上図中、城内村とされるエリアは、左回りに、八海山・六万騎山・魚野川・三国川・高倉山・阿寺山
に囲まれた地域です。
そして「藤原部落」は、図中の高倉山の上に〇で囲んだ “法音寺” と表記されている地域にあります。

昔からそのルーツについては 「平家の落人説」、「後三年の役の落人説」、或いは 「藤原摂関家の
関係者ルーツ説」 等々、色々な説がある。

ここでひとつ一つを検証して行くつもりは有りませんし、これが正しいと言える物証も乏しい。
そこで、細かい検証作業は専門家に任せるとし、今回はみなさんにもそんなルーツ説に触れて頂いて
この地を旅する時の参考にして頂ければ幸いです。


また、歴史を紐解いて行く過程で、物証の無い所を推理して自分なりに歴史を紡いで行く作業も結構
楽しいものです!

 

【「文献、記録」・「寺社の縁起」等】による歴史

1.「城内郷土誌」による年表・・・・昭和34年度編纂版による。

  ♦ 年表・関連部分抜粋 ・・・ コピーの為、見にくい点はご容赦願います
城内郷土誌・年代表-01.JPG

この郷土誌編纂では、明らかに違うと確認されたものは除いているが、口伝なども細かく拾い上げており、
資料としはて心強い。

口伝もまた、真実のヒントを含む場合が多いと私は思っている。

 

さて、この年表を見ると、「西暦272年、清原政次と言う人(神職と思う)が氏子8苗を引き連れて大和
・豊明の里より八海明神を奉じてこの地に移住して来た」と言う項目で、城内史は始まっている。

この時の8苗とは、岡村・貝瀬・上村・北村・遁所・行方・山崎・山本の8姓だそうだ。 しかし、3世紀
後半、卑弥呼が亡くなったと言われる西暦249年からわずかに23年目、大和政権も生まれたか否かと思
われる時代、大和の国から8苗の氏子を連れて移住をして来る神職が居るとは考えられない。

また、清原姓も8苗姓も、西暦272年時代の氏名(うじな)としては近代的過ぎるのも違和感がある。

従って、この逸話は明らかに後世の人の捏造だ。

 

9世紀中頃(856年)、「大地震により、峯八海社倒壊」。 10世紀(913年)、「暮坪に峯八海遥拝の
場所として里宮を建立」 とあるから、古く見積もってもこの頃作られた逸話であろうと考えられる。

ただし、八海明神信仰(木曽・御岳の八海山など各地に八海山と命名された修現場が作られた)は、山伏達の
活動とリンクして、4~5世紀位から活発になっている。
大地震で倒壊した【峯八海社】は彼等山伏達が建立したものと推測される。(場所は暮坪か?)

実は、暮坪と言う現在の地名の場所をその地であるとするには疑問を拭えないのだが!
何故なら、八海山を遥拝するはずの【峯八海社】を、最初からわざわざ手前の山で八海山が見えなくなる位置
に「社」を建てるだろうか? と言う疑問が湧く。

「八海山」 遥拝の地としては、むしろ、後述する 「藤原の裏山(飯盛山)柳平=行基菩薩が草庵を結んだと
言われる場所」では無いかと考えて居る。 そう、【法音寺】 発祥の地。

それならば、なぜ今の暮坪の地に移ったのか? これについては今回のテーマとは離れてしまう為、また別の
機会に考えて見たいと思う。

 

余談ではあるが、西暦856年の大地震と言うのが気になる。
もしかしたら2004年10月16日の新潟県中越地震と同じ震源では無いかと思う。

 

次に、西暦731年~743年の記述、これが今回の最大の謎。
もしも、記述が真実であれば、こんなヘンピな城内村、或いは南魚沼市は、古代史の名刹を抱えた歴史的
地域だった事になる。

 

2.「藤原部落」と「法音寺」

  ♦ 現在の 「法音寺(ほうおんじ)」 と 「藤原(ふじわら)」 周辺地図
城内地図01C.jpg

地図中央の下の方に、「法音寺」と「亀福寺」と2つの寺が見えるが、この【法音寺】が今回の主役。

そしてその周りの「法音寺と藤原、妙音寺」と書かれた地域すべてを昔は【藤原村】、歴史が下って
合併前迄は【藤原部落】と呼んでいた。

なお、【法音寺】は越後・上杉家の菩提寺だった関係で慶長4年(1599年)会津移封で多くの末寺と
共に会津若松へ、そして関ヶ原後は米沢に移り、現在藤原には僅かに寺としての名跡を残すのみ。
本尊その他も、春日山・会津を経て山形県米沢市の上杉家御廟所のある現在地に移された。

  ♦ 【法音寺】 縁起、冒頭部分抜粋(城内郷土誌より)
法音寺・縁起 AAA.jpg

     ・・・主要部分を要約すれば次の様になるらしい・・・

天平3年(731年)   行基菩薩来たる、現法音寺の裏山「飯盛山」の柳平と言う所に草庵を結んで
             三厳庵 と名付けた。
天平8年(736年)   聖武天皇勅宣により、藤原不比等の子息・藤原政照、堂舎仏閣造営諸国巡見
             の為下向。
天平9年(737年)   藤原政照、この地にて落命(疱瘡の為)柳平から現在の地に移された三厳庵
             で埋葬。聖武天皇の綸旨を賜り、藤原政照の法名から【飯盛山法音寺蜜(三
               ?)厳庵国分寺】 通称【法音寺】と改名・昇格し、仏法興隆の精舎(僧侶の
               修行道場)となった。
               同時に、この地の名前「上河条村」を、藤原不比等の氏名(うじな)を宛て
               て【藤原村】 にせよ!との事で、村名も変えた。
               この時聖武天皇から金一千万両・珠御剣・三千仏の唐絵などが贈られ、妻女
               や藤原房前からも納経その他が寄進されたとの事。
天平11年(739年)    藤原政照の妻女、興福寺精舎にて妙音比丘尼となりこの地に来て、法音寺の
               近く、現在の妙音寺に庵を結び、ここで生涯を終えられた。
               この庵が後に【妙音寺】となり「妙音寺村」の総鎮守となる。

その後、源頼朝から源家繁栄の祈祷を依頼された事から繁城山法音寺】(なぜ「繁盛」でなくて「繁城」
なのかは不明)、そして時期は不明だが八海山法音寺】(多分、会津移封の時と思われる)と、山号が
変遷し、会津移封に伴い、末寺を含むほとんどの寺仏・経本等が会津・米沢に移された為、現藤原には僅
かな鐘堂などを残して現在に至る。

ただ、今回のテーマからは外れるので、山号の件は割愛し、以降は単純に【法音寺】として進めます。

なお、この【法音寺縁起】が起草された時代については、【繁城山法音寺略縁起】の見出しから始まって
いる事から、古くとも 「鎌倉時代」 ではないかと推測できる事をも念頭に、読み解く必要がある。

 

3.「関連資料」

  ♦ 米沢「法音寺」ホームページ (抜粋)
米沢法音寺・縁起 01.JPG

       ――― 以下省略 ―――
 

  ♦ 「雲洞庵(うんとあん)」ホームページ (抜粋) ・・・ 天地人ゆかりの寺

雲洞庵縁起B.jpg

  ♦ 藤原氏系図 ・・・ コンビニで入手の雑誌切り抜き (雑誌名不明)

      (代表的系図でわかり易いでしょう)
藤原氏系図.jpg

  ♦ 藤原氏北家、系図 

    数多く提唱されている藤原家の家系図で、小生が調べた系図に最も近く、より詳しい系図。
    「北道倶楽部」のHPから、主催されておられる岩田様の許諾を頂いて掲載しております。
    詳細は「北道倶楽部」のHP http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_41.html  もご参照下さい。

藤原房前家系図.JPG

 

 

【検証】 

1.藤原摂関家と魚沼地方の関係

  場所や設置時期の特定は出来てないが越後・魚沼地方に屯倉(みやけ:大和政権の直営倉庫)が有っ
  た事は、色々な古書に出て来る。
  従って、魚沼地方には屯倉に集める程の穀倉地帯があり、政権直轄の荘園が出来ていた。

  西暦645年の大化の改新でこの荘園が、中富鎌足=藤原鎌足に下賜されたと言う。

  これについては否定するべき材料がない、従って、事実として話しを進める事にする。
  (今回のテーマの時期に藤原一族の誰が引き継いだのかは不明なのだが)

  また、現在の六日町に大河ドラマでも知られた【雲洞庵】(うんとあん:前出の観光パンフレットの
  左下にある寺) があるが、ここも藤原本家由来の寺と言われている。・・・前述、雲洞庵縁起参照。

2.藤原政照とは誰か?

  城内郷土誌では「藤原麻呂」をその人としているが、はたして同一人物か?
  と、言う事で関西在住の知人に調べて頂いていたが、残念ながら最近その知人が亡くなられた為確認
  はできなくなった。  しかし、過去に途中経過の報告で「同一人物だろうと思う」と言っていた。

  もし、「藤原政照=藤原麻呂」だったとしたら聖武天皇の命を受けて諸国巡視と言う事も有りうる事
  であり、或いは陸奥の多賀城から秋田への新道開削で途中、体調を崩しての帰途、領地のこの地で落
  命したとも考えられる。 (実は新道開削は公務として記録があるが、諸国巡視は記録不明)

  死亡原因が天然痘による病死である事、時期が天平9年(737年)7月と共通で、藤原麻呂の記録
  では帰京(藤原京)後に亡くなった事になっているが、天然痘だとすれば、当時は都が疫病蔓延の中
  心地。 家族を避難させる事はあっても、病を押しても帰る(又は帰れた)だろうか?

  疫病であれば、死後すぐに遺体を焼く事も当然だろうし、結果、諸説もまた生まれ易い。
  城内郷土誌中の法音寺縁起にも【彼歯骨等奉南都贈当寺留置示後・・(以降現代訳)・・再度の勅に
  よって当寺を政照の墓所とし、政照の法名を取って法音寺とする・・・】 とある事を見れば、

  天皇の勅により陸奥・多賀城に下向していた藤原麻呂が、多賀城から秋田城までの軍用道路開削指揮
  の途中で痘瘡(天然痘)を発病した。当時痘瘡と言う疫病に苦しめられていた藤原京の為政者達は、
  例え不比等の孫と言えども都への帰京は許されず、藤原家辺境の所領地での療養を名目に上河条村へ
  来て(或いは来る途中)亡くなった。 そこで遺体の焼却(当時は土葬が普通、高貴な家柄であれば
  なおの事)を指示した、そしてその事後処理が問題となる。例え、骨だけとは言え、都に帰すとなれ
  ば彼の従者達も帰さなければならなくなる。と言う事は、再び疫病を都に持ち込むリスクが大きい。
  そこで、苦肉の策として取られた策がこれ。
   【麻呂の遺体は現地で焼いた、お骨は一番近い藤原家の所領地の寺に留め置き麻呂の
     墓所とする、そこに家柄に相応しい寺の格付と村の名前変更を、勅と言う形式で実施しよう】

  とすれば、本来「藤原麻呂」だった人に、(任期途中だったとの)傷を付けたくない誰かが、便宜上
  法音寺関連だけに「藤原政照」の名前を使用していた。 と言う推論も成り立つ。
  これなら「藤原麻呂が藤原京に帰ってから痘瘡に罹り死亡」と言う説も容易に作れる。

  が、藤原麻呂の「天平9年(737年)持節大使に任ぜられ、陸奥・多賀城より雄勝村を経由して出羽・
  秋田城への直通道路開削事業を行い、同年に帰京するが、当時流行していた天然痘にかかり7月13日
  に薨去」と言う記述には不自然な点がある。
  当時の藤原京から陸奥・多賀城(柵)迄の往復日程と出発帰着前後の準備・整理日程、軍用道路開削
  日程それに痘瘡の潜伏期間から死亡までの期間すべての行程を考えると、わずか半年で起こる事象と
  するには無理がある。(例え元日に勅が出たと仮定しても)
  そして、前記「法音寺・縁起」の中で、【・・当寺留置示後帝王自再綸御下為・・】 とあるのは何を
  意味するのか?
  もちろん藤原政照は勅により諸国巡見に出ていた事になっているから再度勅が出ても不思議はない。
  しかし、その内容は別格で、前後の歴史に名前が載らない様な人物、まして僧侶でも無い人物の為に
  国分寺級の寺を建てるなんて有り得ない事である。

  従って、【「藤原政照」とは為政者(藤原本家房前)の都合で便宜上作られた名前】で【藤原麻呂
  が実名
と考えた方が論理的な話として繋がるのではないかと思う。

  不比等の息子4人とも、わずか1年半位の間に全員天然痘で亡くなった事は有名な出来事である。

3.法音寺と行基の関係・・・法音寺開祖説

  これは全くの捏造だ。
  まずは行基の行動範囲、実質的に行基が行動していたのは広く見積っても現在の地理で奈良から京都
  ・滋賀・三重の範囲、彼の弟子達が動いたとしても天平12年(740年)以前、この地に行基の関
  与があるはずが無い。
  行基と聖武天皇の関係が始まったのが天平13年(741年)、天平15年(743年)大仏建立の
  勅で本格的に全国への勧進活動が始まる。
  この地、藤原村に行基の係わりが出来るとしたら、この天平15年以降しか考えられない。
  まして、行基が健在の年代に行基菩薩云々と言う伝承は、自ら捏造を白状している様なものである。

4.藤原村の人々

  藤原で500年以上続いていると言う旧家があるだろうか?
  恐らく城内中を探しても500年以上の系図(文書と言う意味ではないが)を持つ旧家は無いと思う。
  城内と言う所は意外に人の出入りが激しい所の様です、古くは平将門の残党や前九年・後三年の役の
  残党も来たかも知れません。
  しかし、城内はおしなべて人々の入れ替わりが多かった地域らしい。従って、古の名刹も意外に忘れ
  去られてしまったのかも知れない。

 

【「藤原(村もしくは部落)」のルーツ まとめ】

 ♦ 私の考える「藤原」のルーツは以下の通り。

   1. 藤原麻呂(京家)が陸奥平定の為の、多賀城→秋田城間の軍用道路開削中に藤原京で感染し
      潜伏していた天然痘が発病。(天平8年末~天平9年春)

   2. 帰途、都は天然痘が蔓延、療養目的で藤原家所領地の越後上河条村に来たが、ここで死亡。
      しかし、ここで天然痘が流行ったと言う形跡が無い事から、事実は途中で亡くなって、遺骨
      となってこの地へ来た可能性もある。(天平9年7月頃)

   3. 藤原摂関家の政治力で【麻呂】を【政照】に替え、勅(みことのり)と言う形でこの地に祀
      る事にして、その法名をとり【法音寺】を国分寺格の寺院として建立。 (天平9年)

   4. 同年、それまで「上河条村」と言っていた村名も藤原の呼び名に変えて【藤原村】とした。 

   ※   その後の経過については、法音寺縁起の項と重なるので割愛します。

 

【余談】

 始めは奥州藤原氏の流れを有力と思ったり、藤原魚名の名前から魚沼のルーツかも・・・なんて考え
 たりして見たが、やはり天然痘の流行、キーマンの没年と中央の政治的動向などを考えると、法音寺
 縁起の記述が、かなり正確なのでは無いかと思えて来て、上記のまとめとなりました。

 色々と、情報収集にご協力頂いた皆様方に、改めて感謝致します。  ありがとうございました。

 


 

私の、他のブログも読んでみたいと言う方はこちら 「♪ お暇なら来てよね!」 から
    (テーマごとに分類した索引です)
 

「故郷の古代史」と「八海山」

我々の故郷には出浦(イズナ)と言う地名がある。
何故“出浦”と書いて“イズナ”と言うのか? 子供の頃からの疑問であった。
今回は、そんな【出浦(イズナ)の疑問】と【故郷の古代史】を重ね合わせて謎解きを試みてみたい。

 

【プロローグ】

先の投稿【「魚沼」ってどんな沼?】では魚沼盆地は、「有史以来7世紀~8世紀初頭の頃まで、満々と水をたゝえた湖(大沼)だった」 と推理をした。
そんな地形のイメージを前提に、この地に移り住んだ古代人達が見た八海山はどんな眺めだったのだろうか? と想像してみた。
  (写真合成が粗雑で見にくい点はご容赦を!)

  ♦ 魚沼盆地が湖だった時代、古代遺跡がある現在地名で南魚沼市・余川付近からの春の風景hakkaisan yokawa.jpg

  ♦ 同上、余川の少し上部・上の原付近から、3月下旬・凍み渡りの頃の早朝風景。hakkaisan uenohara.jpg

魚沼丘陵の西側・信濃川沿いは、石器時代から縄文時代・弥生時代と交通・文化の要衝遺跡が数多く、遺跡ロードと言える。
一方、魚沼丘陵の東側・魚沼盆地は弥生時代以前の遺跡は規模も小さく数える程しか無く限りなく無人地帯に近かった。ただし、縄文時代は前期・中期・後期合計すると1万年もの期間があり、この間常に魚沼盆地が満水だったとは考え難い。何回か増・減水期を繰り返し、減水期には縄文人の進出も繰り返された事と思うが、増水期には縄文人の痕跡も再び消し去られる、これを繰り返して来たのでは無いかと思う。
従って遺跡が無いから縄文人が住んで居なかったとは言えないと思う。これからも思わぬ所から縄文遺跡が発掘されるかも知れない。

そんな魚沼盆地に人々の移住が始まったのは3世紀初め頃、本格的集団移住は3世紀末頃だろう思われる。
時期を同じくして信濃川流域への集団移住と考えられる遺跡が増えている。むしろ移住者の大半は信濃川流域へ住み着いたのでは無いかと思う。
日本史で「古代」と言われる時代であり、大和朝廷の草創期(或いは黎明期)と時を同じくしているのは何を意味するのだろうか?
信濃川流域と魚沼盆地への集団移住は、やはり大和朝廷の拡張政策と大きく関係していたのではないかと考えるのが一般的なのではないだろうか。

  ♦ 信濃路は 今の墾道 刈株に 足踏ましなむ 履はけ わが背

   ( しなのじは  いまのはりみち かりばねに  あしふましなむ くつはけわがせ )   

昔、中学校(だったかな?)で習った万葉集の中の一句。
「信濃へ出兵する夫への情愛を歌った心温まる歌」、位にしか考えて居なかったが、意外に我々のルーツに密接に関係していたかも知れないなんて、ロマンですよねー!
でも、我々のルーツが信濃川上流からの移住民だとしたら、当時は大和朝廷方=敵方の兵士の妻が歌ったものだけど、・・・・ま、美しい歌には敵味方ないですね!

 

【地理的イメージと古代史の舞台】

 ♦ 広域 A (新潟県側・信濃川流域と魚沼盆地)uonuma kara sinano A.jpg

 ♦ 広域 B (長野県側・信濃川流域と関連地域)uonuma kara sinano B.jpg

南魚沼市・余川には【飯綱山古墳】と言う重要な古代遺跡跡が有り、そこはまた可憐なカタクリの花の一大群生地でもある。

 ♦ 飯綱山古墳群の入口から八海山を撮影、この日は古墳群全体がカタクリの群落だったiizunayama katakuri.jpg

一方、越後三山のひとつ【八海山】には八海神社が2つ有るが、現在の八海神社は何れも江戸時代から明治時代に活発だった山岳信仰を目的に作られた神社。
従って、どちらも八海山の登山口に設けられている。つまり「大崎口」と「城内口」、どちらも里宮と言うが本宮(又は奥社)は無い。山伏にとって山全体が本宮なのだそうだ。

話を戻して、2か所の八海神社であるが江戸時代以前については、かなり以前から何かが有っただろうとは思うが、資料・確証が無い。と、思っていた。
が、「城内口」に現在地から少し離れるが古代の【元祖・八海神社】跡らしき遺跡が有った事がわかった。
その場所が、下記添付写真の【長者原】である。

 ♦ 魚沼盆地の湖上を渡った古代人が上陸したであろう【出浦】と遺跡が有った【長者原】izuna-tyoujyahara 1.JPG

長野市の北北西に飯綱山と言う山がある。(“広域 B” 参照)
3世紀初頭の頃、この山裾を中心として恐らく現代の地名で、信濃町・飯山・信州中野・須坂・小布施・松代そして飯綱町を含む長野市内の大半を占めた、一大文化圏があった。
それは縄文時代から連綿と続く、現代の地名で妙高・高田・直江津や糸魚川地域との交流が活発に行われた事で、出雲や海外交易を中心とした日本海文化圏の影響を色濃く受けていた幾つかの豪族の集団支配地域だったと思われる。
一方、元々は日本海文化圏の一員だった豪族の中から、大和朝廷の影響を受けこれに組する豪族達が現われ始め、信濃川流域でもそのうねりの中に巻き込まれて行った。

 

【古代史 (ストーリー)】 ・・・・・以下はすべて小生の推測です

 1. 大和朝廷東進で、難民の一部 が現在地名・余川周辺へ集団移住

3世紀末頃信濃川上流(現在の長野県飯綱町を中心に信濃町から信濃川流域付近を)拠点として栄えた一族が居た。 (以降便宜上、飯綱一族とする)
時代は大和朝廷勃興期、その影響力が徐々に強まり臣従か拒絶かを問われる事になる。
4世紀中頃、現在の千曲市・更埴JCT 近辺 に勢力を持つ豪族を味方に付けた大和朝廷の締め付けに、飯綱一族の中で臣従を拒絶する人々が信濃川下流へ逃れて来る。 (勿論、飯綱一族以外の部族からの難民も多く居たものと思われる)
その中の一部の人々が新天地として選んだのが、現在の南魚沼市(六日町)・余川周辺である。

(注記) 
大和朝廷側に味方したと思われる豪族とは、広域 B の千曲市で更埴JCTから上信越道を上田へ向かって最初のトンネル入り口右側に、「森将軍塚」と呼ばれるこの地方最大の前方後円墳がある。
“森” と言うのは地名らしく、正式な氏族名は不明だがこの一帯を治めていた一族の墳墓と思われる。
此処から出土した三角縁神獣鏡のかけらから、中国産の鏡である事がわかり、この事や前方後円墳を許された事等から大和朝廷からもかなり重要視(王族待遇?)された豪族である事が推測される。

飯綱一族、彼等を共通の価値観で繋ぎ心の支えとなったのが戸隠山を中心とした山岳信仰だろうと思われる。
近世の山伏達の山岳信仰と違い、山そのものが御神体であり、遠くから、もしくは高台に登りそこから戸隠山を参拝する形式が主体であったのだろう。
年に1・2回 “飯綱山” へ登り、山頂から戸隠山に向かって祭祀を行った可能性も大きい。
  (後世の飯綱権現信仰などにも繋がって来ると思われる)

現代の風景で考えるなら黒姫山の方が祭祀に向いていそうだが、当時は活発な火山活動をしていたものと考えられ、人間を寄せ付けない山だったに違いない。(今でも山頂火口跡では地熱で雪解けが早いと言う)

大和朝廷の圧迫から彼等の一部が新天地を求めて信濃川を下り、多分津南から十日町の間の尾根から魚沼丘陵を越えて、満々と水をたたえた湖水の向こうに荒々しい峰々を天に突き上げる様にそびえる八海山を見た時、信奉していた戸隠山が重なっただろう事は十分に考えられる。

下の写真は現代の魚沼スカイライン・栃窪峠(塩沢・十日町線が交わる所)からのものだが、古代もこの様に見えたものと思う。ただ、此処から見える平地部分は殆んど湖水に覆われて、また魚野川上流はかなり奥まで湿地帯と灌木で、人の入植を拒んで居たとも考えられる。

 ♦ 魚沼スカイライン・栃窪峠からの守門岳から八海山2003.04.11 - uonuma SKL・totikubo touge.JPG

当時の湖水の水位を考えると、人々が居を構える為の大地は余川周辺と塩沢の上流域位だったと思われる。 (水位は海抜200mから250m前後)
しかし塩沢の上流から湯沢付近にはかなり広い台地があったと思われるにも係わらず、余川付近に比べて遺跡数が極めて少数だ。 やはり八海山全体の山容が見える地域へ集中して集落を作った、と思われる形跡が遺跡の発見場所と遺跡数の差からも推測できる。

この様にして現飯綱山古墳群が残る余川や上の原(上の台)付近を中心に集落群を形成して行ったものと考えられる。また余川一帯に移住した飯綱一族の繁栄が、6世紀頃まで続いた事は飯綱山古墳群が物語っている。
同様の年代、同じ様な規模・様式の古墳群が長野県の彼等の故郷付近に数箇所残っている事から、故郷の人々とも密接な交流があったものと思う。

6世紀と言えば、聖徳太子が活躍した時代である。

一方、山岳信仰の必要性もあってか、対岸・八海山の山裾に行く試みがあったと思われる。

 2. 【“出浦”(イズナ) と “元祖・八海神社”】 ・・・・・前出の写真【長者原】参照

八海山・山裾側の湖水の水位は現在の岡村から山口の間(海抜250m前後)と推定される当時、小舟で渡った人々は何処に上陸したのだろうか?
うってつけの場所は、まさに現在の “出浦(イズナ)” と呼ばれるその地だったものと考えられる。
なぜなら、傾斜のゆるやかな水辺には葦や雑木が繁茂しやすく、また蓄積した泥濘は現在の山口方面への人間の上陸を阻んだものと考えられる。
また、出浦も現在の様に奥地まで入るのは困難と思われる事から、上陸地点は出浦も入口付近と思われる。

さて、出浦に上陸した人々は陸路で現在の長者原に小さな居住地を作った。そして祭祀の為の小さな祠が作られた、元祖・八海神社の芽生えである
居住地と言っても、おそらく神聖な場所として祭祀を行うのが目的で、そこには施設を維持管理する為の人々が数人住んだ程度ではないかと思う。

時代が進み水位が下がると山口方面からの上陸が可能になり、やがて祠も便利な現在の地に移され、幾たびかの宗教的改変を経て、江戸時代から現在の八海神社になったと考えられる。

話は戻るが、“出浦”の命名について。

飯綱一族はすでに日本海文化の影響で、文字(漢字)を使う文化を持っていたと思う。しかし当時から出浦(いずな)と呼んでいたかどうかは疑わしい。
一方、舟の出入りする所を浦と呼ぶのは全国で共通の事実。
後世、その昔対岸の飯綱山近辺からの舟が出入りしていた事を (言い伝えなどで) 知る知恵者が“出浦”の漢字を当て字として“いずな”と呼ばせたのが真実ではないかと思われる。

 

【エピローグ】

飯綱山の周辺に住んでいたから飯綱一族とするなど、かなり無理してのストーリーでしたが、大きな流れとしてはそれほど違っていないものと思います。

「歴史とは点と点の史実・物証を想像で紡いだ小説」 と有名な小説家がTVで語っていたのを思い出す。

今迄殆んど語られた事の無い、「この時代・この地方の歴史」 について、興味を持つ人が一人でも増えてくれたら非常に嬉しく思います。

 

前回投稿記事の 【“魚沼”ってどんな沼?】 と併せてお読み頂ければ、この地方の地形の成り立ちとの関連もわかって来るのではないかと思います。
もし、まだ読んで居られない方はこちら 【“魚沼”ってどんな沼?】 をクリックして見て下さい。

 

なお、他のブログも見たい方はこちら 「♪ お暇なら来てよね!」 (テーマごとに分類した索引) からが便利です。

 

はちゃ! また!

 (南魚沼市地方の方言 : それでは!  また次の機会に!  ・・・の意味)

「魚沼」ってどんな沼?

【プロローグ】

私の出身地は現在の新潟県南魚沼市それも八海山の山懐・城内(合併前の村名)だが、自分の生れ育った地に付いて、なんで地名に“魚沼”が付くのか?  魚沼も“北” “中” “南”の3つの地域があるが、どの地域にも地名と結び付く様な“沼”が無い。
それなのに、何で“魚沼”なのか?  そんな素朴な疑問から文献や伝承みたいなものを探してみたが、納得出来る様な説明は見当たらない。
そこで、むかし衛星写真を分析する仕事をした経験が役に立つだろうと、調べ始めて気が付いた。

  • “はっけぇ様”(八海山の事=城内の方言)は、大昔は火山だったんだ !
  • “魚沼”は3つあったんじゃなくて1つの巨大な“ユの字形の湖”だったんじゃないか?

って事に !

そして、下記万葉集の一句が故郷の歴史と交叉しているかも知れない 【「故郷の古代史」と「八海山」】 も併せてご覧ください。

     信濃路は 今の墾道(ハリミチ:切り開かれた道) 刈株(カリバネ=切り株等)

       足踏(アシフ)ましなむ(=つまずいたり怪我しない様に) 履(クツ)はけ わが背(セ=夫)  

まずは現代の航空写真で魚沼地方のイメージを持って頂いた方がわかり易いと思うので掲載します。

 (写真は Google Map で地図表示付きとした)uonuma-kouiki-MAP (魚沼・広域地図).jpg

数億年~数千万年前、ユーラシアプレート・北米プレート・フィリピンプレートそして太平洋プレートが衝突し、日本列島が形成されて行った事は周知の事実。
そして魚沼地域はそのユーラシアプレート・北米プレート・太平洋プレートがちょうどせめぎ合う地域に符合する。
航空写真と中越地震・中越沖地震の報告書に登場して来る魚沼丘陵の隆起年代などを参考にすれば以下の様なストーリーが見えて来る。

 

【八海山と魚沼丘陵の誕生】

それは日本列島や日本海が、現在の形状になる過程での出来事から始まった地形と考えれば地形の成り立ちが推測し易いでしょう。

以下のストーリーは、あくまでも小生の推論ですが形成年代や数値の変動はやむを得ないでしょうが、形成プロセスはそれ程違っていないものと考えています。

およそ数千万年前、北米プレートの南端部に位置するそこには山頂の規模が現在の阿蘇山に匹敵する規模の外輪山を従えてプレート上を自重で沈む位重い、恐らく標高3000m以上の巨大な火山があったものと思われる。
また、西側には広大な扇状地を広げた旧信濃川が流れる平原が日本海まで続く光景があった。

約500万年~300万年前、太平洋プレートに圧迫された北米プレートが、ユーラシアプレートとの間に挟まれて西側へ、上に乗せた火山は自重で沈み込みながら、西向きに転倒し始める。
約200万年前、ほぼ現在の位置に来た時、火口のおよそ1/3を太古の信濃川河川敷に埋める事になる。

この頃には火山活動の原動力であったホットスポットは、現代の日光白根山、又は那須岳付近に噴出口の位置を変えた。
  (プレート移動を年間 50mm~80mm 前後として → 約80km~120km東へ移動した)

航空写真の分析をして行くと、この火山の内輪山・火口壁の現有最高地点が今の八海山であり、六日町の方向から見て
  左側は、池の峰 → 猿倉山 → 堂平山 → 鬼の面(オニのツラ)山 →(上原)
  右側は、阿寺山 → 高倉山 → 桂山 →(田崎)
と火口壁のなごりが囲んで内輪山を形成し、現在の下原から魚野川の地下深く辺り迄が八海山対面の火口壁だったものと推定される。
  (最も新しい噴火口跡、“溶岩ドーム”の形跡は山口付近だったと思われる)
そう考えれば、八海山の山容が峻嶮な岩峰である事、城内の一部を抱え込むかの様な山群にも説明が付く。

八海山の成因が火山である物証としてもう一つを挙げるとすれば、金属鉱床だ。
かなり以前に廃坑となってはいるが、東邦亜鉛の採掘抗があった。 普通、亜鉛の様な金属鉱床はマグマの様な高温と高圧の条件が無ければ生成されない。
つまり八海山の地下には過去にそう言う条件を満たす状況が存在したと言う証拠であろう。
ただし、先に書いた通りホットスポットが東へ移動しているので、現在は噴火の心配は全く無い。

また外輪山は、越後駒ヶ岳・中ノ岳・巻機山・金城山などによって構成されていたと推定して居る。

一方、かって太古の信濃川・河川敷(扇状地)だっ堆積物層は圧縮されて隆起し、現在の魚沼丘陵を(新潟付近まで) 形成する事になる。
   ☆ 魚沼丘陵が大河の下流だったことは各峠道などで玉石を含む堆積地層が露出している事など
   からも 証明できる。
   また、これらの点は地震や原子力関係の地質学的各調査でも、証明されている。
そして新しい信濃川が、現代の十日町付近から小千谷へ向かって流れ始めると同時に、魚沼丘陵で塞がれた地域はほゞ現在の魚沼盆地の形を形成。そしてその盆地は巨大な湖に成長して行った。
  (便宜上これ以降、この魚沼盆地側の淡水湖を【大沼 A】と呼ぶ事にする)
その後も地殻変動などで喫水の変動はあったものと思うが、人類が登場する頃以降は有史時代に入ってもかなり新しい時代まで、更に巨大になった湖が存在していたと思われる。 理由は後述。

 (魚沼盆地が湖だった頃の八海山を想像すると、こんな景色かな!)2005.05.20 -L N-001A 六日町・城内.jpg

 

【魚沼”のルーツ】

その後、中越地震を起こした断層が動いて魚沼丘陵に亀裂が入り、“大沼 A”と新信濃川をつなぐルート (堀ノ内付近) が出来、一旦ほとんどの水が流出したと思う。
その後も地殻変動や気候の変動で【大沼 A】の規模は縮小・拡大を繰り返したものと思われるが、最も大きな変動は【信濃川西岸の隆起】地震だと考えられる。
小千谷付近から長野県の飯山付近まで、長大な河岸段丘を作った大変動で、この時の力は想像を絶する巨大地震を生んだ事だろう。
  (数10万年~数万年前の出来事、今の所隆起年代特定などの資料が不足の為、小生の推測)

これにより信濃川の川口~小千谷間が堰き止められて、信濃川流域に【大沼 B】を形成し、やがて魚沼盆地の【大沼 A】と繋がって “ユ” の字形の湖 【超大沼】 を形成した。

  (便宜上この【超大沼】= 大沼 A + 大沼 Bを、以降は簡略化して【大沼】と呼ぶ事にします)

“魚沼”のルーツはこの【大沼】に由来するものでは無いかと思う。
古代人が【大沼】の形状が “ユ” の字をして居る事を認識して居たとは思わないし、魚沼丘陵を挟んだ2つの湖が実は繋がって居る一つの湖だと知る人もほとんど居かったのではないかと思う。
実際はどちらか一方の湖を見ただけでも【大沼】と認識する事と思う、そんな状況を記憶していた先人の言い伝えか、又は実際にそれを見た昔の人々が、大きな沼・【大沼】と言う意味で名付けたものと推測する。

話し言葉としての発音「大」が“オー”も“ウォー”も“ウオ”も混同され易く、後の世「魚」に変化して(もしくは変化させて)【魚沼】に変わって行ったものと考えられる。
また、【大沼】の最大期は長野県・飯山市付近にまで水位を上げていたものと思われ、縄文~古墳時代がこの時期に重なって見えて来る。

 

【古代人と【大沼】】 (縄文から古墳時代)

新潟県立歴史博物館の資料から“魚沼地域”で古墳時代以前の遺跡・史跡を調べた結果、添付の表になった。

uonuma-kodai iseki.jpg

注目すべき点は、信濃川流域(現在では合併して十日町市)には旧石器時代から古墳時代までの遺跡が115ヶ所も有るのに対して、魚沼盆地(湯沢~小出~越後須原)では同じ時代のものはわずか 8ヶ所しか見付かって居ない事だ。
また、所在の明確な十日町と 魚沼盆地 の遺跡の 標高 を調べたら、魚沼盆地では 海抜 200m~250m前後。
十日町の縄文中期位までのものはやはり海抜  200m~250m 前後、その後の遺跡を含めても海抜 200m 以上の高台に住んでいた事になる。
そして十日町の場合、例外はあるがほとんどの遺跡は現在の国道117号線から魚沼丘陵側に分布している。

中里村は更に標高が高い地域なので特に標高は調べて見なかったが同様で、ほとんどが国道117号線より山側に分布。 十日町地域と様子が異なるのは信濃川東岸の川岸がかなり急峻な所が多くなる為か、かなり山側に入り込んで分布している遺跡がある事だ。

津南町、こちらは古いもの程、清津川沿いに分布している事から、石器材採掘の為の住居跡が多いものと見られる。
 (今風に言えば、石器ビジネスの為の採掘場、東北の遺跡でも清津川産の石器が多く出ている)

話を戻そう、

河岸段丘の隆起で堰き止められた信濃川・下流域の最上流部に位置する遺跡に、小千谷市の三仏生(さぶしょう)遺跡がある。9月の奉納花火大会で有名な片貝に近い遺跡で、その標高は海抜 約 50m。
そこ迄の信濃川上流河畔の遺跡については、データの有る所(現・十日町市・下条付近から上流)の標高は、すべて海抜 200m~250以上で有った。

そこで、古代人と【大沼】に係わる疑問をまとめると下記の3点が浮上して来る。

 Q1 「三仏生遺跡と、その上流の流域遺跡との、標高差 150m~200m は何を意味するのか?」

 Q2 「信濃川流域の遺跡も魚沼盆地側の遺跡も、同じ海抜 200m~250m 前後のなのは何故か?」

 Q3 「十日町より上流の信濃川流域の遺跡数と、魚沼盆地側の遺跡数の極端な差は何故か?」

これらの事実は何を物語るのだろうか? 類推して行くと、次の様な答えが出て来た。

 A1 (Q1に対して)
    理由は、三仏生遺跡より上流域の遺跡では生活圏を標高差150m~200m以上の地域に選ぶしか
    選択肢が無かった事。
    原因は、河岸段丘の隆起で堰き止められ、信濃川と魚野川で作られた湖(ダム湖)の水位。

 A2 (Q2に対して)
    魚沼盆地側の遺跡の標高も信濃川流域遺跡と同じ理由で標高の高い場所が選ばれた。
     「魚沼盆地側も信濃川流域のダム湖も同じ水位、つまり両方の湖が繋がっている」
    と言う事であろう。 この事実があったからこそ【大沼】はひとつとの結論が見付かった。

 A3 (Q3に対して)
    信濃川流域遺跡で遺跡数が特に多いのは縄文時代以前の遺跡数103遺跡、一方同じ縄文時代
    魚沼盆地側の遺跡数はわずかに3遺跡。
    縄文時代、魚沼盆地側は限りなく住み難い所だったらしい。
    魚沼丘陵の山容から、信濃川流域の縄文人が1万年近く山を越えられなかったなんて考え難い。
       (縄文時代は、前期・中期・後期を合わせると約1万年もあると言われている)
    考えられるのは、山を越えても“彼等が住み付く事を許さない状況、又はメリットが無かった事だ。
    なぜか?
    推測の域を出ないのだが、魚沼盆地側は人の住める台地が極めて少なかっただろう事と、信濃川
    流域には石器時代からの 「物流ルートが出来上がって居た為ではないか」 と考えている。
       (糸魚川から東北へヒスイを運んだヒスイロードの一部だったのかも知れない)
    縄文時代とは言えそんな物流ルートに人が集まるのではないか、やはりルートから外れた魚沼盆
    地側には人々が定住しにくかったのではないか? と考えられる。
    縄文後期に入ると新しい遺跡は少なくなるが、古墳時代になると状況が変わり、魚沼盆地側への
    入植も始まった。

    もう一つの理由は湖(ダム湖)の水位の増減。
    縄文時代、約1万年もの間湖水の水位が常に一定だったとは考えられない。  そこで、例えば魚
    沼盆地側と信濃川流域が同時に水位が変動したとして、減水期に増える集落数が同じとしても高
    台が多い信濃川流域の集落は、比較的従来と同じ地域に近接して高所に居を構えるだろうと思う。
    一方、魚沼盆地側は高所の平地が少なく未開の所へ水位が下がって居れば、必然的に低地の居住
    地で集落を創る事になる。
    再び増水した時、どちらがどれだけ残れるか?  それが1万年の間に何回繰り返されたのか?
    例え一回だけの減水→増水だったとしても、魚沼盆地側の集落はほとんどが湖水に沈み、痕跡は
    泥濘の中に埋もれてしまった可能性が高い。

 

【エピローグ】

その後の歴史を眺めて行くと、魚沼盆地が歴史上確実な痕跡として登場して来るのは8世紀・平安時代の頃~11世紀・鎌倉時代の頃。
例え湖が無くなっても、大小の沼や湿地帯が散在する湖底付近まで人間が入植するには、更に100年以上が必要だったからであろう。

ちなみに、2009年のNHK大河ドラマ天地人で現在の六日町一帯を“上田の庄(荘)”と言う表現をしていたが、これは7世紀中頃に始まった荘園制度の名残りである。
とは言え、この地に荘園制度が伝わるのは40~50年後の8世紀に入ってからと思われる。

8世紀初めと言えば坂上田村麻呂が東北遠征を行っていた頃だ、その頃の“魚沼盆地”では広大な多くの湿地帯や大小の沼が多数残り、そこにはトキや鶴・コウノトリなどが自由に飛びまわっていた事だろう と思う。

【大沼】の一部で有った魚沼盆地、この湖底に降り積もったミネラルなどが 今日の“魚沼コシヒカリ”の源でも あろうと思われる。

なお、冒頭で触れた通り古代の魚沼と八海山については、【「故郷の古代史」と「八海山」】 の様に考察してみましたので読んで居られない方は、是非一度ご覧ください。

また、他のブログも読んでみたいと言う方はこちら「♪ お暇なら来てよね!」(テーマごとに分類した索引)からが便利です。

 

はちゃ! (南魚沼地方の方言 ・・・ それでは、またの機会に! の意味)

イチローの選択

今日、イチローの【マリナーズからヤンキースへ電撃移籍】と言う二ユースが流れた。
正直な所、不振が伝えられていた事もあり、今年あたり移籍問題が浮上するのでは? と、予感させ
られて居た所だけにマスコミのキャッチコピー通り “電撃” とは思わないが、移籍先をヤンキースと
選択した所にイチローらしさを感じる。

たぶん、水面下では何チームかとの交渉があり、最終選択をイチローみずから行ったものと思うが、
記者会見を見て居てNYヤンキースというチームの選択は、今回の話が浮上する以前からイチロー
の念頭にあったのでは無いかと思った。

いや、憶測でものを言うのはよそう。

とは言え、NYヤンキースを選択したと言う事は彼のチャレンジ精神の現われで、今度は個人記録
よりもチーム優勝が彼の新たな主目標ではないかと思う。
深読みすれば、彼の性格や年齢から考えて、「NYヤンキースを優勝させたら引退しよう」 なんて
計算もあるのかも知れない。

それにしても彼が日本でイチロー人気急上昇の頃の出来事を思い出す。

当時私は仕事の関係で名古屋に住んで居た。
仕事から帰ってTVを付け、イチローの対戦中継野球を見て居ると、マンションの隣家から奥さん
が来て 「すみませんが、他の番組を見るか音を小さくして頂けませんか」  と言って来た。

「音を小さく」 だけならわかるが、 「他の番組」 ならいいと言うのが分からない。

後で近所の人に聞いたらこう言う事だった、
 隣の家には昨年大学受験に失敗した受験生が居た。
 その学生が、イチロー イチローと騒ぐ世間の言葉に過剰反応してノイローゼ状態との事。
 要するに、彼の耳には 「イチロー」 = 「一浪」 と聞こえるらしいのである。
 家族にとっては思いがけない災難だったに違いない。

と言う、笑うに笑えない出来事であった。

そうそう、我等が級友・南魚沼市長も【イチロー】であった。 こちらは元気はつらつ、・・だと思う。
まだまだ、頑張ってもらわねば!
我々がこんな事を言って居られるのも、「安心して帰れる故郷があればこそ」 だから!

 

なお、続けて他のブログをご覧になりたい方はこちら 「♪ お暇なら来てよね!」 (テーマごとに分類した索引)からアクセスされると便利です。

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