突然逝ってしまった亘を偲んで………

おらが村の米作り風土記・秋編

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秋が来た

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村の掘割を往復していた山ドンボ(オニヤンマ)が姿を消すと、八海山の避暑地で夏を過ごしていた十五夜ドンボ(アキアカネ)が里に帰ってくる。

上図は法音寺方面から見た「へんぞ神社の森」

稲が実った。

そろそろ刈入れだ。

 

 

稲刈り

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稲刈りも一家総出の大仕事。やはり学校では稲刈り休み(農繁期休業)があった。

 

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ごったく(なんやかんやの雑仕事)

刈入れが済んでもごったくが多かった。

たとえば運搬。耕運機が入ってからは、これをリヤカーと連結して、動力でいけるから一挙に楽になったが、それまでは人力のリヤカー。

または背負う。首筋に禾(のぎ・稲穂についている小さなトゲのような毛)が付着し、シバシバする。

 

 

 

 

 

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重いなあ。それにしても重すぎる。

そう思って見てみると、なんと! いつの間にか妹がこっそり乗り込んでいる。

そのうえ、いさんそうに(気持ちよさそうに)のうのうと眠ってけつかる。

こらー! 降りろ。ばかたれ。

 

 

 

ハッテ架け

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ハッテ木

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ハッテは、ハサの木に竹竿を架けてつくった。

昔は街道沿いや田中の小道にいくらでも立っていたのだが、いま魚沼の地でこの木を見ることは、まずない。

材質は硬くてしなやか。台風で家屋が倒壊しても、この木だけはびくともしなかったという。またバットの材料にもなった。

生木でもよく燃え、火葬のおり、人ひとり焼くのに一本あれば間に合った。このため、老い先短い老人は、自分の「その時」用に予約しておいた。これをジサッ木、バサッ木といった。

ハサがまっすぐ伸びているのは枝打ちをくり返すからで、伸びすぎるとその枝打ちもままならない。すると上のほうの葉が傘のように広がり、陰を造り、収穫に影響する。そこである程度になると伐採した。

「こりゃあ、ちとでかくなりすぎた。そろそろ切るか」

「なんねえ。それはジサッ木だすけ」

ジサマが予約しておいた木を切って、家の前にでもこれ見よがしに積んでおいたひには、「おじいちゃん、準備オッケーよ。はよ死んで」と催促しているようなもの。

「そうだったなあ。やれやれ木は伸びるし、ジサマはしぶとくてなかなかいきそうもねえし・・・。ままならねえもんだ」

「そのこと、そのこと」

 

 

稲こき

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稲穂をこき落す作業。

千歯こぎはもうなかった。足ふみ脱穀機。

稲刈りが始まってからここまで約2ヶ月。

 

 

 

大型コンバイン

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それを今では、数時間で終わらしてしまうそうだ。

たまげたノンシ。

 

 

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そのあと、調整、俵詰めなどの作業があるのだが、もう子供たちは手伝わなくてもいい。

外で遊ぶ。刈入の済んだ田んぼもその遊び場の一つ。

 

 

供出風景

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自分たちが食べる1年分の俵を茶の間の隅に積み、あとは農協へ供出する。

食べるまでにはもう一つ、精米という玄米を白米に変える工程がある。

藤原には精米所がなかったので、ジケまで行った。

 

 

 

まんま(飯)

 

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「とと、まんまだて」は「お父さん、御飯ですよ」という意味。

古米がまだ残っているので、新米をいただくのは年明けというケースも多かったが、ともかくこれで自分達の口に入れることができる。

思えば・・・

雪消えとともに始めた米作りが、やっとここで終了。もう晩秋を過ぎて、初冬だ。

ととは「寒いな」と感じて、窓の外をのぞく。そのはず、朝から降り続いた雨にみぞれが混じりだした。

夜半には本格的な雪に変り、明朝は全面の銀世界だろう。

城内の里に初雪だ。

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亘の秀逸なイラストと文章に、若しかしたら邪魔になるのかもしれないが、百姓の跡取りを一時は目指したおいらの、半分は既に想像の域になっている想い出話。


親父たちが、俺たち子育て真っ最中の頃、春は先ず、そりでの肥え引きから始まった。
次が、まだ沢に雪の残る山に登っての柴木切り、いわゆる「ハルヤマ」だ。藤原のタヨサマの親父さんはこのハルヤマで、雪崩に遭って死んでいる。
そう云う切ない話は兎も角、ハルヤマでの楽しみは、メンパ飯だな。

雪が消えると田打ち。俺の家は牛を飼っていて牛にスキを引かせてやっていたが、そうでない家はあの田圃の端から端までクワで起こす訳だ。
その後、クワのみねで土を砕き、水を引いて平らにならし、その後田植えは勿論手植え。

除草機を転がした後、3回は田圃全面を這いずり回りながらの田の草取り。俺の家は除草剤を撒かなかったから俺もやらされた。爪がすり減ったもんだ。
ウンカだのニカメイチュウだのの防除も、くそ暑いなか容易じゃなかった。
畦草刈りも1度や2度じゃ無かった筈だし。

稲刈りも当然手刈り、バインダーなるものが入ったのは、俺たちのはたち前後か。その後、乾燥、脱穀、籾すり、精米と、一連の収穫作業が続いて、稲作業は終わる。

こうやってとった米も、農地解放までは半分近く地主の○○ゼェンドンに納めていた訳だが、この辺の記憶は当然俺には無い。
○○ゼェンドンは○○ゼェンドンで、用心の為にその年の米は蔵に残し、3年前の、酸っぱくなっていたであろう古米を順繰りに食っていたと言うが、持てる者の悩みと言うか、これはこれで容易じゃ無かったこった。

稲作業の合間に、三度か四度、ボコサマ(蚕=養蚕)があって、座敷の畳まで全部引っ剥がして家中蚕に乗っ取られた。
桑畑の作業も有るし、これも容易じゃなかったことだろう。

勿論、野菜は自給が当たり前で「百姓」と言う位に、多くの種類の畑仕事が、米や蚕の合間に有った訳だし。
夏は毎朝、山に行っての草刈り。これは牛や豚にやる為も有るが、そうでない家でも堆肥として積む為に、どこの家もやっていた。ハルヤマとこの朝草刈りで山はいつもきれいだったな。

秋は萱屋根ふきの為のカヤ刈りと乾燥、ここでもメンパが活躍した。
その後、ダイコだてと白菜つるし。それに菜っ葉の漬け込み。
それから雪囲い。

しかしこうしてみると、昔の百姓と言うのは、ただ体力だけ有ればいいってんじゃ無く、スケジュール管理と言うか労務管理と言うか、そう云う能力を他のどの職業よりも必要とした訳だ。
今考えるだけでアゲッポクなる(吐き気がする)ような、切れ目の無いこのムセェ数々の手作業を、兎にも角にも雪降り前にやり切らなかったら冬が越せないと云うか、生きて行けない訳で、俺みたいなノメシコキがトトをやっていた日にゃ、家族みんな、干乾しになるか凍え死んでしまうな、間違いなく。


冬は冬で、親父たちが出稼ぎに行った後、残った女しょと子供、年寄りで、雪掘りから道踏み、縄ないだの機織りなんかもしていたんだろうな。
それに子供の数も、どこの家でも今より多いのが当たり前だった訳で、一体どんな暮らしだったのか、そこに生まれ育った筈の俺も、今となって思い出すことも出来ない。

中でも取り分け、このきつさが集中していたのが、当時の「百姓の嫁」だった訳で、バアチャンが死んだ時、その写真の前で実の妹が「やっとおまえも、楽になったナエ」と静かに話しかけていたのは、心の底からの実感だったのだろう。


今は百姓仕事もみんな機械化されて楽になった。
しかし、当時には無かった、その機械の支払いが今度は逆に大変だろう。何しろ1台ごとに何百万円だ。
中山間地の上出浦近辺で、百姓だけで生計を立てている同級生が居る。ホント、シャッポを脱ぐ。

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