突然逝ってしまった亘を偲んで………

44・8水害

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昭和44年8月12日、あなたはどこで何をしていましたか?
翌13日には、時の自民党幹事長田中角栄氏が六日町を訪れています。
当時は城内も五十沢も六日町のうちだった。
角栄氏の目的も、その五十沢と城内。

 

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私はというと……43年も前の話、覚えているわけがない。
しかし14日には、紀伊長島の海岸で会社仲間とキャンプを張っていた。
古いアルバムの写真の横に「s44・8・14長島にて」と添え書きしてあることから分る。
青い海と白い波・・・ぎらぎら太陽がもえる。
私は、ルンルン気分で青春を謳歌していた。

ところが、その頃ふるさと城内は大惨事にみまわれて、壊滅の危機。

城内史上最大の水害は8月12日に起こるのだが―ー。
その2週間ほど前の7月31日、県下に大雨情報が流れる。
長く居座ってた梅雨前線が最後の大雨を降らし、ようやく梅雨が明ける。
だれもがそう思っていた。
しかし、8月に入っても雨は上がらず、1日、2日と続けて大雨雷雨注意報が発令される。
5日には台風7号がこれに重なった。

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その降雨状況を知るために、六日町役場の『八月水害記念誌』(S47年発行)を引用しよう。
ただの記録文だが、じっくり読むと臨場感が伝わってくる。
(なお、本作品で使った絵も『八月水害記念誌』に掲載されていた写真をイラスト化したもの)

 

 

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総雨量は五十沢が突出している。新潟・長岡の100ミリ前後に対して421ミリ。

で、城内は? ―ー記録にない。
ああ、よかった。五十沢は、いい気味。
などと、お隣の不幸を喜んでいると、とんでもないことになる。
天は五十沢の上にも、城内の上にも平等にバケツをひっくり返した。
ただ五十沢に計測設備があって、城内にはそれがなかったというだけの違いだろう。

12日が来るまでにも、他地域から鉄砲水、冠水というニュースが伝わっていた。
だから城内の衆もかなり警戒していたようだ。
消防団に加えて一般救助隊を組織し、見回りをかかさない。
また万一に備えて、宇田沢川に排水溝を掘ったりもした。
男衆がこのような仕事に駆り出されていたため、家は老人と女子供だけ。

災害が発生したのは、11日夜半から12日未明にかけて。
深夜1時過ぎ、闇を裂いてサイレンがけたたましく鳴った。
あっちからも聞こえてくる。その後は連呼だ。
何か、城内にとてつもないことが起こっている。
しかし、外は滝のような雨。しかも真っ暗。
どうすることもできない。
家に残された老爺(じさま)と女子供たちは不安に怯えながら、身を寄せ合っているしかなかった。

 

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夜が明けた。
ニュースは雨が下越に移りつつあることを告げていた。
老爺は、コウモリ傘を手におそるおそる外に出てみた。
周囲は、朝霧がかかったようにモヤにつつまれている。
遠くの方からざわめきが聞こえてくる。消防団が動いているのだろう。

そしてモヤの間から老爺が見たものは・・・。
たまげた。
景色が変わった。

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ふっ飛ぶ車

 

 

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会社のバス横転 幾人かがあわや命拾い

 

 

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広堀・山口間の道路陥没

 

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丸山橋流失

 

 

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山口分校前の道 水にえぐりとられて断崖もよう

 

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広堀川と祓川が合流する明川地区はもうムチャクチャ


4世帯が全半壊
「午後1時過ぎにドーというものすごい音がして2階の上ったが、間もなく水が押し寄せてきたため避難しようとしたが、とても逃げ切れないと思い、庭の前にある桃の木に家族3人でしがみついた」(明川・上村文子さん談『読売朝刊』より)
それで文子さんは助かったのだが、隣家の上村ハルさん(50歳)は死体で発見された。

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かわいそうに

 

上出浦橋流失

 

 

 

 

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下出浦橋流失

 

丸山、上出浦、下出浦橋を凌駕(りょうが)した濁流は、次の標的を長原橋に定め、猛り狂ったまま上原へなだれ込む。
しかし、勢いあまって「鬼の面(おんのつら)」のカーヴをカーヴしきれず、そのまま直進。
堤防を越えて城内中学校体育館と正面衝突。

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グランドは石と泥の海に化す

 

政府筋の対応は早かった。
翌13日には自民党幹事長・田中角栄、社会党代議士・稲村隆一、松井誠 来町。
同日、政府第1次調査団(団長・小川辰男農林政府次官)がヘリコプターで五十沢小学校に着陸。
14日には第2次調査団(団長・鯨岡兵輔総理府副長官)来町。

 

その五十沢はどうだったのだろう?

 

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清水瀬(しずがせ)橋 流失

 

 

小川橋流失

 

土沢橋流失・土沢発電所孤立

 

わらびの橋流失

 

 

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野中5世帯、舞台1世帯、深沢1世帯全半壊

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蛭窪(ひるくぼ)地区の上村伊三郎さん(60歳)死去。

 

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滝となった県道


これは三国川ではない。野中・六日町間を結ぶ幹線道路。
これが川になって、そこに滝ができた。畦地(あぜち)付近。

 


深沢橋流失

 

 

 

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三国川橋、真っ二つに割れる

 

すごい。

でも被害は、三国・宇田沢流域の山間部に集中している。

どうやら平野部(下原など)は大丈夫だったようだ。

 

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バカこけ。オレなんて鯉が逃げて、釣り戻そうと1日中がんばったどもダメだった。
(同級生の薫・上原)
ま、これはウソとして、次はホント。

 

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新堀新田もこの通り(『新堀新田の子どもたち・道』より)。

 

実は、前年の昭和43年に念願の土地改良が完了し、城内・五十沢併せて136ヘクタールの農地が完成していた。
この年は、そこに初めて作付けした。
そのうちの半分近い60ヘクタールが石ころだらけの川原と化す。

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(河原となった山口の田んぼ)

 

残りの半分も冠水して泥水をかぶった。
雪消えとともに丹精込めて育ててきた稲が、収穫間近になって総てパー。
一年分の糧(かて)を失った。
まさに城内壊滅。

 

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しかし、落ち込んでばかりいても何も始まらない。
とりあえず、寝場所を確保しなければ・・・そのための後片付け。
しかし、これがハンパじゃない

床下浸水一つとってみても、農家の場合はニワ(土間)に水がつく。
ここには囲炉裏(いろり)・釜戸など生活に直結するものが配置してある。米びつの置いてある家もある。
囲炉裏回りがやられ、敷いてあるワラやムシロが水浸しになって収集がつかない。

アッパンジョ(大便所)も、たいへん。
ここは、言っちまえば、床下に穴を掘ってそこに落下させる、という造り。
床下浸水すれば、中に水が入る。
するとアッパ(うんこ)が浮き上がり、土間のほうまで浮遊する。プカプカと。
かなわん。
しかしまあ、これは自分のしたものだからガマンするしかない。
それに、引き水になれば大半が下の方へと押し流されて出ていく。
だから、さして問題はない。
問題なのは、その下の家。
さらに最下部の家に至っては、部落中のアッパが流入してくる。
自分のでも、かなわんのに、他人のこいたアッパの片づけ。
やっていられない。

床上浸水になると。
流域地帯では衣類・布団はもとより、タンスや洗濯機が50メートルも下にふっ飛ばされている。
まして半壊家屋ともなると、もう手がつけられない。
そんな中でも、とりあえずの生活空間を確保しなければならない。

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そこで活躍したのが地元の消防団。
『八月水害記念誌』に載った写真を拡大してみると、印半てんの若者が大勢出てくる。
背中には「下原」「八木」などの部落名が白抜きされている。
これが消防団。
背文字は「城内支部・下原分団」あるいは「五十沢支部・八木分団」という意味。

 


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考えてみれば、
災害発生前から徹夜の見回り。排水溝の掘削。
発生時は人命救助、避難誘導。
発生後は、このように気の遠くなるような後片付け。
まさに消防団のご苦労は、言語を絶するものがあった。

「おれらの地域はおれらで守らなければ」そんな気概が伝わってくる。
この気概こそ、復興につながる精神。

 

 

かくして城内は力強く立ち上がる。

時代にも活気があった。高度成長期の上り口。
田中幹事長も、3年後には総理大臣にまでのぼりつめている。
例のだみ声を1オクターブ上げて、復興予算をふんだくってくれた。
―ーやもしれない。

復興計画の立案→予算確保→業者に発注→竣工。
これには対策本部長の六日町町長、それから県知事、地元選出の代議士、地元の業者、一般人の見舞い・援助……等々、
多くの方々に支えられたのは、言を待たないだろう。

ところで、消防団といえば。
中学くらいまでは、食らうわ食らうわ、城内経済の米びつを空にしていたイナゴの群れのような集団。
そう、あの団塊世代のワルガキたちが、もう21から22歳。
立派に成人している。
青年団や消防団においては、実働面で中核的な役割をはたす年ごろ。


私が何も知らず、長島ビーチでのんびり甲羅(こうら)干しをしているころ・・・。
彼らはがんばっていた。。
一番キツくてキタなくてカッコウの悪い、しかし一番根幹となる部分に取り組んでいだのだ。泥まみれで。
そんな地元の同世代の皆さんには、改めて感じ入るものがあります。

 

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再建した丸山橋)

 

 

それにしても……
あん時ゃ、みんな若かった。

 

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コメント(1)

昭和44年と言えばおいらが22歳の頃か。
言われれば大きな水害が有ったような気もするが、殆ど記憶が無いなあ。

それにしても写真を超える説得力、胸に迫る。
1級の資料だな。

あけごうの集落がまとまって旧東邦亜鉛住宅横に移転して来たのは、これによってだっけ。

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