こおろぎの歌(下原新田)
この章は下原新田です。
国道291号線の宇田沢川橋からスタート、管領塚(かんりょうづか)公園、鎮守様を通り、集落に入って、花水(下方魚野川べりにある小集落)まで下ります。
古戦場の面影
下流から宇田沢橋を見る
逆に宇田沢橋から魚野川方面を見る。五日町スキー場が見えてます。
16世紀初頭、長森ケ原の戦いという合戦があり、時の関東管領(かんれい)・上杉顕定(あきさだ)公が、この地に没しました。
ところで、私は子どものころ、長森ケ原とはでっきり暮坪の奥の山沿いの方かな、と思っていたわけ。
どうもそうではなく、宇田沢川に沿って開けた原地、具体的には古森、長森新田、さらに対岸の下原、下原新田を含むあのへん一帯の原地の総称のようです。
もちろん16世紀の話ですから今と地形はずいぶん違うでしょうが・・・。
すると、ここら(上図)あたりは、長森ケ原の真ん中になりますね。
ひょっとしたら、顕定が首をはねられたのもこのへんかもしれませんよ。
そう言われてみれば、何となく古戦場の雰囲気が漂っているような気がしません?
宇田沢川橋2景
街道(国道291号線)
路傍に菜の花がさかりでした。
管領塚(かんりょうづか)公園
上述した上杉顕定公の供養塔があります。
街道筋から八海山を見る
現在はきれいに開拓されて農地になっていますが、その昔は一面の薄野(すすきの)で、ここもやはり長森ケ原の一部だったのでしょう。
ところで――、
焼き場のあったサンショッカヤバ(西珠院裏の茅場)は、もうちょい下原寄りか?
私たちの子供のころ「焼き場の道」は「こうえん墓」とともに城内一おっかない場所でした。
鎮守様(稲荷神社)
こじんまりしているが立派は鎮守様ですよ。
しもしん橋
下原との境、石万川にかかる橋
集落内の民家
集落内にあるお地蔵さん。子安地蔵かな?
この集落は下原の新田ですが、下原の人たちだけで開拓したわけではない。
下原出身はボスの南雲さんと、あとは田中さん(だったかな)だけで、それ以外は泉、法音寺、暮坪といった城内各村、さらに遠く猿ヶ郷、川口町、堀之内町からと、他所からの移住者の寄せ集まり、だそうです。
寄せ集めと言えば聞こえは悪いが、そのぶん智恵やノウハウも集まるわけだから、城内しか知らない城内人の集まりよりは、はるかに発展性がありますよね。
江戸っ子だってもとを正せば、各地からの寄せ集まり。
そんなことから、最初は小さかった新田の村が、江戸後期には北城内の中心地的な村にまで発展しています。
明治期、最初に尋常(じんじょう)小学校ができたのが、ここだとか。
そのためか、ここは立派な家屋敷が多いようです。
道路に面して石垣があって、その上に植込みがあり、その向こうに庭があり、その奥に母屋がある、いわゆる城内の旧家の構造ですね。
もちろん家は現代風に建て替わっていますが、構造はそのままです。
下原新田の人・カズオさん
花水
最下部にある小集落。
魚野川のきれいな伏流水が湧き出たんでしょうね。それがたぶん花水という地名の由来?
御手の薬師
むかし宇田沢川に水がつき、上原の薬師様が流された。
その薬師像は手を欠損した状態でここに到着した。
それは上原へ返したのだが、後の時代、手が発見されて、その手をここに祀ったのだとか。
魚野川のほとり
魚野川との間には森があり、川の流れは見えない。
でも泉新田方面から清水川が流れ込み、
絵になる風景が多いようです。
トラックバック(0)
トラックバックURL: http://hakkaisan-photo.com/mt-tb.cgi/920
コメントする