かねの音の歌(法音寺)
この章は、名刹(めいさつ)法音寺を囲む集落で、集落名も法音寺です。
別称、じけ(寺家と書くのかな?)。
わたしの生家のある藤原とはお隣さん。
おばさんが嫁いでいたこともあって、私にとってはひとしお親しみのある集落です。
みつぶね様
集落の北東部は山がでっぱり、これが藤原との境界線になっていた。
みつぶね様は、その「でっぱり山」の中腹にあった。
ちょうどその下のあたりに九ゼンドン(屋号)の芋穴があり、よくそこにコウモリを捕りに行った。
※芋穴 イモの保存用に山麓に掘られた横穴。ミニ洞窟のようなのもで、洞内の上の方にコウモリがぶら下がっていた。
現在は近くに大きな道路(R479)が通り、でっぱりは削られて共同墓地になっている。
みつぶね様は、共同墓地のじけ寄りに引っ越していた。
法音寺
わたしたち藤原の子は、ここが法音寺の玄関口だと思っていた。藤原から来ると、ここにぶつかるもんだから。
正門は、もう一本右の道から回りこむことになる。
正門
鐘楼(しょうろう)
法音寺の大いちょう、薬照寺の大かつら、雷土(いかずち)の大けやき、これが南魚沼の三名木。
本堂
歴代住職の供養塔
古いものは南北朝時代のもあるそうだ。
手水鉢(ちょうずばち)
薬師様
忠魂(ちゅうこん)碑
第二次大戦の戦没者の氏名が刻印されています。
毎年8月の終わりに「忠魂祭」と称する大盆踊り大会が開催され、彼らの霊をなぐさめた。
山門わきの地蔵さん
いつもにぎわっていた法音寺
明治6年、ここに南城内村小学校ができた。
昭和40年代から50年代は幼稚園があった。
前述の忠魂祭には夜店なんかも出て、城内中の人が集まった。
鐘楼の下あたりに土俵があったので、村相撲も開催されていたのだろう(これは私の記憶にはないが・・・)。
大みそかの除夜の鐘つきに集まる人々。
そして、境内は子供の遊び場で、ここへ行くと必ず誰かいた。
このように、法音寺はいつもにぎわっていた。
今は閑散として、まるで人影が見あたらない。
どこもそうなんだろうけど、過疎が原因。
寂しいですね。
安寿(あんじゅ)様のいたお寺
法音寺の西南に位置し、私たちは「めんてら」と呼んでいた。前寺と書くのだろう。
正式寺名は亀福時。
愛宕(あたご)さん
亀福時の鎮守で、古池をはさんだ向う岸の丘の上にたっている。
愛宕さんには、じけの子供たちだけの行事があって、みんなして丘をゾロゾロ登って行く姿を垣間見たような記憶があるのだが、なにしろ隣村のことなので定かでない。
古池やきよし飛び込む水の音
いわで(屋号)の末っ子でキヨシ。わたしの従弟。
いつも愛宕さん下の古池に飛び込んで遊んでいた。
それで中耳炎になったーーそうです。
それから約60年たった今、どうしているのだろう?
東村山だったかな? そこで大がかりに英語塾を経営しているとか。
この前、伊勢参りのついでに四日市に途中下車してくれて、駅近くの居酒屋でいっぱいやりました。
急の話だったので、何のもてなしもできなくてごめんなさい。
集落内3景
はるか六万騎を眺むれば
法音寺集落は、城内の東南端に位置します。
それで、対極に当る西北端を見やると、向こうの方に六万騎山が見えます。
じけの森
むこうの集落は田崎。
城内八景
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