やまびこの歌2(中手原)
この章は、長者原(六日町八海山スキー場ロープウエイ駅)から中手原を通り、里宮(八海神社)に寄り、丸山橋に出るまで(道を朱色に塗ったコース)をたどります。
スキー場ロープウエイ駅
ハウスの窓から城内盆地が見える
スキーの師匠アキヤマさん
バス停
長者原四景
残雪(左)と芽吹き時(右)
初夏(右)と晩秋(左)
中手原への道
バス停から中手原までは、つづら折りとまでいかないが、道が蛇行しており、
祓川を右に左に見ながら行くことになる。
最初の橋を渡る
ここで祓川と、屏風(びょうぶ)谷から来た川が合流する。
それで、左手に大きなダム見えてくるのだが、わたしが訪れたのはちょうど秋の渇水期で、ダムはあれど絵にならない。
いずれ雪消え時にでも行って、ダムというより瀑布のイラストを描いて、ここに挿入するつもり。
振り返ると、正面にスキー場のコースが見える。
祓川の流れ
この川は里宮の裏を通り、ほどなく広堀川と合流して、明川橋下で宇田沢川に変わる。
第二の橋を渡る
といっても別の川にぶつかったわけではない。同方向へ進んでいる川と道が交差するため、その都度、橋を渡ることになる。
このあたりまで来ると、道と川がようやく離れる。
そして向こうの正面に杉林が見えてくる。
その杉林の入り口の所に細い道があって、右折すると、千の淵の脇を通り里宮の裏に横移動できるだが、今は草に埋もれ完全な廃道になっている。
左手に小さく見える小屋が、中手原へ到着したことを知らせている。
中手原
入口(スキー場方面からの)
開拓記念碑
中手原は第二次世界大戦の引揚者が開拓した集落。
いわゆる竣工記念碑なるものは全国どこでもよく見かける。築堤や農地改良など・・・。
しかし何も、自分たちが汗を流したわけではない。
ほとんどは補助金や交付税をもらい、業者に発注し、土建屋サンがブルやショベルカーを使ってやったこと。
が、ここは違う。
まさに自分たちで野を焼き、木を伐り、根を掘り起こして開拓した場所。
それだけに、この碑を見ていると万感胸に迫りくるものがある。
にもかかわらず、このような土地がどんどん捨てられ、全国の耕作放棄地は約40万ha(2010年現在)で埼玉県の全面積に匹敵するという。
開拓時代のイメージ図
畑から帰ってくるやカマドに火を入れ、囲炉裏を焚きつけ、風呂を沸かす。
ちょっと目を離すと、一番風呂にはタヌキが入っている。のうのうと・・・。
やまびこの子
昭和21年(22年かも)生まれのフクイチなどは、おそらく開拓者の第一子。
まさに「やまびこ」の申し子。
私が中二の時、初めて八海登山をしたのも、フクイチの先導によった。
もちろん学校では、、
「午後の写生時間は山とお天道様だけササーっと描いて、あとはサボって遊んでいた」(本人・記)
ということで、やまびこの子は勉強なんてチーともせん。
そのくせ成功して、今じゃ千葉に豪邸を建てて左うちわで暮らしているようだ。
あーあ、こちとら、カップラーメンをすすりながら絵を描いているというのに・・・。
華麗な避暑地
中手原を歩いていたら、ヒマそうなオッちゃんが声をかけてきた。
初夏になると、山頂がキラキラ光る。なんだと思う?
十五夜ドンボ(アカネ)の群れだそうだ。
梅雨時ヤゴから脱皮したアカネは、夏の間、高原で過ごす、という話は聞いたことがあるが......。
城内トンボの避暑地は、標高1800メートルの八海山の頂らしい。
ごうぎだノンシ。
しかし、あんな小さなトンボが本当に山麓から見えるのだろうか?
でも、世の中には蜃気楼などという不可思議な現象もあるわけだし、光線の関係で見えることもあるんだろうなあ。
集落内
開拓の集落も、八海山の山麓にスキー場ができるとペンション村と化し、城内一ハイカラな集落となった。
今はスキー人口の減少とともに、再び静寂が戻りつつあるようだ。
里宮
杉並木
手水鉢
社殿
4月の雪(同じく社殿)
池
雪消えのころには、この池に水芭蕉が咲く。
千の淵
かつては城内一の大きなダムだった。里宮の裏から簡単に行けたのだが、今は先述した廃道沿いにあり、普通の格好でそこまで降りるのは無理。
案内板
丸山橋を渡り、里宮へ向かうところに立っていた。
丸山橋(中手原方面から見た)
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