(下図は岩原の山頂から見た八海山)
国道17号線で赤坂(湯沢から石打に抜ける峠)をおりると、一気に視界がひらけ、南魚沼の田園風景が広がる。
右手のほうから、飯土(舞子高原上部のとんがり山)、巻機、金城の順で山なみが見えてくる。
はずである。
ーーところが、そうでもない。いきなり目に飛び込んできたのが、なんと、ずーっと遠くにある八海山。
進行方向と山なみの角度の関係でそうなるのだろう。
八海山は坂戸連峰を台座に敷いた大仏様のようだ。
図は中の島の魚野川べりから。
大沢あたりまでくると、金城巻機がぐっとせり出して、視界を独占する。やはり雄大だ。
八海山はというと、視界の隅におしやられ、小さくなってる。
なんで? 近づくにつれ小さくなるの?
塩沢・六日町と進むにつれ、金城山とこれに峰続きの坂戸山が前面に出てき、八海山は坂戸の陰に隠れて、その姿をけす。
二日町で坂戸山地を振り払うと、いよいよ八海山がその全貌を現す。
どっぴら→六万騎と続く枝峰(出浦から麓)。
高倉→桂と続く枝峰(岡から田崎)。
これを左右に従え、中央部に八つ峰がそびえる。
ここはあえて画像を出さないので、トップページに戻って、写真から雰囲気を感じとってください。
ここから山口に至る直線上が「八海山を見るに一番のアングル」になる。
六日町の庄の又(あたり)→新堀新田→野際→山口ということになろうか。
上図は新堀新田の鎮守様。下図は野際の下薬師堂寄り。その下は山麓のスキー場の駐車場からのもの。
今度帰省したらこの線上で写真を撮ってください。うまい具合に新堀新田の鎮守横から「城内中央線」なる本道よりまっすぐな農道がついていますよ。
そういったら、「バーカ、(一番は)五十沢の津久野からが常識」と反論した五十沢人間がいた。
黙れ! イカゾーごときが。
しかし、後日、その場に立ってみたら、なるほど、露払い役(左右の枝峰)とうまくマッチして、なかなかいい。
もしかしたら、トップページの写真もこっちの方向から写したのかな?
図は津久野にかかっていた三国川の橋。でも知らなかったなあ。こんな所に橋があるなんて。工業団地用かな?
17号線に戻ろう。上図は城巻橋から。
このあたりから、八海山は少しずつ横向きになってくる。
山の向きが変わるわけではないが、山頂に並んでいた八つ峰がだんだん重なり、最後はわからなくなる。
大崎まで来ると、もう、まるで違った山に見える。
話は変わるけどーー。
上越新幹線は、細長い南魚沼の地をそのまま縦断しているのだが、 南魚沼の地から見ることができない。
湯沢の高半ホテル横から、浦佐の手前まで、すべてトンネルの中。
したがって、新幹線と八海山を同じアングルに入れようと思ったら、このあたり(浦佐に近い芹田)になる。
浦佐を過ぎると、水無川が魚野川に合流して南魚沼の地が終わる。
図は合流点から八海山を望んだものだが、あの橋を渡ると「これより魚沼市」という看板が立っている。
それにしても「魚沼市」と「南魚沼市」ーーややこしいなあ。
いっそ合併したら。今度、だれか市長さんに頼んでみてよ。
写真に勝る親近感、何とも言えない温もりを感じさせるペンタッチで故郷の情景
を描く亘氏に感服。
加えてユーモラスな味のある添え書きも、挿し絵と相まってその効果を相乗させ
ている。
見事に「現代と我々が故郷に居た昭和の時代」を融和させた、懐かしい風景だ。
ふたたび、御著書の「八海山のほら」の内容を思い起こしています。