ブナの木の歌(妙音寺)
この章は、白山様の麓、妙音寺集落です。
※妙智堀(みょうちっぽり 藤原雷電様の水源から、この堀を使って水を引いている。
昔は、ちょうど山と里の境界線を流れる風雅なせせらぎだったが、現在は塩ビのパイプを通しているようだ。
草木が茂りすぎたため、やむをえない措置だろうなあ。
妙音寺の遠景
(県道・薬師堂あたりから見る)
集落最上部(岡寄り)の豪邸の池
最下部(藤原の方)から見た妙音寺集落
地蔵堂(たぶんここが野際との境)
近くにほうけたウドが大株が茂っていた。
民家2景
妙音比丘尼の墓
ところで、妙音比丘尼(みょうおんびくに)って何もの?
藤原麻呂公の奥方説に異論を唱えるつもりは全くありませんが、
私個人は――
本当は、そんな人はいなかった。
と言ってしまえば、みのふたもないので、、
①ごぜ(盲目の女旅芸人)に関連したお方。
②そのごぜの信仰の柱である妙音講のお師匠さん(的なお方)。
――じゃなかろうかと、イメージしています。
唐突すぎて、そんな説、誰も相手にしないだろうけど。
白山様へ
妙音比丘尼の墓の後ろから山道がついており
登り切った所に白山様がある。
社(やしろ)
奥の院の大石
祭神は白山姫命、ご神体は奥ノ院の大石。夫人のお産、眼病の治癒に効くそうだ。
ブナの木
ここからブナの枝越しに望む五日町方面の展望は素晴らしく、昔はどこぞやの名所に例えられた。
そのため眼病の治癒祈願を兼ね、この絶景を見に遠近から参拝に来る人も多かった、という。
現在は成長した杉に阻まれ景色は見えないし、大石も神社の戸がしっかり閉まっているため見ることはできない。
だから訪れる人は、ほとんどいない(と思う)。
ブナの幹には、よく子供たちがカナクギで文字を彫って遊んだ。
相合傘のマークの下に、自分の名前と好きな子の名前を並べて掘るというアホの子もいた。
この文字は永久に(でもないけれど、たぶん10年、20年は)残る。
今見ると、ほとんど風化しているが、痕跡だけは残っている。〇〇悦雄という文字が解読できる。
階段
山道は途中で二手に分かれており、一方の道は神社入口につながっている。
神社入口
階段を降りたところに、ネコのひたいほどの空間(境内?)と、鳥居と手水鉢と、小さな社がある。
この手水鉢の水がたぶん藤原の雷電様から引いた水
思い出の昭和・浪曲興業
そのネコのひたいほどの境内で、戦後間もないころ、若き浪曲師・南條文若が興業をぶった。
まさか、こんな小空間では興業なんて無理だろう。
今見るとそう思うが、当時は山沿いに道があり、部落がここまで伸びていて、筋向いに家が2軒並んでいた――ように記憶している。
すると境内プラス道路、プラス民家の庭を含めれば、観客席ができないこともない。
旅回りは、昼の興業が終わると、夜は村の旦那衆の家に泊る。
宿賃がわりに、ここでも一席ぶつ。
これを聞きに村人が集まってくる。
この一席をもって文若の仕事は終わるわけだが、
気さくで、常に「お客様は神様です」と思っている彼は、村人のリクエストに応える。
「何でもいって下さい。別に浪曲でなくてもいいですよ。歌でも歌いましょうか?」
そう言って歌った。事実、文若はうなる時より歌う時のほうが楽しそうだった。
もうお気づきの方も多いと思いますが、この若き浪曲師こそ昭和32年『チャンチキおけさ』で大ブレーク、後に国民的大歌手になった三波春夫その人である。
(正平の話を少しアレンジしました)
城内八景・白山の暮雪
トラックバック(0)
トラックバックURL: http://hakkaisan-photo.com/mt-tb.cgi/911
コメントする