こもれびの歌(藤原)
この章は藤原です
何を隠そう、昭和22年3月16日に、私はこの集落に生まれました。
18才で家を出てもう50年になります。
実家なども出てきますので、他の章に比べて少ししつこくなりますが、あしからず。
藤原遠景
へんぞ方面から
オー ベェビー! よくぞご無事で
ほぼ60年前、藤原に水道がひかれた時、集落内に水飲み場ができた。これはその一つ。
場所は藤原の玄関口ともいえる角で、ここに消防小屋があった。
消防小屋はなくなっていたが、水飲み場だけはそのまま残っていた。
、
それにしてもオミャーサン、のっこくなった(縮んでしまった)ねえ。
昔はオイラの胸のあたりまで(の高さが)があったのに、今は腰ほどもねえ。
かやぶき
やはり60年前と変わらぬかやぶきの民家。
雄さんの実家です。ご本人は渋谷在住。
でも、この前のゴールデンウイークに取り壊しに帰ると言っていたから、もう無くなっているかも。
こうしてまた昭和が消えていくんだよね。
かやぶき屋根もさることながら、その入口にある建物(牛舎跡かな?)がまた、風雪を感じさせます。
主の居なくなった廃屋にノウゼンカズラだけが勢いよく、そして見事に咲いていました。
タガどん(お隣さん)の老松
実家
裏の棚(たな)
実家裏からみた八海山2景
平成の子たち
たまさか帰省しても、遊んでくれたのはこの子たちだけ。
ところが、
しばらく帰らないでいたら・・・
エーッ、もう成人式だって!
んなバカな。
いや、それは先おととしの話だから、えーと、今年でいくつになるのだろう(H28年)。
みんなメゴい(可愛い)子だよ。
秀さんの実家
盆がまたく来りゃ思いだす
ここへ立つと、変な組み合わせだが、、盆とゆうごうを思い出す。
あのころはたしか、まだ上図右手の家はなく、そこにゆうごう棚があったような、違うような?
思い出の昭和・かんぴょう作り
鎮守様への道
盆踊りは、集落より少し上手にある鎮守様でおこなわれた。
家並みが切れると、鎮守様までの道のりは真っ暗。
そのため、青年団が要所要所に灯ろうを立てた(といっても手作りの提灯のようなもの)。
その中を少女たちが鎮守様へと急ぐ。
彼女らも、この日ばかりはきれいな浴衣を着、うっすら化粧をしていた(母親にしてもらったのだろう)ように思う。
そのため、普段は掘りたてのゴボウのように真っ黒な彼女たちの顔が、灯ろうの明かりに白く浮かぶ。
晩夏の夕暮れ・・・、まっ白いゆうごうの花・・・、鎮守様へ向かう少女たちの顔・・・。
これが私の思い出の中でひとつになり、盆とゆうごうが重なっているのかもしれない。
鎮守様
社殿
石床
手水鉢
清酒八海山の仕込み水伴っている名水。
県外ナンバーの車がよく水汲みに来ている。丁度、埼玉県から水汲みに来ていてる人と出会った。
雷電様への道
里山という表現がぴったりの日当りのいい道だったんですが、いつの間にか杉が成長して、うっそうとしたスギ林になっていました。
やぶ蚊が多いのが玉にキズで、この先にある雷電さまのイメージをダウンさせているようです。
エンテ(堰堤)
せんの滝
雷電様
しだれ桜
集落最上部のあたり。
道祖神
しだれ桜の近く。
こんな所に地蔵さんがあったのは知らなかったなあ。
確かこのへんに毘沙門堂があって、子どもの遊び場の一つになっていたのだが、なくなっていました。
毘沙門様は藤原の共有物だと思っていたら、どうやら岡村の所有物だったらしい。
「なくなっちゃったね」と言ったら「おう、オレが取っ払った」とクウジ(屋号)のチアキが言っていいました。
南通り
藤原に、北通り、南通りなんて言い方はないけれど、
しだれ桜下の三叉路を、右に下る通りを北通り、左に下る通りを南通りと仮称します。
集落から少し離れ、法音寺の方から見た藤原です。ここからだと、八海山がよく見えますね。
六百刈(ろっぴゃっかり)
集落が終わり、その下部に広がる藤原最大の穀倉地帯を六百刈と言った。
それは確かこのあたりだったと記憶しているのだが、今はセメント工場(みたいなもの)が建っていました。
池田原2景
野際方面を見る
野際から見た池田原
万年堂
上原から来て、法音寺集落に入るちょっと手前の道路わきに、万年堂があった。
大きな石があり、その上にエノゴミ(榎?)の大木がそびえていて、街道筋で見かける一里塚に似ていた。
よく木に登って遊んだもんですが、木登りでとは「登りより下りのほうがおっかい」ということを、その時知りました。
図はイメージ図。
やはり野に置けおりょう塚
これは昭和中期まであった「新堀新田・岡間」を結ぶ南城内村の幹線道路。
図は藤原を少し出た所から八海山方面を描いたもの。
向かって左が野際、右が妙音寺。道が消えるあたりの右手の小さな杉林沿えに「おりょう塚」があった。
その昔、この地で果てたといわれる巡礼「おりょう」の墓である。
しかし現在、このへんは開拓されて一面の田園。
すると、おりょう塚はどうなったのだろう?
数年前に帰省した折、そのことを聞いたら、どうやら岡村の墓所に移したらしいという答だった。
で、訪ねたことがある。
あらま、岡村サンとこはリッチになったとみえ、そこはすごく立派な墓所で、近代的な万霊塔やピカピカに光る墓石が並んでいた。
そんな中、上手の方に古い石塔だけ集めた一角があった。
すると、おりょう塚はこれかな?
違うようだなあ?
結局わからなかったが、ま、いっか。
おりょうさんもリッチな岡村グループに入れてもらって、リッチな死後をおくっていることだろうから。
と、思う反面・・・、
やはり、草道にポツンと立った墓標のほうが、さすらいの巡礼おりょうには、似合うような気がしないでもありません。
子供のころ見たおりょう塚のイメージ図
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