くりの実の歌(上・下出浦)
この章は上・下出浦(かみ・しもいづな)集落です。
ともに宇田沢川の北に位置するため、行くには橋を渡ることになります。
まずは、上出浦(かみいづな)から訪れてみましょう。
くりのみの里・上出浦(橋の向こう)
上出浦(かみいづな)遠景
県道から宇田沢越しに見た上出浦の山.
バス停
ここは上出浦ではありません。上薬師堂の県道にあるバス停。
そこでバス待ちしている老女がいた。
「おバアちゃん、どこへ行くの?」
「六日町」
「で、おバアちゃんは薬師堂の人?」
「いや、あたしゃ、橋の向こう」
「上出浦だね]
バスが来るまで時間があるようなので、お婆ちゃんと少し話をしてみました。
「ところでおバアちゃん、100年、いや80年ぐらい前かな? 藤原から上出浦に嫁に来たって人、知っている?」
「長ザエモンどん(屋号)。いい人でね。子供のころ、アタシらが遊びに行くと、よれよれ(家に上がれ)といってチチや卵をくれたもんです」
チチとは牛乳のことだろう。つまり当時の長ザエモンは牛や鶏を飼っていたということ。
「いい人」と言われりゃ悪い気はしない。
何を隠そう、そのいい人は、私の実家から嫁いだ人で、私の大叔母にあたる。
私には幼児期に、ほんのかすかな面影があるだけ。
上出浦にはそんな親族がいたのだが、私自身はまだ橋を渡ったことはない。
というわけで今日はひとつ、その橋を渡ってみよう。
上出浦橋
上出浦集落
ところで、長ザエモンはどの家かな?
通りに人影が見当たらない。したがって聞く人もいない。
けっきょくわからなかった。
ま、いっか。別に用があったわけじゃなし。
鎮守様・小鷹神社
民家が切れて山にぶつかったところに鳥居が見える。鎮守様のようだ。
ところが、鳥居をくぐっても社(やしろ)は見当たらず、山道が続いている。
イナリ様(と思われる)祠(ほこら)の前で大きくカーブすると、
いきなり道がストーンと谷底に落ち、Ⅴ字形に石段がついている。
登り切ったところに小空間があり、そこが鎮守様。
へえー。
意図的にここを選んだのか? それともほかに地所がなかったのか?
じつに風情のある場所に建てたもんだ。
正月になると、雪の中、若い衆が下の方から道踏みをして、村人が鎮守様に集まったもんです。
これは先述のバス待バアちゃんの話。
「よなべ会」
Uターンして、橋を渡りなおす。
すると、来る時は気がつかなかったが、橋を渡り戻った所、
ちょうどトミオカホワイトホワイト美術館の軒下を借りたような場所に野菜直売場があった。
H24年の話だから、今はないかもね?
「コラ! おやじ。持ち逃げすな」
「イヤー、ハハハ・・・」
思い出の昭和・いつか来た道
この風景は、間違いなく、八海山に行く途中で見た懐かしい風景なのだが、県道(上原―山口間)のどこにも見当たらない。
実は――。
昭和40年代に行われた区画整理の時、県道を南寄りに(宇田沢川から離して長福寺脇まで)横移動させた。したがって県道からこの風景が消えた、のだそうだ。
「あんまりカシコクないもんで(区画整理の設計者が)そうなった」
これも、さっきのおバアちゃんの話。
しかし、よく見ると宇田沢沿いにもう一本道があって(農道かな?)、そこにこの風景が残っていました。
上出浦に別れを告げ、いったん県道に出て、上原方面に向かって下ります。
しばらくすると、県道沿いに下薬師堂があり、
下出浦へ行くには、ここの十字路を北に曲がって橋を渡ります。
下出浦(いもいづな)遠景
下薬師堂より見る
くりの実の里・下出浦
下出浦橋
鎮守様(石神神社)
城内に鎮守様は集落の数だけあれど、畳敷きはここだけじゃないかな?
境内
境内は滑り台とか子供の遊び場になっているが、かんじんの子供の姿が見当たらない。
全国的にそうなんだろうなあ、少子化で。
集落内
城内に人類が住みだしたのは八海山段丘地帯(長者原等)。
彼らは次第に里へおりてきて、宇田沢川北の窪地のようなところへ居住しだした。出浦や暮坪ですね。
――と推定できます。
それで、一時期、まだ上原や下原に家のない時代、この出浦集落が城内の中心地だった。
その証拠に、こに長者が住んでいた。
「加藤東家はせんなみ長者の子孫である」
という文献も残っています(平凡社・『日本の地名』)。
城内八景・出浦の青嵐
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